流血
ハルティエとの交渉が遅々として進まないうちに、ルクの王宮では軍人たちを中心に対アシュトン強硬派が発言力を増していた。
ハルティエの存在自体が、強大なアシュトン帝国からルク王国への圧力そのものであるかのように感じる人々も多かったからだ。
狼人の異形は、未知のものを恐れる人々の恐怖を煽るのにはうってつけだった。
「ハルティエ様を害そうとする勢力がいるようだ」
ある日の指示で、宮女長のメイリアは宮女たちに言った。
「国王陛下はアシュトンとの戦を望んではおられぬ。交渉は交渉として、それがうまくいかねば次善の策を探ればよい。だが、ハルティエ様を害することによって、王に決断を迫ろうと考える一派もいるということだ」
ハルティエ様を害する。
メイリアの言葉に、ウルシャは背筋を凍らせた。
ここのところ、ハルティエはひどく疲れて、苛立っているように見えた。
ウルシャには外交のことなどまるで分からない。だが、ハルティエが二国間の妥協点を探ろうとしていることだけは伝わってきた。
拒絶一辺倒の交渉をしているわけではない。それなら、こんなに神経をすり減らすわけがないからだ。
強大なアシュトン帝国は、その強大さゆえに潜在敵国が多い。ルク王国もそうだが、帝国の西に位置するシャーバード王国もまた、彼らにとっては厄介な相手だった。
シャーバード王国は、西の草原の騎馬民族ゴルルパを屈服させ、近年アシュトンとの国境でその軍を蠢動させ始めていた。
だから、アシュトン帝国としてもルク王国との戦は避けたい事情があった。しかし交渉においてハルティエがそんな弱みを見せることはなかった。
アシュトン側とルク側との、ぎりぎりの妥協点を探る神経戦は続いていた。
だが、ウルシャ以外に感情を見せぬハルティエは、その異形が目立つこともあり、交渉の実務担当者ではないルク人たちから、この狼人こそが対ルクの強硬派であり、一切の妥協を許さず圧力をかけ続ける張本人であると思われ始めていた。
妥協を許さないのであれば、こんなに長期間に渡ってルクの王宮に逗留して交渉を重ねる必要などないということは、少し考えれば分かるはずだが、自分の主義主張に固執する人間は、見えるものも見ようとはしなかった。
「それゆえ、今日から警備が強化される」
メイリアは言った。
「新たに黒の間専属の衛兵が二人つく。そなたらも、間違いのないよう」
その日から、黒の間には二人の屈強な兵士が交互に警戒につくようになった。
きびきびとした彼らの挙動に、これなら心配はなさそうだとウルシャもほっと胸を撫で下ろした。
それから数日が経ったある日、ハルティエは珍しく機嫌よく部屋に戻ってきた。
もちろんその表情に機嫌の良し悪しが出ることはないのだが、もうこの頃にはウルシャも彼の感情の機微をある程度読み取れるようになっていた。
「お疲れさまでございました」
ウルシャはいつものようにハルティエの隣に座り、差し出されたその手をそっと撫でた。
「今日は、良いことがおありでしたか」
普段ならそんな余計なことは口にしないよう自分を戒めてはいたものの、ハルティエの雰囲気のあまりの柔らかさに思わずそう尋ねてしまった。
「分かるのか」
ハルティエはその声に微かに驚きを滲ませた。
「申し訳ございません」
ウルシャはとっさに謝ったが、ハルティエは牙を剥きだし、低く笑った。
「そうか。そなたには隠せぬな」
それから、黄金色の瞳でウルシャを見つめた。
「そなたとの別れも近いかもしれぬな」
「えっ」
「ウルシャ。そなたには感謝している」
ハルティエは静かな声で言った。
「許されるなら、そなたをアシュトンに伴って帰りたいものだ。憩い手の乙女よ」
「憩い手、の……?」
聞き慣れない言葉だった。ウルシャはその意味を聞きたかったが、ハルティエはそれ以上何も言わなかったし、ウルシャも自分の好奇心を我慢することにすっかり慣れてしまっていた。
だから、ウルシャは黙って丁寧に彼の手を撫でた。
その夜、ハルティエとの会話についてウルシャが報告すると、宮女長のメイリアは初めて微笑んだ。
「そうか」
メイリアは知っていた。この日の交渉でようやく、大筋の妥協が成ったということを。
そして、その最後の部分でのハルティエの態度の軟化には、直接的ではないにせよ、黒の間でのウルシャとの交流も貢献しているのではないかと実務担当者たちが考えていることも。
「そなたの任務もあと少しのこととなろう」
メイリアは優しい声で言った。
「最後までしっかりと励め」
「はい」
ウルシャは頷く。
あと少し。
それはウルシャにとって待ちに待った言葉であったはずなのに、心は晴れなかった。
任務の終わりは、ハルティエとの別れを意味していた。
そしてそれは、二人の立場を考えれば今生の別れとなるだろう。
柔らかな毛並みと、自分を見つめる金色の瞳を思い出すと、ウルシャの胸は、きゅうっと締め付けられた。
いつの間にか、ウルシャはこの狼人に惹かれていた。
別れるのは、嫌だ。
ハルティエ様と、離れたくない。
そんな自分の気持ちをどうしていいか分からず、ウルシャは戸惑った。
翌日。
前日と同じくやはり穏やかに帰ってきたハルティエの手を、ウルシャが丹念に撫でていたときだった。
何の前触れもなく、ドアが開いた。
入ってきたのは、黒の間を警備する兵士の一人だった。
「どうした」
ハルティエが咎めるような声を上げる。だが、兵士は答えなかった。
そのまま大股に、二人の方へと歩み寄ってくる。
不穏な空気。ウルシャは兵士の纏う殺気に気付いた。
まさか、この兵士は。
「何のご用ですか」
とっさにそう言いながら兵士の前に立ちはだかったが、兵士は片手でウルシャを投げ飛ばした。
悲鳴を上げる暇すらなく、ウルシャは床に叩きつけられる。
椅子から立ち上がろうと腰を浮かせたハルティエに、兵士は抜き打ちの一刀を浴びせた。
鮮血。
「ハルティエ様!」
ウルシャの悲鳴に、ほかの宮女が何事かと顔を出す。
そのときには、ハルティエは流れる血も意に介さず、兵士に躍りかかっていた。追撃の一撃を繰り出そうとした兵士の右手を、獣の力を秘めたハルティエの手が受け止める。
狼人の凄まじい膂力が、掴む剣の柄ごと兵士の手を握り潰した。
「ぐうっ」
たまらず呻いた兵士の胸ぐらを掴み、ハルティエは乱暴に引き寄せる。
「誰の差し金だ」
だが、兵士は答えなかった。
「ハルティエ様、短剣が!」
ウルシャが叫ぶ。彼女の額からも血が流れていた。
兵士は無事な左手で腰から短剣を抜き放っていた。
だがそれを突き出すよりも早く、ハルティエが兵士の身体を思い切り投げ飛ばした。
調度品をなぎ倒しながら壁に叩きつけられた兵士を見て、宮女たちから悲鳴が上がる。
「アシュトンの薄汚い野良犬め」
それでも立ち上がった兵士が吼えた。
「俺の兄はシルワとの戦で死んだ。あそこは我らが命懸けで手に入れた土地だ。貴様らの土地ではない」
「エイン大臣の手の者だな」
「知らぬ」
そう叫びざま、兵士は短剣を己の首に突き立てる。
「奪いたくば貴様らも命を懸けるがいい」
最期にそう叫び、兵士は噴き出した己の血で真っ赤に染まった床に倒れ伏した。
「何があったのです、この騒ぎは」
騒ぎを聞きつけて駆け込んできた宮女長のメイリアは、室内の惨状に目を見張った。
「ハルティエ様。これは」
ハルティエの美しい毛皮が、真っ赤な血で染まっていた。
「大事ない」
気丈にそう答えたが、ハルティエは肩から胸にかけてをざっくりと斬られていた。
ふらつくたびにぼたぼたと血が落ち、ハルティエは壁に手をつく。
「ハルティエ様!」
自らの流血も顧みずに、ウルシャがハルティエに縋りついた。
「ひどい傷。ああ、血が止まらない」
懐から取り出した布でハルティエの傷を押さえるが、布はたちまち鮮血でびっしょりになった。
「どなたか、早く。早く、ハルティエ様を助けてください」
血に塗れて取り乱すウルシャをハルティエは愛おしそうに見つめていたが、やがて壁にもたれかかるようにずるずると座り込んだ。
「ハルティエ様」
ウルシャはハルティエの鼻先に縋りつく。
「何をしている」
メイリアは呆然と立ちすくむ宮女たちを叱咤した。
「チェシカ、医師を連れてまいれ。他の者は、ハルティエ様をベッドへ。ウルシャ、離れよ。みなの者、手を貸せ」