雨
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雨には塩素が含まれている。
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「なんだろう、あれ」
思わずそんな言葉が漏れた。
今日は僕が中学生になる日。即ち入学式の日だった。
式にはふさわしくない雨天ではあったが、幸運なことに、式自体はスムーズに進行して、校長先生の有難いお言葉、PTAの叱咤激励、議員からの賛辞、歌詞の分からない校歌の合唱、その他2、3の行事が行われただけで何事もなく無事終了した。テンプレ通りの議事進行。
配属先のクラスに移動させられてからも特に変わったことは何もなく、担任指導の下で行われる役員決めも滞りなく進んでいった。
だが、その役員決めが始まって20分経ったくらいだっただろうか。僕がそれに気が付いたのは。
学級委員や美化委員、選挙管理委員などに、仏像の光背くらい陽気そうなやつらが片っ端から立候補してくれたおかげで、委員の枠はあらかた埋まってきているようだった。残っているのはめんどくさいと噂の風紀委員と図書委員くらい。先生も安心している様子だった。
しかし、そんな明るい奴らがいる一方、当然薄暗い奴らも存在するもの。その代表例である僕などは、役員に興味があるはずもない。特にやることもないので、僕はこれから付き合うことになる生徒の顔を一人一人矯めつ眇めつして沈思黙考していた。だが、生徒を三分の二以上見回して、最後に真正面に座る女の子の後ろ姿が目に入ってきた瞬間。そう。まさしく役員決めが始まってから20分後のこと。その言葉が漏れてしまった。
「なんだろう、あれ」
僕は人目もはばからず宣った。
女の子には影がかかっていた。映画館のシアタールームくらいの薄い影。そして、それはもちろん雨が降っていて教室が薄暗いからだとか、女の子の雰囲気があまりにも暗く、陰気なオーラが体から溢れ出しているからであるとか、そういうことでもなかった。もっとちゃんと、きちんと物理的にその影は女の子の頭上数センチ上から影を落としていた。
「……?」
女の子が振り向いてきた。どうやら僕の独り言は聞こえてしまっていたらしい。難しい謎や問題を突きつけられた小学校低学年のような顔をしている。今、ここでその顔をしたいのはむしろ僕の方なのだが。
彼女は長い髪を揺らして、尋ねてきた。美人だった。
「どうしたの?」
「何、それ?」
初対面であるのにも関わらず、僕は彼女の名前も聞くことなく、ましてや自己紹介などをすることもなく、そう言って、その女の子の頭上の”ソレ”を人差し指で指差した。おそらく、影の原因であると思われる、水滴から身を守り、時には小学生の武器として活躍するその道具。
彼女の頭上数センチ上にある”傘”を。
「…………」
僕はこのとき何かしらの反応が返ってくるものだと思っていた。例えば、「この傘は天上から糸で吊ってあるんだよ。驚いてやんの(笑)」とか、変な奴を見るような目で「え、何のこと?」と言ってくるだとかそんな風に。
だが現実は真逆と言っていいほどに、違っていた。
「え……」
彼女は表情が抜け落ちてしまったように、顔面を硬直させた。いや、それは顔面だけでなく、振り向いた時の微笑のままの顔はもちろん、指一本、髪の毛一本に至るまですっかり固定されてしまっている。まるで石造だった。
……何か言って欲しい。僕は何かおかしなことを言ったのだろうか。いや、まぁ、確かにいきなり人様の頭上に向けて「何、それ」なんて尋ねる人間は客観的に見ておかしいかもしれないが、それを言うなら頭の上に傘をぶら下げている彼女の方がもっとおかしいわけで……。
そんなことを考えながら数秒間、沈黙が続いた。首をひねる男と石造の女の子のオブジェの完成である。教室で蠢く人間の中固まっているその様子はまさに美術館のソレだった。
雨音が窓越しに伝わってくる。心なしか音が先ほどよりも大きく聞こえた。そして、やっと、ついに、めんどいと噂の図書委員を見事獲得した永山の叫喚がクラスに轟いた瞬間、
「……君!これが見えるの!?」
彼女は、樽から飛び出す某黒ひげ海賊さながらに立ち上がって、思いっきり叫んだ。永山の叫喚もかき消すほどの大音量。頬は興奮のあまり上気し、今まで座っていた椅子は蹴り飛ばされ死体のようにゴロンと転がってしまっている。立ち上がる際に支点にした机はやんわりとへこみができていた。やべえ。
「う、うん。見えるよ」
彼女はいったいどうしたのだろう。自己紹介の時にこんな変な奴がいた記憶はないのだが。
僕は耳を叩いて鼓膜の存否を確認する。よかった……耳は無事みたいだ。
だが目の前の奴はやっぱり無事ではなかった。
「ねぇ!ねぇ!ほんとのほんとに見えるの!?」
僕の鼓膜のことも知らないで、彼女は上目遣いで一心不乱に僕の顔を見つめ、そして、とんでもないスピードで、主人を見つけた忠犬のようにぴたりと僕に貼り付いて、そう詰問してきた。本当に無事じゃない……頭が。
「ああ、うん。見えてるよ」
僕は話を早めに切り上げようと、なるべくそっけなく答える。
「どのくらい!?」
「ん?」
「どのくらい見えてるの?少し?しっかり?大、中、小のどれ!?」
「えっと、よく分かんないけど大かな。割と大きく見える」
「ふむふむ。ありがと。そこは私が見えているのと同じか……。では色は!色はどう!?あなたにはこれが何色に見える!?」
「……」
僕はだんまりを決め込んだ。さすがに我慢の限界だった。
「ちょっと何で無視するの!答えて!」
「……分かった。でも後でな」
「は?どういうこと?」
「周りをみなさい」
「あ……」
僕がそう言うと、彼女はようやく自分が視線を引き付けていたことに気が付いたのか、顔をトマトのように赤くした。
そう、今は授業中である。
僕は「ごめんなさい」と回転しながらクラスメイトに頭を下げた後、倒れていた彼女の椅子を拾い上げ、彼女を座らせ、先生にもう一度「ごめんなさい」と言って着席した。
関わらないのが吉だと判断したのか、担任の女性音楽教師は「えー、では、風紀委員になりたい人は挙手をお願い」と何事もなかったかのように、授業を再開した。
目の前の変人女を見つめる。長い黒髪の上からでも分かる。耳が赤く染まっている。
どうやらよほど恥ずかしかったようだ。一応良識的なものはもっているらしい。
そして、それから数分が経った。下校のチャイム数分前。何故だろう。僕は黒板の前でクラス中から喝采を浴びていた。
担任の君吉が言う。
「では、クラス過半数の推薦ということで谷川君、君を風紀委員に任命します。がんばってね。……それと菊池さんのことよろしくね」
最後は他の生徒に聞こえないように言ってきた。彼女……菊池さんの世話を僕はこれからも続けなくてはならないらしい。
……え?なんでこうなるの?
>>続く。
こんにちは。この物語の主人公の谷川です。
僕は常々、後書きに作者が出てくるのが気に入らないと思っていたので、後書きも乗っ取らせていただきました。
さて、次回ですが、おそらくみなさんが気になっているであろう、菊池さんの傘の謎についてお話することになると思います。
次話の投稿日はまだ決まっていませんが、なるべく早く皆さんにお話をおとどけできるように頑張るので次回もご一読よろしくおねがいします。
以上、谷川でした。