浸透圧
5
「蛞蝓?」
「そう。何を願ったのかは忘れちゃったけど、4歳の頃、神社でお祈りをした後、賽銭箱って言うのかな、そこから蛞蝓が一匹出てきたの。で、たぶんそのときだったと思う。あの傘が出てきたのは」
菊池さんは頭上を指差しながら、今さっき亡くなったばかりの傘をいくらか惜しむかのようにしてそう言った。
現在、僕達は、シャッターの閉まった小さい商店の屋根の下にいる。校門を出てから商店街に来るまでの間ずっと僕達を雨から守ってくれていた彼女の傘が唐突に消えてしまったため、慌てて雨を一時的に凌げそうなこの場所に避難してきたのである。狭苦しく、二人で入るには快適とは言えない空間だが、その分人目につかない場所のため、濡れた制服から覗く彼女の肌の色を世間様に露わにしないためにも、この場所は都合が良かった。
僕は、微かに膨らんだ胸元に吸い付くカッターシャツや、濡れてまとめたポニーテールの付け根から覗くうなじ等を極力見ないようにして、言う。
「そっか」
ちなみにこの話題はさっきのショーケースの前でしていた話の続きだ。彼女が自分の傘がいつ生まれたのかだけは知っていると言っていたので、それを僕が聞き出していたのだ。
僕は、人の目を見ずに話すのは相手に失礼だと母親が仰っていたのを唐突に思い出し、だが、女の子は顔だという親父の言いつけもきっちり守るようにして(あの親父最低だな)、頑張って菊池さんの目に視線を戻した。
「じゃあ、菊池さんが塩気のあるものが苦手になったのってそれが原因なのかもしれないね」
昔、親父が蛞蝓を捕らえてきて「蛞蝓ってのは塩が大嫌いで、塩をかけると面白いんだ。ほらやってみろ」なんて言ってきて、蛞蝓に塩をかけさせられた。塩をかけられた蛞蝓は徐々に溶けていき、体の面積がどんどん小さくなっていったことを今でも覚えている。本当は浸透圧というのもので蛞蝓の体から水分が出ていっているだけらしいが、頭の悪い僕にはあまり理解できない話だったので、単に蛞蝓は塩が嫌いだということだけを記憶していた。
「うん?どういうこと?」
菊池さんはピンときていないようだ。
「菊池さんさっき言ってたよね?4歳の頃くらいから塩気のあるものが苦手になったって」
「うん。言ったけど……」
「それはきっとその蛞蝓のせいなんだよ。ほら、蛞蝓って塩をかけると溶けちゃうじゃん。だから菊池さんもその時に、蛞蝓に何かの呪いをかけられるかして、塩っぽい物が苦手になっちゃったんじゃない?」
だが、これは勿論冗談だ。根も葉もない完璧な憶測だ。そんな非現実的なことがあるわけがない。僕は冗談であることを示すために肩を軽くすくめた。菊池さんはそんな僕を見て、一瞬表情を曇らせる。しかし、
「そうかもね。私、蛞蝓なのかも」
すぐに表情を修正し、そう言って微笑み、口元を手で隠した。
「うん。かもね」
「うん……」
「…………」
「…………」
雨が商店の庇にバチバチと音を立てて降り注いでいる。
交わされていた目線を互いに同じタイミングで逸らし、僕達はそこから垂れ落ちる雫を何とはなしに見つめた。
水の音と共に流れる沈黙。
言葉を、交わせない。
これまでは、彼女の傘についての衝撃的な事実やら、何かしらのハプニングがあって、話題には事欠かなかった。しかし、僕達はまだ会って初日である。互いのことを少しも知らない。彼女の趣味も、彼女がどこの小学校に通っていたのかも、彼女の友達のことも、何も知らない。知っているのは菊池叶美という綺麗な名前と、彼女の傘と妙な性格だけ。
だから、それらを除いて、彼女と言葉を交わすことができない。どんな話題を振ればいいのか分からない。何を聞けばいいのか、何を話せばいいのか、何と言ってあげればいいのか分からない。
それは少しも悪いことではないだろう。僕達は多感な中学生というお年頃だ。人に何かを言うのは怖い。言って何をされるのか分かったものではないし、どんな酷い言葉が返ってくるか分かったものではない。しかもそれが本当である保証もない。言葉は本当に気持ちが悪い。そして恐ろしい。
だが、彼女は違った。僕とは違った。
僕が言葉を頭の中で選別していると、彼女は俯いて、横目で僕の顔を覗き込んできた。
「ねぇ、どうして谷川君はこんなにも真剣に私のことを考えてくれるの?」
それはさっきもされた質問だった。僕が嘘をついて、答えを誤魔化した質問。「菊池さんが可愛いからかな」なんてふざけた返しをして彼女を困らせてしまった質問だ。
「ねぇ、どうして?」
彼女は再び食い気味に問うてきた。
「……えっと……」
正直、あまり答えたくはない。だってそうだ。誰が知り合って初日の人間に、君の悲しむ顔が見たくないなんて言えるものか。
「どうして、谷川君は私について真剣に考えてくれるの?」
「……あんまり答えたくはないかな」
「どうして?」
身を寄せてきた。僕はサッと商店のシャッターに顔を逃がす。
「……」
彼女はそんな僕の顔を顔で追ってきて僕をさらに下から見つめてくる。僕は薄く溜息を吐いた。
「……恥ずかしいんだ」
「うん。いいよ」
「……」
僕に拒否権はないらしかった。先ほどまでのしおらしい雰囲気はどこへやら、彼女は体をくの字にするようにして僕に好奇の視線をぶつける。僕は観念して話すことにした。
俯いて、なるべく彼女の顔を見ないようにして言葉を絞る。
「えっと……。最初はめんどくさいなって思ってた。役員決めの時なんてなんて変な女の子なんだろうって思った」
「まぁ、そうだよね」
「で、傘のこととか、人の好意に慣れてない感じとかがもっと変だなって思った」
「うん」
「相合傘させられたし、いきなり家に来いとか言われて、頭大丈夫なのかなと思った」
「それはちょっと傷つくな」
ハハという笑い声が商店街に響く。きっと彼女はさっきと同じように手で口を押えて微笑んでいるだろうなと思った。
「しかも、傘は傘でも浮いている傘に入らさせられるし、ついでにその傘は急に消えるし、もう散々だった」
「そうだね」
「でも、まぁ、それでも」
僕は彼女の言葉を遮る。そして、その言葉を告げた。
「君の悲しむ顔が、見たくなかったんだ」
音が消えた。いや、違う。音はある。
ただそれはザアザアという雨の音と、ドクンドクンとやかましく鳴り響く心臓の音だ。
それ以外聞こえない。
さっきまではちらほら自転車に乗ったおばちゃんたちもいたのに、間がいいのか悪いのか通行人は一人もいなくなっていた。
僕は心中で泣き叫ぶ。ああ、やってしまった。これは間違いなく僕の黒歴史に残る。もし人に伝われば永遠に笑いの種だ。初対面の女の子に告白同然のことを言ったんだから。
たぶん、彼女も笑っているだろう。何言ってんだこいつと嘲笑っているだろう。
でも、それも当然だ。そんな臭いセリフを吐いたんだから。顔を上げた瞬間殴られても仕方がない。
そう思って僕はようやく顔を上げた。
「え?」
だが、結果から言って僕は殴られなかった。笑われもしなかった。いや、厳密には言えば、笑うには笑ってくれた。
「菊池さん?」
けど、それは僕を侮蔑したり、馬鹿にするような笑いではなかった。
声に出して笑ったり、腹を抱えて笑ったり、そんな笑いでは、なかった。
「谷川君……」
僕は何もできなかった。
ただ茫然と彼女を見つめ、そう言った彼女にほんの少し彼女に手を伸ばしただけだった。
彼女は、菊池叶美は、涙を流しながら微笑み、僕の前から溶けて消えて行った。
浸透圧みたいに。
>>続く。
別れの挨拶というものは難しい。何を言うのが正解なのか分からないし、何を言わないのが正解なのかも分からない。そもそも正解なんてあるのかも、それさえも分からない。それでも何か言葉はかけないといけなくて、何かはしてあげなくてはならなくて、そしてその瞬間はどちらにも辛くて、不安や緊張で、押しつぶされそうになって、気を遣いに遣って、なんとか無事終えることができる。
僕は何もできなかった。何もできずにただ彼女と別れた。ただ彼女を傷つけ、壊した。
いったい彼女はどうしているのだろうか。僕を恨みに恨んでいるのだろうか。いつか殺しに来るのだろうか。
それでもいい。僕は彼女になら殺されてもいい。
むしろ殺されたい。死にたい。消えたい。菊池さん。僕を殺してくれ。