帰郷――1
このように、シャーキャ族のゴータマ・シッダールタが成道したという知らせは、広く国々へと伝わった。それを最も喜んだのは、父のシュッドーダナ王である。
かつて六年の修行の最中には太子が亡くなったと知らされたが、王はこれを信じなかった。そして今や仏陀となった我が子に、シュッドーダナ王は一日も早く会いたいと望んだ。
(齢も七十半ばを過ぎ、私もいよいよ老いた。せめて死ぬ前にひと目でも……)
王は気力体力ともに弱っていく自分自身を感じていた。
そこで使いを幾人となく南に下らせるのだが、一人として帰ってこない。彼らは皆、帰依して修行に励み、使いのことを忘れてしまっていた。
それを知らない王は苛立ち、憔悴した。
「どうしたことであろう」
シュッドーダナ王は玉座に坐り、嘆息する。
(誰も、この父のやるせない想いを伝えようとしない……)
王は、カールダーイを呼んだ。
「幼き頃よりの友ならば、太子も話を聞くであろうし、そなたなれば我が心も伝えられよう」
カールダーイは王の前に跪いて云った。
「王命、確かに承りました。けれども、一つ条件がございます」
「何か」
「私に出家をお許し下さいますよう。さすれば、使命を果たすでありましょう」
王は傍らに侍していたカールダーイの父を顧みた。
息子の決意を知っている大臣は、寂しげに頷く。
「……良かろう。必ずや、太子を帰らしめるように」
シュッドーダナ王は許しを与え、カールダーイを送り出した。
(太子がカピラヴァストウを出ていかれてから、すべてが色あせた。太子の帰城をうながすのは王への最後の忠義、出家するは我が太子への信と忠節がため……)
マガダ国へ入ったカールダーイは霊鷲山へ登り、世尊に会う。
(太子……)
彼はなつかしいその姿を目の当たりにし、涙にくれてしばらく声も出なかった。
(やはり私の居場所はこの方のそばにしかない)
カールダーイは法を聴き、出家してやがて覚を得ることが出来た。
そして折をうかがっていた彼は、極月の満月の日、世尊に見えて歌をうたい、その心を動かそうと試みた。
「世尊よ、樹々はいま紅に染みなし、果はまさに、実らんと、古葉散らして、炎の如く輝けり。
暑さ寒さ、程のよければ、今は遊行の時なれや、いとも楽しき季節ぞかし。
みくにの人の世尊を、見奉る(まつ)ことを得らるよう、西に向かいて、ローヒニの河を渡らせ給え。
望みのありて、田をば耕し、望みのありて種子こそ植えめ。宝をもたらさん望みもて、商人海に入るならい、そがためここに留まりし、我が望み、いかでならざらん」
世尊はこの歌を聞いて、家族教化の時が至ったことを知り、多くの弟子を率いて北方の郷里へと向かった。
師の一行より先んじてカピラヴァストウへ入ったカールダーイは、まっすぐに王宮へ向かい、シュッドーダナ王へ復命する。
「太子が戻ってくる……」
待ち望んでいた知らせを聞き、王はしばらくぼうっと視線をさまよわせた。しかし、すぐ我に返り、
「迎える用意をせねばな」
いそいそと玉座から立ち上がった。
そして数日後、カピラヴァストウにやってきた沙門の一団を、シュッドーダナ王とシャーキャ族の人々は郊外にある尼拘盧陀樹園を清めて招じ入れた。
「緑多くこぢんまりとして、何処かなつかしさを感じるところであるなあ」
師の伴をして、初めてこの国へ足を踏み入れたシャーリプトラは、園林の木陰に坐り、独り言を云った。今まで故郷のマガダ国を出たことのない彼であったが、城市のたたずまい、田畑の広がる野やそこに点在する林の風景など、過去に何処かで見たような懐かしさを感じていた。
「それは、我らの師が生まれ育った国であるから」
友の言葉を聞きつけたマウドガリヤーヤナが微笑む。
「シャーキャ族は勇猛であるというが、なんとも優しい人達だな」
丁重なもてなしを受け、二人は良い印象を持った。ところがそれはすぐに覆る。
一族の者が園林に集まり、彼らの師が法を説くために座についてもシャーキャ族の長老たちは礼拝をしようとしなかった。
「ゴータマは私達よりも若いから、彼を拝するには及ばぬ。若い者は前へ出て拝むがよい。私達は後ろにいよう」
年長者たちはそう云って世尊を拝むことを潔しとしなかった。
(何という高慢な人達だ)
シャーリプトラは驚くとともに呆れた。
(道を求むる出家には大王と畏れ敬われるマガダの国王でさえ、頭を下げ、供養を行うのだ。髪を切り、髭を剃って黄衣を着るということは世俗のすべてを断ち切るということ。それを知らぬはずはないのに、ここの年寄りたちは、ただ一族出身の若い者であるというだけで世尊を軽んじておる。今や大沙門となられた御方であるのに)
「シャーキャ族には驕慢の癖があるという噂、真実であったようだな」
マウドガリヤーヤナが友にだけ聞こえるようにそっとささやき、肯いた。
その一方、長老たちが前へ進もうとしないので、みなざわついている。
と、そのとき、釈迦牟尼世尊の体が少しずつ浮き上がり、人々の目の前で空へ昇っていこうとする。
「ああ……」
「どういうことだ」
困惑の声はやがて驚きのそれへと変わり、ひとしきり大きくなったあと、静かになった。
(世尊は彼らの驕慢な心を砕こうと、神変を現されたのだな)
上座の弟子は一様に思ったが、みな言葉にはしなかった。
この奇跡を見たことで、まずシュッドーダナ王が進み出ると、彼らの血筋から出た仏陀の身体はやっと地に落ち着いたのだった。そして王が世尊の御足を拝し、他のシャーキャ族の人々もまた頭を垂れて恭しく礼拝する。
そこで釈迦牟尼世尊は、ベッサンタラ太子の話をした。
「昔、シビ王がその国のジエトタラ市に君臨しておられた。王にはサンジャヤという王子があり、年頃になったので、マツダ王の姫プサテイーを娶らせて王国を譲られた……」
そのプサテイーが帝釈天の恵みによって産んだ王子がベッサンタラであった。王子は八歳のとき一切を布施するという誓願を立て、それがために王国を追われ、さまざまな苦難に遭う。
巧みな世尊の話しぶりにシャーキャ族の人々は引き込まれ、聞き入った。そして神の試練を経たのち幸福な結末が語られて終わると、彼らは大いに喜び、林を辞して帰っていった。
(この人たちは、単に物語を楽しんだのみであるようだ。その中に含まれている意味に気づこうともしない)
布施の功徳を説いた法話を聴いたばかりであるにもかかわらず、一族の誰ひとり翌日の食事に招待しないのを見て、シャーリプトラは思う。
一方、のちに神通第一といわれるマウドガリヤーヤナは、このとき不吉な予感を覚えた。
(この無知と高慢が凶事を招かねば良いが)と。
そしてあくる日、彼らの師は鉢を取ってカピラヴァストウへ入った。
誰も家へ招ずるものなく、また鉢をとって食を盛るものもない。
「シッダールタ太子が托鉢しておられる」
と、街の人々は窓を開いて、珍しそうに眺めた。かつては畏敬の念をもって仰ぎ見ていた者たちが、今は好奇心も顕わに無遠慮な目を向ける。
「何としたこと!」
これを聞いたシュッドーダナ王は驚き悲しみ、身支度もそこそこに手には衣を掴んだまま街路に走り出て、我が子の前へと立った。
「あなたは何故、吾々を辱めようとなさるのか。何故に食を乞うて歩かれるのか。吾が家で、これだけの出家の食を得ることが出来ぬと、思われるのか」
肩で息をし、白い髪を乱した王は、そう云って責めた。
「大王よ」
しかし『目覚めたる人[ブッダ]』となったシッダールタは、静かに応える。
「我々の祖先もまた、この托鉢をやってきたのです」
「何といわれる」
先祖を貶められたと感じたシュッドーダナ王は気色ばんだ。
「吾らはオッカーカ王[甘蔗王]の末裔、吾が家系には一人の乞食も出したためしはない」
王の瞳に怒りの色が浮かぶ。
けれどもゴータマ・シッダールタはかまわずに続ける。
「大王よ、その家系はあなたの家系であります。私の家系はディーパンカラ[燃燈仏]以来の仏の家系。これらの諸仏は托鉢し、乞食に依って生命をつないだ方々なのです」
これを聞いて王は、はっと息を呑んだ。
(眼前にいるのは、吾が血を分けた子でありながら、もはや息子シッダールタではない。すべてのしがらみから離れた出家、聖者なのだ)
シュッドーダナ王の肩が、がくりと落ちる。そして王はかすかに笑み、鉢を取った。
「アシタ仙人の予言は、確かに成就したのだな……」
それは望んだ結果ではなかったが、王はこの事実を苦いものを飲み下すかのように受け入れた。しかし寂しさの内にも清々しい喜びが湧き起こってくる。
「どうぞ、吾が宮へ。シャーキャ族の聖者よ」