狼人(ルプスヴィ)
案内役のルクの文官を先頭に、アシュトン帝国の使節が宮殿に入って来る。
十五人からなる使節団は、それに倍する人数の従者を同道していた。
従者のほとんどは宮殿の門をくぐったところで別棟へと案内され、本来の使節団とごくわずかな従者のみが、彼らの居室として準備された宮殿奥の部屋へと案内される。
ルク王国側が、アシュトンの使者にあてがった賓室は三つ。
それぞれ黒の間、青の間、緑の間と呼ばれる賓室は、扉や壁の一部にその彩色が施されていることによって区別されていたが、ウルシャが担当することになったのは黒の間だ。
彼女が配置されるということは、つまり黒の間こそが使節団の最上位者たる狼人の部屋であることを意味していた。
他の宮女たちとともに扉の前で使節団の到着を待っていたウルシャの前に、文官に先導された長身の男が現れた。
黒の間に滞在するのは、使節団の長であるこの男ただ一人だ。
使者の顔をいきなり直視することは無礼に当たる。
恭しく顔を伏せて敬意を示すウルシャたちを一顧だにせず、男は室内に入っていく。
うつむくウルシャの目には、黒光りする革の靴が通り過ぎていくところしか見えなかった。
「ようこそおいでくださいました」
室内で待ち構えていた宮女長の挨拶が、外のウルシャの耳にも届く。
「よろしく頼む」
挨拶を一通り聞いた後で、男が低い声でそう答えるのが聞こえた。
「中の挨拶が終わったわ。さあ、仕事を始めるわよ」
先任の宮女のチェシカに肩を叩かれ、ウルシャは慌ただしく動き始めた。
お前の持つ“獣寄せ”の力が期待されている。だから接待の担当に大抜擢されたのだ。
確かに上役はそう言った。
だが、ウルシャは今ではその言葉をすっかり疑っていた。
騙されたような気分にさえなっていた。
黒の間は厳重に警備された王宮の奥に位置しているだけあって、犬や猫、鳥などが入り込んでくることはなく、おかげで仕事を邪魔されることはなかったが、ウルシャはここでの自分の役割をまだ把握できずにいた。
使節団でも最高位の使節団長が一人で泊まる部屋であることから、接待担当の宮女たちも相応の身分の者で揃えられていた。その中でウルシャは場違いなほどに格下の人間だった。
そもそもウルシャは下働きの小間使いで、宮女と呼ばれる立場ですらないのだ。
だから必然的にその仕事は汚れ仕事を中心とする雑用ばかりとなり、使節団が来訪してからすでに三日目となったが、ウルシャはまだこの部屋の主の顔を見たことすらなかった。
他の宮女たちの話によれば、使節団長の名はハルティエ。皇族の一員で、ハルティエとはアシュトン帝国の古語で黒き鋼を意味する名前だという。
その名の通り、黒い毛並みの狼の顔をしているのだそうだ。
「やっぱり野蛮だわ、アシュトン人なんて」
部屋の主が留守の折、ベッドのシーツを替えながら、チェシカが言った。
「見てよ、これ」
そう言われて拭き掃除の手を休めて顔を上げたウルシャは、思わず息を吞んだ。
シーツにはたくさんの細い毛が付いていた。けれど、それは明らかに人の頭髪や体毛とは違う。
いつも犬や猫に付きまとわれているウルシャには一目で分かった。
これは、犬や狼の毛だ。
「ぞっとするわ」
チェシカはため息をつく。
「ウルシャ、あなたもあの狼人の顔を見たでしょう?」
「いえ、わたくしは」
ウルシャは首を振る。
「大体はお部屋の外で仕事をしてますから……」
「あら、そう」
チェシカはつまらなそうに頷いた。
「せっかくだから帰国する前にあなたも一度は見ておきなさいな。アシュトンの狼人なんて、生きているうちに二度と見られるものじゃないわよ」
「わたくしは、恐ろしゅうございますので……」
ウルシャが答えると、チェシカはばかにしたように笑う。
「顔が狼だからって、とって食われるわけじゃないわよ」
ウルシャは曖昧に微笑むと、掃除を再開した。
もちろんウルシャにも、音に聞こえるアシュトンの狼人がいかなるものなのか見てみたいという人並みの好奇心はある。
けれどそんなことよりも、この接待の仕事を無事に終えることの方がよほど重要だった。
余計なことはしない。余計なものは見ない。
とにかく使節団が帰るまで、何事もなくこの仕事を全うさせてください。
ウルシャはただそれだけを願っていた。
そして、早く自分の身の丈に合った元の仕事に戻るのだ。
「ああ、そうだ」
チェシカが急に声を上げた。
「割れたグラスを一つ交換しておいてくれって頼まれたのを忘れていたわ。ウルシャ、ここを任せてもいいかしら。このシーツを張り替えてベッドを整えておいてくれればいいから」
「あ、はい。分かりました」
慌ただしく出ていくチェシカを見送り、ウルシャは目の前の仕事に集中した。
清掃やベッドメイクはするが、机周りには触れないようにと厳命されていた。
きっと外交資料のようなものが置いてあるのだろう。
部屋に置いていく程度の資料にはどうせ大したものなどないだろうが、ウルシャにとっては何が重要なのかなど分かるはずもない。難しい文章の並ぶ紙片は全て得体の知れない恐怖の対象だった。
机には、絶対近付かない。
そう自分に言い聞かせながら、シーツをぴんと張り終えた時だった。
不意にドアの開く音がして、ウルシャは振り返った。
「お帰りなさい、早かったですね」
そう言いかけて、固まった。
部屋に入ってきたのは、ウルシャが今までに見たことのないものだった。
突き出した鼻の黒さがまず目に入った。
ぴん、と立った三角形の耳。
顔全体を覆うふさふさとした毛並みは、黒を基調にところどころ薄い茶色がかった白の毛が混じり、全体として黒に近い灰色を呈していた。
その毛の奥に光る、二つの金色の目。その中心の黒い瞳が、ウルシャを捉えていた。
「誰だ」
低い男性の声で、それが言った。
「見ぬ顔だ。ここで何をしている」
「あ、あの」
狼。
まさに、その顔は狼そのものだった。
その威容で普通に人の言葉を喋ることが、実際にこうして目にしていてさえ信じられなかった。
「宮女か」
目を白黒させて立ち尽くすウルシャの様子を見て、狼人は不審を強めたようだ。
「何かを探りに来たのか」
そう言ってウルシャに近付くや否や、彼女の腕を掴んだ。
「ひっ」
ウルシャは小さく悲鳴を上げる。
ウルシャの腕を掴むその手も、狼の前脚にそっくりだった。
ただ、豊かな毛並みに包まれたその指は本物の狼よりも長く、繊細に動いた。
上等な仕立ての異国の服の、胸元から覗く黒い毛。
がっしりとした長身は全てがふかふかとした毛皮に包まれ、地肌と呼べるようなものは、どこにも見えなかった。
直立した狼。だが、毛皮に包まれているとはいえ体型は人のそれだった。
そして。
きれい。
恐怖と緊張で身を強張らせながらも、ウルシャはそう思った。
チェシカが示したような嫌悪感など、微塵も浮かばなかった。
恐ろしい狼の顔で流暢に人の言葉を話すその姿は、まるで知性と野性とを併せ持つ高貴な幻獣のようにすら見えた。
狼人。
アシュトンの狼人とは、こんなにも美しい人々なのか。
「……何のつもりだ」
低い声でそう言われて、ウルシャは我に返った。
いつの間にかウルシャの手は、自分の腕を掴む狼人の手を撫でていた。
指に触れるさらさらとした毛が心地よかった。
いつも犬や猫にまとわりつかれているウルシャにとって、それは無意識の動作だった。
「あ、も、申し訳ございません」
慌てて謝ったが、もう後の祭りだった。
狼人は、感情の掴めないその金色の目でウルシャの顔をじっと見つめた。
「何のつもりだと言っておる」
狼人はウルシャから目を逸らすことなく言う。
「なぜ撫でた」
「あ、あの」
もうだめだ。
ウルシャは絶望した。
自分のせいで、アシュトン帝国の使者の機嫌を損ねてしまった。
自分の首だけで済めばまだましな方だ。両親や妹のエルシャまでまとめて罰されてしまうかもしれない。
そう考えたら、両足から力が抜けた。
ふらりとよろめいたウルシャの身体を狼人が支えた。
「おっと」
「申し訳ございません」
半ば気絶しかけながら、それでもウルシャは慌てて狼人から離れようとした。
ウルシャの手が、狼人の腕を掴む。ふわりとした、まるで子猫のように柔らかい毛が指先に触れた。
狼人は驚いたように低く唸った。三角形の尖った耳が、ぴくり、と動く。
狼人は、突然ばくりと口を開けた。
「ひっ」
ウルシャは息を吞んだ。
獣にしかできない、その大きな口の開き方。
そこに並ぶ鋭い牙。
食べられる。
そう覚悟したが、次の瞬間、狼人は意外なほどに優しく手を添えて、ウルシャを自分の足で立たせてくれた。
「予定より早く戻ってみれば」
ウルシャを見るその金色の目も、心なしか優しい眼差しをしているように感じる。
「これはまた、不思議な者と出会えたものよ」
狼人はそう言って今度は牙を剥いた。
噛み付かれるのかと思ってまた身をすくめたが、彼の喉から漏れたのは唸り声ではなく軽やかな笑い声だった。
その途中で、またばくりと口を開ける。
威嚇されているのかと思ったが、違った。
その間も狼人の喉からは、笑い声が聞こえてきていたからだ。
どうやら、これが彼らの笑顔のようだ。
遅ればせながら、ウルシャはそれを理解した。
狼人のハルティエは部屋の外に顔を出し、そこを護る部下の男に「人払いを」とだけ告げた。
それでもう、新しいグラスを持って帰って来るはずのチェシカもこの部屋に戻っては来られなくなってしまった。
黒の間で、ウルシャはハルティエと二人きりで向かい合うことになった。
「それでは、そなたはこの部屋を担当する宮女の一人ということだな」
ウルシャのしどろもどろの説明に、ハルティエはようやく納得した素振りを見せた。
「しかしおかしいな。担当の宮女の顔はもう全て覚えたつもりであった。ここに来て三日になるが、そなたをこの部屋で見たことはないぞ」
「お、主に部屋の外の雑務を担当しておりましたので」
ウルシャが言うと、ハルティエは顎に手を当てて、ふうむ、と唸った。
「そうか。名は何という」
「ウルシャと申します」
「ウルシャか」
ハルティエは腕を組んだ。
ゆったりとしたアシュトン風の上衣の袖から、ふさふさとした毛並みが覗く。
「ではウルシャ」
「はい」
「明日から、この部屋の担当はそなたにやってもらおう」
「えっ」
ウルシャは驚きに目を丸くする。
「お、お戯れを。私はただの下働きの身でございますので。恐れ多くて、とてもでは」
しどろもどろに拒否しようとするウルシャを見て、ハルティエはまた牙を剥きだして笑った。
「メイリア殿に言っておけばいいのだろう?」
宮女長の名を出されると、ウルシャには返す言葉もない。
「明日からはよろしく頼むぞ、ウルシャ」
高貴な人間のたちの悪い冗談と思っていたが、翌日、ウルシャは本当に黒の間に入れられ、ハルティエに最も近い場所で働くことになった。
宮女長のメイリアは朝一番にウルシャを呼びつけ、決して粗相のないようにと厳しく言い付けた上で、配下の宮女たちから仕事についてのこまごまとした説明をさせた。
ウルシャはもちろんそれらを必死に理解しようと努めたのだが、なにせ下働きの少女にとっては初めて聞く言葉ばかりで、とても頭が追い付かなかった。
そのせいでさっそく色々としくじってしまったのだが、宮女たちの強張った顔や冷たい視線とは裏腹に、当のハルティエの態度は穏やかだった。
「仕事はもういい。ウルシャ、ここに座れ」
ハルティエはそう言って右手(ウルシャには前足のようにも見えるのだが)で手招きをして、ウルシャを自分の隣に座らせる。
もちろんウルシャも最初は恐れ多いと断っていたのだが、あまりに何度も言われ、もう座らない方が礼を失するというような状態にされてしまい、渋々座った。
「ほら」
ハルティエは自分の手をひょいとウルシャの目の前に差し出す。
「あ、あの」
戸惑うウルシャを、狼人特有の金色の目が見つめる。
「昨日やったようにせよ」
「昨日……」
最初何を言われているのか分からなかった。
だが、すぐにハルティエがこの前のように自分の手を撫でろと言っているのだと気付き、ウルシャは取り乱す。
「め、滅相もございません。ハルティエさまの手を撫でるなど」
「この前は撫でてくれたではないか」
「あ、あれは、その」
言い訳しようのない無礼を働いたことを思い出したウルシャは、深々と頭を垂れた。
「大変ご無礼いたしました」
それを見たハルティエはまた牙を剥きだして笑った。
狼人の笑顔に、宮女たちの間に驚きが広がる。
使者としてこの宮殿に来て以来、ハルティエは常に静かな態度を崩さなかったが、その代わり誰に対しても笑顔を見せたことはなかった。
だが、今この名もない下働きの少女を前に、あっさりと屈託のない笑い声をこぼしている。
宮女長のメイリアはその地位にあるだけに、アシュトンの狼人が身内以外には滅多に感情を見せぬ人々であることを知っていたし、ましてや笑い声を上げるなど、稀有のことであると理解していた。
「顔を上げよ」
ハルティエは、おそるおそる顔を上げたウルシャの頭を優しく撫でた。
「そなたがやってくれぬので、私がそなたを撫でるしかないではないか」
「ええっ、あの」
顔を真っ赤にして口を魚のように開いたり閉じたりするウルシャを見て、ハルティエはまた笑った。
昨日までは考えられなかったハルティエの様子に、メイリアは配下の宮女に耳打ちした。
「獣寄せのウルシャ。端から期待はしておらなんだが、その力は本物やもしれぬぞ」