大役
その翌日から、ウルシャは全ての仕事を免除された。
「仕事はほかの宮女が全てやるゆえ、そなたはハルティエ様のお相手だけに集中せよ」
メイリアはウルシャにそう指示した。
ハルティエが在室しているときには、部屋にウルシャだけを残すとも言った。
「その代わり、ハルティエ様と何を話したのか、それをしっかりと記憶しておくのだ。毎日、夜に確認するゆえ」
その意味するところは、朧気ながらもウルシャにも分かった。
宮女長は、ウルシャからハルティエについての情報を引き出そうとしている。
事実、ウルシャには知る由もないことだったが、ハルティエが代表するアシュトン帝国と、ルク王国との交渉は難航していた。
ハルティエはさすがに帝国が選りすぐって送り込んできた男だけあって、ルク王国にとっては実に手強い交渉相手だった。
ルク側としては、ハルティエ個人のことでもいいので、何か少しでも糸口を見つけて突破口を探りたいところであった。
だから、ウルシャがハルティエからことのほか気に入られたのは、僥倖だった。
しかしメイリアは、そのことをウルシャには伝えなかった。
長年多くの宮女たちを統率してきた彼女には、ウルシャのような少女に下手な知恵を付ければかえってハルティエに警戒されるであろうことが分かっていた。
“獣寄せ”の力の真偽はともかくとして、何の打算も下心もない下働きの少女だからこそ、狼人の心を捉えたのであろうと見抜いたのだ。
だから、その日話したことは全て報告するように、とだけ指示した。
当のウルシャにしても、その方が気が楽だった。
ハルティエから重大な秘密をぽろりと漏らされでもしたらどうしていいか分からないという不安があったのだ。彼女には、自分で情報を取捨選択できるような能力はない。
だから、全てを報告せよというメイリアの指示はありがたかった。
とはいえ、ハルティエは別に、ウルシャに何を話すでもなかった。
彼女を自分の隣に座らせ、そっと手を差し出す。
そしてウルシャがその手をおずおずと撫でると、ハルティエは気持ちよさげに目を細めるのだった。
突然にそんな大役を任されたウルシャに、嫉妬を隠さない宮女もいた。
チェシカなどは、あの狼人とずっと一緒にいなきゃいけないなんて大変ね、と同情してくれたが、中にはあからさまに嫌味を言ってくる者もいた。
「私たちのいない間に、どうやって取り入ったの。“獣寄せ”の力とやらで狼人でも見境なくくわえこんだのかしら。仕事もできないくせに、分不相応な大役を仰せつかって恥ずかしくないの」
こんな大役を自ら望むわけはないが、仕事ができないのは確かだったので、ウルシャは言い返すこともできず、うつむくだけだった。
だが、翌日にはその宮女は黒の間からいなくなっていた。
宮女長のメイリアが、彼女をハルティエの接待役から外してしまったのだ。
そのあたり、メイリアの意図は明確だった。
彼女は、自分の任務の中心にハルティエを据えている。
いかに身分がしっかりしていて仕事ができるとはいえ、替えの利くほかの宮女たちと、身分も低く仕事もできないが、決して替えの利かないウルシャ。
優先するのはどちらか、考えるまでもなかった。
宮女長のきっぱりとした処断を目の当たりにして、ウルシャに嫌味や皮肉を言う者はいなくなった。
おかげでウルシャは安心して仕事に励むことができたが、外交交渉は長引くことも多く、ハルティエが黒の間にいる時間はそう長くはなかったし、戻ってきたとしてもウルシャに静かに自分の手を撫でさせるばかりだった。
ウルシャが単独でハルティエの担当となってから三日目の夜。変わり映えのしない報告を受けたメイリアは顔を曇らせた。
「話したのは、それだけか」
「はい」
ウルシャは頷く。
「これだけでした」
「今日は部屋にいた時間も長かったゆえ、もう少し何か話していたかと思ったが」
「ほとんどの時間、ハルティエ様は目を閉じて黙っておいででした」
ウルシャは答えた。
「ハルティエ様は、わたくしを話し相手とは思っておられないようです」
「それでは、何と思っているというのか」
「手を撫でさせる係、でしょうか」
「ふうむ」
メイリアは眉をひそめる。
ウルシャの凡庸さが不満ではあったが、焦らせてもどうなるものでもない。実務交渉の担当者からは、何かいい情報はないかと毎日のように催促が来ていたが、無いものは無いのだ。仕方ない。
下手にハルティエを警戒させてしまったほうが、失うものは大きい。
ルク側の人間に、ハルティエが心を許している者がいる。それだけで、ウルシャという少女には価値があった。
「分かった」
メイリアは頷く。
「明日もしっかりと励め」
「かしこまりました」
ウルシャは深々と頭を下げた。
「わたくしが撫でると」
ある日、ウルシャはとうとう我慢できなくなって、おそるおそる尋ねてみた。
「ハルティエ様は、気持ちが落ち着くのですか」
そう訊かずにはいられないほど、ハルティエの態度は明白だった。
ルク側の担当者と今日も厳しい交渉を行ってきたのだろう。黒の間に戻ってきたハルティエは、その柔らかな毛の一本一本がまるで逆立ってでもいるかのような、剣呑な雰囲気を漂わせていた。
だが隣に座ったウルシャが彼の右手を撫でているうちに、その金色の瞳には穏やかで理知的な雰囲気が戻ってきた。
いったい、私が撫でることにどんな意味があるのだろう。
さすがのウルシャも、その好奇心を抑えきれなかったのだ。
「うむ。落ち着く」
ハルティエの回答は明快だった。
「そなたの手が私の毛を撫でるたびに、私の心は穏やかになる」
「それはいったい、どのようなわけなのでしょう」
ウルシャは自分の手のひらを見た。
何か、他の人と違うところがあるわけでもない。むしろ、力仕事や水仕事を続けてきたせいで、手のひらは硬くがさがさとしていた。
触り心地で言うならば、ほかの身分も高く美しい宮女たちの手の方がよほど良さそうだった。
「やめるな」
ハルティエは穏やかにそう言うと、ウルシャの手の甲を軽く撫でた。ハルティエの肉球のほうが、ウルシャの手よりもよほど柔らかかった。
「撫でよ」
「は、はい」
言われるがままに、ウルシャはハルティエの手を撫でる。
何も特別な撫で方をしているわけではなかった。こんなことを言ったら絶対に怒られるのが分かっているのでウルシャも決して言わないのだが、普段から自分にまとわりついてくる犬や猫を撫でるときと撫で方は全く一緒だった。
もちろん高貴な狼人の毛は今までに撫でたことのあるどんな動物よりもはるかに柔らかかったが、ウルシャはそれに見合うような撫で方を知らなかった。
「こんな撫で方でよいのでございますか」
一応、おそるおそる聞いてみる。それからすぐに、つまらないことを聞いたと後悔した。
この撫で方ではだめだ、と言われたところで変えられるわけでもないのに、どうしてそんなことを聞いてしまったのか。
「ウルシャの思うがままに撫でよ」
幸い、ハルティエはそう言ってくれた。
アシュトンの狼人は、もうすっかり目を閉じているように見えた。
犬や猫が特別に好きというわけでもないウルシャだが、ハルティエのその顔は可愛いと思えた。
交渉に臨むときの厳しい顔とは違い、まるで安心しきって眠る子犬のようで、見ているウルシャの頬も自然と綻ぶ。
「……何を笑っているのだ」
ハルティエが不意に言った。閉じているように見えたけれど、どうやら薄目は開いていたようだ。
「す、すみません」
ウルシャは慌てて謝る。
「とても可愛く見えたものですから」
言ってからまた、ああしまった、と思う。
アシュトン帝国の皇族に向かって、よりにもよって、可愛い、などと。
この場に他の宮女がいたら、あとで鞭で打たれてもおかしくない失言だ。
必要な説明はできないくせに、言わなくてもいい余計なことばかり言ってしまう。
だから、あの子はばかだと陰で言われるんだ。
だがハルティエは、
「そうか」
とだけ言い、動きのぎこちなくなったウルシャの手の上に自分のもう一方の手を乗せ、優しく撫でた。
「疲れたか。だが、もう少しだけ撫でてくれ」
「は、はい」
ハルティエは、可愛いと言っても気分を害さなかった。
大の男に、決して言うべき言葉ではないのに。
おそらく、ルク人の男がウルシャのような少女からそんなことを言われたら、百人が百人、困惑するか怒りを露わにするだろう。
この人は、不思議な人だ。
ハルティエがまた目を閉じる。
……可愛い。
ウルシャは今度は顔に出さぬよう気を付けながら、丁寧にハルティエの手を撫で続けた。