八正道と四聖諦――1
林を出たのち、シッダールタはまずアーラーラ・カーラーマを訪ねようとした。
(彼は学者であり賢人であって、曇りの少ない人である。カーラーマはこの法を了るであろう)
しかし、村人たちの話から、彼が七日前に逝くなったことを知った。
(ああ……、アーラーラ・カーラーマの死は大きな損失であった。されば誰に法を説こうか。……ラーマの子ウッダカも賢い学者であるから、彼にこの法を伝えよう)
そう考えたが、ウッダカもまた昨日亡くなったことを知り、その損失を嘆いた。そして、シャーキャ族の五人の出家のことを思い出した。
(あの五人は、私が苦行を修めている間、給侍してくれた大切な人々である。まず彼等にこの法を伝えよう)
シッダールタはこのように思い定めて、ウルヴェーラを発ち、カーシー国にある鹿野苑へ向かった。
途中、道でアージーヴィカ信者[邪命外道]のウバカ(優婆迦)に会い、声をかけられた。
「卿の姿はまことに寂かで、浄らかに澄みきっている。卿は誰について出家し、どういう教えを奉けていられますか」
これに対して、シッダールタは偈で答えた。
「我は戦いに勝てり、いまは智慧 勝れ、
すべての法に汚されず、悩みをはなれ、
愛の渇き尽きて、円に覚れり。
これみな、我が智慧に因れり、誰をか師と 呼ばん。
天地の間、我に等しきものなし。
我ぞ世の覚者、上なき師なる。
ただ一人、浄き寂けさに住まわん。
今よりめしいたる世に、法の輪をめぐらして、不死の鼓を打たばやと、迦尸の町に向うなり」
「尊者よ、卿は自らを覚者[仏]と呼び、勝利者と申されますか」
ウバカは、シッダールタの大胆な言い様に驚いた。
「煩悩を滅ぼし、悪を制えたものは、勝利者ではないか」
シッダールタに重ねて云われ、
「或いはそうかも知れぬ」
と、ウバカは肯きつつ、別の道をとって立ち去っていった。
十日後、シッダールタは鹿野苑へと入った。
緑深いその地には、名の通り鹿が群れをなしていた。身を脅かすものもなく、草を食み、また仲間と戯れ、仙人が遊ぶという伝え語りそのままに平穏な時間が流れている。そして森の木陰には、證を求めて修行者たちが集っていた。
「あそこにゴータマが来る」
コンダンニャ[憍陳如]、ワッパ(婆波)、バッデイヤ(跋提耶)、マハーナーマ(摩訶那摩)、アッサジ(阿説示)、五人の出家は、シッダールタの姿を見て云った。
「努力を捨てて安逸に逃げたものが来る。拝むにも及ばぬ、仕えるにも及ばぬ。鉢と衣を受け取るにも及ばねば、彼の為に座を設けるにも及ばぬ。坐りたいと思う処へ坐らせておけばよい」
けれどもシッダールタが彼等に近づいてくると、五人は互いの約束も忘れて、あるものは鉢と衣を受け取り、あるものは木陰に座を設け、またあるものは洗足の水を前へ供えた。
シッダールタは、足を洗って座につき、云う。
「汝等は仏をその名や友の語をもって呼びかけてはならぬ。私は世の供養を受くるに適う覚を開いた仏である。私に耳を傾けよ。汝等に不死に到る道を教えるであろう。私の教える法を守り行えば、遠からずして家を出て出家となった望を満たし、浄らかな行を具えて、現在に自ら覚を開くことが出来る」
シャーキャ族の男たちは彼の言葉に驚き、また呆れた。沙門となってからは互いに上下の隔てなく『友』と呼びあっていたのに、この変り様はどうであろう。
(あまりに烈しい苦行のはてに、気がふれたか)
と、みな思った。苦行を行う修行者たちの中には死なぬまでも精神を狂わす者が、まま有る。
「しかし、ゴータマよ。卿はあの厳しい道、あの恐ろしい苦行によってすら、人に超え勝れた真の智慧に達することができなかったではないか。卿はいまその努力を捨てて安逸に逃げながら、どうしてその法に達することができようか」
五人を代表して、コンダンニャが聞く。
「出家等よ、仏は安逸を貪るものではない。努力を捨てたのでもない。私は実に世の供養に適う覚を開いた仏である。耳を傾けよ、汝等に不死に到る道を教えるであろう」
疑いの眼を向ける修行者たちへ、シッダールタは重ねて云った。
けれども信じることの出来ない彼等は、三度まで同じ言葉を繰り返した。
シッダールタは、最後に云った。
「出家等よ、汝等は私が前にかように云うたことがあると思うか。これまで顔色がこのように輝いているのを見たことがあるか」
「尊者よ、……それはありません」
修行者たちは、口ごもりながら答えた。そして、
(物言いは、はっきりとしておる。瞳の光も、狂うているようには見えない)
と、それぞれが思う。
こうして五人の修行者は、やっと心から聴こうという気持ちを起し、彼の前へ坐った。
「出家等よ、ここに出家が避けぬばならぬ二つの偏った道がある」
そこでシッダールタは、自らの体得した法[真理]を初めて言葉にした。
「……それは卑しい欲に耽る愚かな快楽の生活と、徒に自分を苛む愚かな苦行の生活とである。出家等よ、この二つの偏った道を離れて心の眼を開き、智慧を進め、寂浄と聖智と正覚と涅槃とに導く中道が、真理の体現者[仏]によって證られたのである。
出家等よ、この中道とは何であるか。
これこそ聖なる八種の道(八聖道)である。すなわち、正しい見解(正見)・正しい考え方(正思)・正しいことば使い(正語)・正しい行為(正業)・正しい生活(正命)・正しい努力(正精進)・正しい思念(正念)・正しい瞑想(正定)である。
出家等よ、苦についての聖い真理[苦聖諦]とは、次のとおりである。
生(誕生)は苦である。老も病も死も苦である。怨みある者と会わねばならぬこと[怨憎会苦]も、愛する者と別れねばならぬこと[愛別離苦]も、求めて得ざること[求不得苦]も、みな思いのままにならぬ苦しみである。つまり、人として存えてあることのすべてが苦[五陰盛苦]である。
出家等よ、苦の起因についての聖い真理[苦集聖諦]とは次のとおりである。
すなわち、それは新しい生を作り出し、歓と貪とを伴い、ここかしこの境界欲の楽を生むところの愛の渇である。これには、欲愛と有愛(生存への欲望)と非有愛(自らを滅ぼそうとし、また自らを殺そうとする欲望)との三つがある。
出家等よ、苦の滅尽についての聖い真理[苦滅聖諦]というのは、次のとおりである。
すなわち、彼の愛の渇が残りなく滅びすてられて、すべての執着のなくなったことである。
出家等よ、苦の滅尽に至る道についての聖い真理[苦滅道聖諦]というのは、次のとおりである。それは、聖なる八つの道、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。
出家等よ、この四つの聖い真理[四聖諦]は、今まで説かれていない私自ら證った教法であるが、私はこの法によって心の眼を開き、智慧を生じ、光が生じた。『この苦についての聖い真理(苦聖諦)はわきまえ知るべきもの』としてこれを知り、『この苦の起因についての聖い真理(苦集聖諦)は断つべきもの』として断ち、『この苦の滅尽についての聖い真理(苦滅聖諦)はさとるべきもの』としてこれをさとり、『この苦の滅尽に至る道についての聖い真理(苦滅道聖諦)は修めるべきもの』としてこれを修めた。そして、これらの私自ら證った法のうえに、心の眼を開き、智慧と光とを生んだのである。
出家等よ、この四つの聖なる真理(四聖諦)の中において、私にこの浄らかなまことの知見が生まれなかったあいだは、このあらゆる世界、あらゆる人々の中において、私は覚を得たとはいわなかった。しかし、これらの知見が生まれたから、私は覚を得たと宣言する。そしてさらにまた、私にこのような知見が生まれた。
『縛から脱れた私の心は動くことはない。これは私の最後の生であって、この上に迷の生はない』と」
これで彼等の対話が終わったわけではなかった。
修行者たちの胸にはそれぞれ疑問があり、苦行を修める以外にも議論の技にも長けていた上、ひとりひとり思惟するところもあった。そのため、容易に説得されはしなかった。
そこで彼らは、シッダールタが二人の修行者に説いているときには三人が托鉢へ行き、三人の修行者へ説いているときには他の二人がゆき、そうして得た糧を六人で分け合い、わずかな食物で命をつなぎながら質疑を交わし続けた。
やがて五人のうちの一人、コンダンニャは、精神の中で火花が散るような奇妙な感覚をおぼえた。
(沙門の中には業を否定し、快楽を求めることを是とする者がいる。その一方、我についた業を洗い流すために徹底した苦行を奨める者もいる。その究極の苦行は死である。……ゴータマがこの両極端を戒めるのは理解できるが、中道とは常に正しい道を見出していかねばならぬもの。これもまた、易しいようで厳しいことだ……)