憩い手の乙女
ハルティエらの帰国の準備は、慌ただしく進んでいた。
初日に黒の間に運び込まれたたくさんの物品も、日を追うごとに少なくなっていた。
その頃にはハルティエはすっかり元気を取り戻し、ベッドから下りて歩き回れるまでに回復していた。
狼人の体力は、本当に常人とは一線を画すのだということをウルシャは改めて思い知らされた。
おそらく、ハルティエでなければ命を落とすほどの傷だったはずだ。
ハルティエの快復後も、ウルシャが彼の手を撫でる習慣は続いていた。
変わったことと言えば、時折ハルティエが愛おしそうにウルシャの頬に鼻を押し付けてくるようになったことくらいか。
「こうしてハルティエ様の手をお撫ですることができるのも、あとわずかでございますね」
その日もハルティエの手を撫でながらウルシャが言うと、狼人はしばらく思案するように黙っていたが、やがて口を開いた。
「ウルシャ。我らアシュトンの狼人には、始祖についてこんな伝承があるのだ」
ハルティエは話し始めた。
かつて強く気高き狼の王と、賢く美しき人の王女とが交わり、一人の子を生した。それが狼人の始祖である、と。
始祖の母である人の王女は、獣の心を癒し鎮める力をその手に秘めていた。
その力は王女の血族に細々と受け継がれていたのだが、やがて途絶えてしまった。
「だが、今でもごくまれに見つかることがあるのだ、その力を持つ者が」
ハルティエは言った。
「憩い手の乙女、とアシュトンの皇族の中では呼びならわされている。親や姉妹にその力がなくとも、突然にその力を持つ者が生まれることがあるのだそうだ」
「もしかして、それは」
「そうだ。そなたのことだ、ウルシャ」
ウルシャは息を吞む。
「狼人にとって、憩い手の乙女を娶ることは最高の栄誉なのだ。ウルシャ、アシュトンへ来る気はないか。私の妻として」
「ハルティエ様の、妻」
予想もしなかった言葉に、ウルシャは呆然とハルティエの顔を見た。初めて見たときには恐ろしくて、食われるのではないかと思ったその狼の顔。
今では、その顔を美しいと思うだけでなく、愛おしさまでも感じていることにウルシャは気付いていた。
だが、あまりに身分違いで図々しいことだと、その感情を押し殺してもいた。
「わ、わたくしでは無理です」
やはりウルシャは言った。
「ハルティエ様とはあまりにも何もかもが違いすぎます」
「そなたが狼人ではないということか」
ハルティエは言う。
「だが、狼人同士で結婚することの方が稀なのだ。生まれる子が狼人かどうかは半々といったところだが」
「ち、違います、違います」
いきなり子供の話などされて、ウルシャは真っ赤になって首を振った。
「そうではなく、わたくしのような身分の低い下働きの人間が、アシュトン帝国の皇族のお一人でいらっしゃるハルティエ様の妻になど」
「身分」
ハルティエは黄金色の目を見開き、ああ、と頷いた。
「皇族と言っても、狼人には兄弟が多くてな。私は十五人兄弟の十二番目、皇帝の座などは巡って来ぬゆえ心配ない」
「こ、皇帝」
現実味のない言葉に目が回りそうになりながら、ウルシャはそれでも首を振る。
「皇帝でなくとも、わたくしにとっては雲の上のお方であることに違いはございません」
「そうか、自分の身分を心配しておるのか」
ハルティエはようやく納得したように言った。
「そこは心配ない。最も大事なのはそなたの気持ちなのだ」
ハルティエはウルシャを見た。
「そなたが望まぬのであれば、私も無理強いはすまい。ほかに諸々の心配もあるであろうが、それは私が解決する。そなたは、私の妻となるのは嫌か」
「ハルティエ様の、妻に」
ウルシャはもう一度繰り返す。息が上手く吸えなかった。
それでも必死に頭を回し、一番心に引っかかっていたことを口にした。
「ハルティエ様は先ほど、憩い手の乙女と結婚することが最大の栄誉、とおっしゃいました」
「うむ」
「それは、わたくしが憩い手の乙女だから結婚なさりたいということなのですか」
ハルティエはウルシャの問いの意味を反芻するようにゆっくりと二度瞬きをし、それから低く笑った。
「そうか。これは、私の言い方が悪かった」
ハルティエは不意にウルシャを抱き寄せた。
「きゃ」
「誓おう、ウルシャ」
ハルティエはウルシャの頬に鼻を押し付ける。
「そなたに憩い手の力がなかったとしても。仮にそなたがその両腕を失ってしまったとしても。私は変わることなくそなたを愛するだろう」
ハルティエの声はどこまでも優しかった。
「憩い手としてではなく、一人の女性として。どうか私と結婚してくれ、ウルシャ」
何と答えればいいのか、ウルシャには分からなかった。
ただ、その柔らかな毛皮に包まれていると、どうしようもなく愛おしい気持ちばかりが溢れ出てくることだけは分かった。
だからウルシャは顔を上げて、ハルティエの口に自分の唇を押し当てた。
「ウルシャ?」
戸惑ったようにハルティエがその名を呼ぶ。
「くちづけは」
真っ赤な顔で、ウルシャは言った。
「わたくしたちの最大の親愛のしるしです」
「そうか。これがくちづけか」
ハルティエの声が弾む。
「それでは、ウルシャ」
「分かりません、わたくしはばかですから、難しいことは何も」
ウルシャはハルティエの胸に顔をうずめた。
「でも、わたくしも一緒にいたいです。ハルティエ様と、ずっと一緒に」
「ああ。ともにいよう」
ハルティエはウルシャをきつく抱きしめた。
「ウルシャ。愛している」
別れの日が来た。
「メイリア殿、色々と世話になった」
挨拶に訪れた宮女長のメイリアに、ハルティエは丁重に礼を述べた。
「何をおっしゃいます」
有能な宮女長は、深々と頭を下げる。
「こちらの落ち度で、誠に申し訳なきことに」
「怪我など、補って余りあるものを得た」
ハルティエは言った。
「ウルシャのことをよろしく頼む」
「はい」
メイリアは頷く。
「お任せくださいませ」
ウルシャは、ルク王国でも有数の大貴族の家に養女として迎えられることになっていた。
そして、その手続きが済み次第、アシュトンのハルティエに嫁ぐことも決まっていた。
それが、ハルティエがルク側に襲撃の代償として要求したことだった。
ウルシャに、自分に嫁ぐにふさわしい身分を直ちに与えよ、と。
ルク側にしてみれば、その程度のことで襲撃の汚点を糊塗できるなら願ってもないことだった。
使節団を伴い、ハルティエは王宮の外に出た。
見送りの人々の中に、今はまだ小間使いに過ぎないウルシャの姿があった。
彼女の肩に二羽の小鳥が止まり、足元で数匹の猫がじゃれついているのを見て、ハルティエは目を細めた。
遠慮がちに手を振るウルシャに、ハルティエはゆっくりと頷いてみせた。
すぐに、迎えに来る。
その心の声が届いたかのように、ウルシャは目を潤ませて頷き返し、足元の猫たちがにゃあ、と鳴いた。