傘
2
怒涛の役員決めが過ぎ去った後の10分休み。
僕は三年生の教室がある三階へと足を運んでいた。
教室棟と特別棟を繋ぐ渡り廊下。周囲に人はそれほどいないが、目を凝らせば二歳年上の先輩方の姿もちらほら見える。
だが、僕はピッカピカの一年生。しかも入学初日だ。そんな所に用事があるはずもない。
僕は目の前の少女を見つめる。やけに美人で白磁のような肌を持つこの少女。僕の視線に気が付いたのか、長く艶やかな黒髪を揺らして、快活な口調で話しかけてきた。
「急に連れ出しちゃってごめんね」
少女、菊池さんは、手刀を切るようなジェスチャーをする。
そう。僕がここにいる原因は、役員決めが終わった後、彼女に無理やり連れて来られたからだ。
谷川君、と前から声を掛けられたかと思うと、次の瞬間には腕を取られ、ここまで連行されていた。
今思うと、とんでもない手際の良さで感服してしまうほどだった。いったい何者なんだろうか。
「ううん、大丈夫。それよりどうしたの?」
僕は彼女が何を話したいのか分かっていたが、あえてそう口にした。僕達はまだ出会って一日目だ。こうまでして話さなくてはならないことなど一つしかないだろう。
「うん。たぶん谷川君には分かってると思うけど、」
彼女は神妙な面持ちで僕を見据えた。
「傘、見えているんだよね?」
響く銀鈴の声音。雨風に乗ってきた葉っぱが僕達二人の間にはらりと落ちた。
僕は考える。やはりその話だった。彼女の頭上とそれからつま先をチラ見する。頭上には、さきほどの役員決めの時と同様に、傘が数センチ上で浮遊しており、足元には丸い影がうっすらと落ちていた。僕は彼女には聞こえないように溜息を吐いて、
「うん、見えてるよ」
ここで見えてない、と言うこともできた。てきとうに誤魔化して嘘をつくことだってできただろう。けれども僕はそうしなかった。なぜなら、僕が「見えてるよ」と言うまでの間、彼女は瞳を潤ませて今にも泣きだしそうになっていたからだ。莫大な不安と期待が入り混じった目。溢れんばかりの感情の波がその目には宿っていた。
「……よかったぁ」
「菊池さん!?」
僕は慌てて彼女を両手で受け止めた。笑顔が転び出たかと思った瞬間、彼女の体が僕めがけて突進してきたのだ。
「あ、ごめん。あまりにも、嬉しくて……」
彼女は安心しきったように微笑んだ。膨大な安堵からか、体に力が入らなくなったらしい。僕の胸元に控えめに添えられた手からは確かに彼女の体重を感じた。けれど、それはびっくりするほど軽いものだった。
「いや、うん、大丈夫……ところで、要件はそれだけ?」
僕は彼女の無事を確認した後、肩から手を離して、ついでに彼女からも数歩離れ、目線も逸らして、そう質問した。今更になって自分が採った行動が恥ずかしくなったのだ。
彼女はそんな僕をどう思ったのか、先程よりも笑顔を更に濃くして、首を横に振った。
「ううん。実はもう一つあるの。……谷川君、よかったら今日、うちに来ない?」
「へ?」
「いや、その、嫌ならいいんだけど、ほら、この傘のこととかについて、いろいろ聞きたいなって思って」
彼女は手や腕、表情をあたふたさせながら上目遣いで僕を見た。明らかに慌てている。頼み事をするのが苦手なのかも。……ん?いや、待て。少しおかしくないか?
「えっと、家に行くのはいいよ。嫌じゃないし」
「やった!じゃあ…」
「けど一個だけ聞かせて」
彼女を遮って僕は言う。そんなことあるはずがないと思いつつも、口に出さずにはいられなかった。
「ん?」
「もしかして、その傘って僕と菊池さん以外に見えてないとかそんな感じ?」
彼女の発言の不思議な点。それは彼女が言った「傘についていろいろ聞きたい」と言う部分。もし僕以外にも傘が見えていれば、そんなことをわざわざ聞く必要はないと思ったのだ。僕ではなく、家族や他の信頼できる誰かに頼めばいい。
「あ、うん。たぶんそうだよ」
「いやいや、まさか。ははっ」
「なんで自分から聞いておいて否定してるの……」
苦笑を浮かべる菊池さん。いや、だって浮いてる傘だよ?それだけでも非現実的なのに、さらに僕にしか見えないってそんなことあるはずないでしょ。僕は笑顔を引っ込めて真剣な顔を召喚した。通りかかった三年生の男の先輩に話しかける。
「あの、すいません。彼女の頭の上を見てください」
「は?ああ、うん。分かった」
先輩は戸惑いつつも、国旗掲揚を眺める時のような頭の角度で菊池さんの頭上を見てくれる。
「それで?」
「彼女の頭に傘がありますよね?」
「何言ってんの?」
僕よりも二つも年上の先輩は、これでもかというくらいに人を馬鹿にした視線を僕にぶつけて、去って行った。
「ね?」
菊池さんは子供を諭す母親のような声を僕によこす。
「まじっすか……」
10分休み終了のチャイムが鳴り響いた。
>>続く。
人は見たくないものを見ようとはしない。
めんどくさいし、疲れるからだ。
それは誰がいくつになっても同じ。
海外のスラムの住人のように。
親が子供に行う虐待のように。
視界から排除して、見て見ぬふりをする。
そして、それが正しいと思っている。
事実、僕もそうだと思っていた。
見たくないものなんてただストレスを生むだけだし、そんなことをする人間なんて馬鹿かもしくは狂人かと思っていた。
でも、そうじゃなかった。
馬鹿で狂人なのは僕の方だったんだ。