言葉
4
「しょっぱい食べ物が苦手?」
心臓の音が聞こえる。
「うん。4歳くらいの頃からだったかな。急に塩気があるものが嫌いになったの」
胸から溢れ出さんばかりにその存在を主張している。
「へえ。よく4歳の時の記憶なんて残ってるね。僕なんて小4以下の記憶さえほとんどないよ」
そう言って僕は無理に微笑んだ。
駄目だ、さっきから緊張でまともに彼女の顔さえ見れない。
言葉はたどたどしくなって、歩調すらも整わない。このまま死んでしまうのではないだろうか。
現在、具体的に言うと午後二時。先刻の10分休みに家へ来ないかと誘われたため、僕は隣を歩いている彼女、菊池さんの家へと向かっていた。
入学初日に、しかも初めて出会った同級生の女の子の家へと放課後二人っきりで向かう(しかも両親は今日はいないらしい)。こんなハラハラするイベントはなかなかない。しかし、今僕が緊張しているのは、全く別の理由からだった。
「あ、ごめん」
彼女の肩に自分の肩をぶつけてしまった。これでもう3回目である。
「ううん、いいよ。これってそういうものだし」
しかし、彼女はまるで気にしてないとこちらを向いてにこりと笑う。仏の顔も三度までとは言うが、彼女の仏具合はそんな諺の常識にはとらわれないらしい。……なんだ仏具合って。
アルカイックスマイルを拝みつつ、彼女の先導で歩く。すると次第に通行人が増えてきたことに気が付いた。靴とコンクリートがぶつかる音が喧騒となって耳に響いてくる。僕は遅ればせながら商店街へと入り込んでいたことをようやく知った。
ケーキ屋。某有名コーヒーショップ。最近できた高級食パンの店。ショーケースの中のきらびやかなドレスを纏ったマネキンが目を引くアパレルショップ。様々な建物が扉から光を漏らして、街の雰囲気に溶け込んで僕達を見下ろしている。歩く度にその光景はジオラマのように流れていく。
と、ふいに僕はマネキンが入ったショーケースの前で足を止めた。僕が止まったので少し前に進んでしまった菊池さんも後ろ足で僕の隣へと並ぶ。
「鏡には映らないんだね」
僕はショーケースに映った自分と菊池さんを見ながらそう呟いた。
彼女は少し寂しそうに言う。
「そうだね。やっぱり谷川君以外からは私が手で傘を持ってるようにしか見えないのかな」
「いや、そうじゃないかもしれないよ。他人の目にはもう少し違った風に映るのかもしれない。例えば、僕が傘を持ってたり、もしくはそもそも僕たちの姿が見えなくなっているとかね」
アパレルショップの庇に当たる雨音が響く。
突然だが、ここで僕が先ほどから緊張している理由を明かそう。と言ってもほとんどの人にはわかっていると思うがとにかく言わせてほしい。
ショーケースには僕と菊池さんの姿が映し出されている。そしてそこには傘を持った菊池さんとその中に入っている僕が映り込んでいる。いわゆる相合傘だ。そして当然これが緊張の理由。しかし、だが、緊張の理由はそれだけではない。もう一個ある。
僕はショーケースではなく、隣にいる菊池さんを見つめる。菊池さんはその形の良い唇を動かして言った。
「そうだね。他人からは見えない傘に私達、入ってるんだもんね」
そう、それである。確かに僕は彼女と相合傘をしている。しかしそれは普通の傘ではなく、今、僕が入っているのは、午前中、学校での役員決めの際に見た、彼女の頭上で浮いていて、しかも僕以外からは見えない例の傘なのだ。これに入るのが緊張しないわけがない。
「今さらだけど菊池さん、これがどうやってできたとか、どうしてできたとかって知っているの?」
僕はたどたどしく、頭上で雨粒をはじく傘を指差しながら言う。
「それがやっぱり私にも分からないの。分かるのはこれがいつできたかってことだけ。ごめんね」
菊池さん首を横に振って、申し訳なさそうな顔をした。視線がアスファルトに向けられてしまっている。うん、そういう顔は似合わないな。
「いや、全然いいよ。じゃあ、いつできたのかだけ教えてもらっていい?何かの手掛かりになるかもしれないし」
僕は彼女の悲しそうな顔を見たくなくて、とっさに話題を逸らした。すると、どうしてか彼女は少し驚いた顔をした。
「どうして、そんなにも真剣に考えてくれるの?」
彼女は冷静な、けれどどこか剣呑な雰囲気が混じった声音で僕に問うた。
僕は腕を組んで考える。
どうしてと言われましても……。うーん。本音を言うと彼女の悲しむ顔が気に食わなかったからだ。けれど、君の悲しむ顔が見たくなかったからさ、なんてそんな気障なセリフを言いたくはない。しかし、それが本音だし、ううん……。
結果、迷いに迷った僕はとてつもなく馬鹿げたセリフを口にすることにした。これなら彼女を怒らせることはあっても、嫌悪感を与えたり、傷つかせることはないだろう。そう思って。
だが、その読みは全くの外れだった。
「菊池さんが可愛いからかな」
ボッ、という音が聞こえた気がした。
「な、なに、言ってるの谷川君……わ……私は……全然……」
蒸気がうっすらと見える。なんとショーケースには細かい結露が生じていた。
菊池さんが、体をわなわなと震わせ、顔をゆでだこみたいに真っ赤に染めていた。
「え、えっと、その……」
菊池さんはもじもじして、空や地面に視線をとっかえひっかえしている。
あ、やばいどうしよ。これはまずい。
僕は彼女の性格から判断して、こういったセリフの耐性に強いと感じていた。しかし、現実はそうではなかったらしい。彼女は自分がどういう顔をしたらいいのか全く分かっていない様子だ。
「な、なーんてね。はは」
僕は苦し紛れに笑ってごまかす。肩をすくめて両方の掌を皿の形にするポーズもプラスした。だが、そんなオプションをいくら付け足したところで結果は同じ。目の前が見えていないのか、彼女は、『あの』とか『えっと』とという以外のセリフを口にしてくれない。
「これ、どうしよ」
僕は同学年の男子や女子に比べて状況把握能力が高いと思っている。さっきの役員決めの時もそうだ。僕は周りがパニックに陥っている場合でも、一人、冷静でいられる時が多い。しかし、そんな僕でも目の前の状況はさすがにお手上げだ。彼女は自分を見失っている。自分を見失っている人間を諭すことはできない。
「仕方ないか……」
僕は決心した。殴ろうと。精神的に壊れてしまった人間は、痛覚で以て復活させるしかない。
だが、僕が彼女の顔面を殴ろうと、一歩進み出た瞬間、彼女を現実に戻そうとした、その瞬間、それは起こった。
「「え?」」
僕と菊池さんの声が重なった。
浮いていた傘が消え、僕と菊池さんの全身に大量の雨が襲い掛かってきたのだ。
言葉ほど不安定なものはない。真実に反すること言えば嘘になるし、受けて次第で意味を自由自在に変化させることも可能。たった一言で真実を塗りつぶすことさえできる。
僕は取り返しのつかないことをした。言葉で以て彼女を傷つけ、言葉で以て彼女を騙した。彼女を言葉で以て殺した。
僕はきっと許されない。きっと地獄に落ちる。ああ、言葉なんてない方が良かった。