親愛のしるし
刺客の太刀筋は鋭かったが、狼人の厚い毛皮に阻まれ、致命傷を与えるには至らなかった。
それでもハルティエはベッドで二日間、起き上がることすらできずに苦しんだ。
ウルシャも軽傷を負っていたが、自らの治療もそこそこにハルティエの傍に侍り、そこを片時も離れなかった。
ハルティエが襲撃されたという一報は、ルク王宮に大きな衝撃をもたらした。
アシュトンとの交渉がようやく妥結しかけていた担当者たちは頭を抱えたし、強硬派は色めき立った。
王、ご決断を。使者を死なせてしまっては、もう交渉の余地などありませぬ。アシュトンに先駆けて戦の準備を。手始めに、残る使節団の誅殺を。
強硬派はそう言って王に詰め寄ったが、王は首を縦には振らなかった。
「まだ、使者が死んだわけではなかろう」
王は言った。
「下がれ。使者が死んだら、その時はその時よ。だが、少なくとも使者の狼人はまだ生きておるではないか」
王の命を受け、黒の間には厳重な警戒態勢が敷かれた。
併せて、青の間や緑の間に控えていたアシュトンの使節団の人間が、ルクの宮女の代わりにハルティエの看護や付き添いを行うようになった。
彼らとしても、皇族の命に係わることをこれ以上他国に任せることはできなかったのだ。
だが、そんな彼らでさえ、ウルシャについては何も言わなかった。
周囲の状況などまるで目に入らないように、ウルシャは朦朧としているハルティエの手を一睡もせずに撫で続けた。
ウルシャがそばを離れると、ハルティエは苦しそうに呻いた。彼女が手を撫でると、その呼吸が穏やかになる。
アシュトンの人々も、彼女の力を認めざるを得なかった。
事件から二日後の朝。疲れ切っていつの間にかうとうととしていたウルシャは、自分の手を柔らかな何かが撫でていることに気付いて目を開いた。
いけない。眠ってしまった。
ハルティエ様の手を撫でてさしあげねば。
そう思って顔を上げ、息を吞んだ。
上半身を起こしたハルティエが、彼女の手を撫でていたからだ。
「ハルティエ様…!」
「心配をかけたな」
ハルティエは言った。
「もう大丈夫だ」
「いけません」
ウルシャは首を振る。
「まだ横になっていなければ」
「狼人の回復力を甘く見てもらっては困る」
ハルティエはわずかに牙を剥き、笑った。
「あの程度の腕で狼人を討ち取れると、ルクの人間に誤解を与えるわけにはいかぬからな」
そう言うと、ハルティエは鼻先をウルシャに向けた。
「とはいえ、そなたがずっと私の手を撫でてくれていたことは、目を閉じていてもはっきりと感じていたぞ。礼を言う」
「そんな。わたくしなど、本当にただ手を撫でることしかできなくて」
「そのおかげだ」
ハルティエは言った。
「そのおかげで、私の回復はここまで早かった」
その意味がウルシャには分からなかった。
けれど、ハルティエのしっかりとした受け答えを見て安堵した途端、涙がこぼれて止まらなくなった。
「申し訳ございません」
ウルシャは慌てて涙を拭う。
「謝る必要などない」
ハルティエはなおもウルシャの手を優しく撫でながら言った。
「そなたは、私の命の恩人だ」
そう言って、自分の鼻先をウルシャの頬にそっと押し付ける。
「あっ」
ウルシャは驚いて頬を押さえ、それから顔を赤くした。
「い、今のは」
ウルシャはハルティエの顔を見る。
「くちづけでございますか」
その言葉にハルティエは一瞬きょとんとし、それから大きな口を開けて笑った。
笑いすぎて、傷口を押さえて痛がるほどだった。
「くちづけか。なるほど、言い得て妙だ」
「違うのでございますか」
真っ赤な顔で決まり悪そうにウルシャが言うと、ハルティエはその頭を優しく撫でた。
「我ら狼人には、くちづけをする習慣はない。この鼻が邪魔をするからな」
ハルティエは目を細めた。
「相手の頬に鼻を付けるのは、我らの最大の親愛のしるしだ。受け取ってくれ、ウルシャ」
「親愛のしるし……」
頬を押さえたまま、ウルシャが鸚鵡返しに繰り返すと、ハルティエはその顔を覗き込む。
「嫌か?」
「い、いえ」
ウルシャは首を振った。
「嫌だなんて」
答えようとしたが、また涙が溢れ、嗚咽が止まらなくなった。
「どうした」
ハルティエの顔が曇る。ウルシャはやっと声を絞り出した。
「嬉しゅうございます」
あとからあとから涙はこぼれ、ハルティエの手を濡らした。
「ハルティエ様と、またこうしてお話ができることが」
目覚めたハルティエは、ベッドにいながらにしてその日からてきぱきと指示を飛ばし始めた。
交渉担当者たちは目が回るほどの業務に忙殺されることとなった。
止まっていた業務が一気に動き始めたのだ。
その早さは、強硬派にも予想外のものであった。
ルク王の意向を受けた担当者たちの必死の努力もあり、ルクとアシュトンとの交渉はそれからわずか数日で妥結された。
ルク王国は、先年の戦で手に入れた元シルワ王国領の三州のうちの二州をシルワ側に返還することとなった。
三州全ての返還を要求していたアシュトン側からしてみれば、相当に譲歩したともとれる内容であった。
無論、アシュトンに屈しないという姿勢を見せていたルク側からしても、勝ち取った領土の三分の二を返還するという内容は外交的敗北とも受け取られかねなかった。
だが、三州のうち最も経済的に裕福な一州を手に入れたルク側は、実は見た目ほどの損をしていなかったし、二州を返還させたことでアシュトン皇帝の面目も保たれた。
強硬派は不満を漏らしたが、ルクの国内はむしろ、無事に交渉がまとまったことに対する安堵の雰囲気が大勢を占めていた。
ハルティエ襲撃を指示した大物貴族が捕らわれると、いよいよ強硬派はその勢力を減退させていった。
王宮内でのアシュトン皇族襲撃事件は、ルクとアシュトンとの新たな火種となりかねない一大事であったが、ハルティエは、協議の妥結に際してこの事件を利用することはなかった。
強硬派は「狼人め、斬られて死にかけ怖気づいたのだろう」などと噂し合って留飲を下げたが、実はハルティエはこの件とは別に、大きな要求をルク側にしていたのだった。