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始まり

 刻一刻と変わる空を、私は強く強く羨ましいと思った。名残で猛り狂う白波に感化されることなく、自分自身で変化できる空を。

 狭い部屋に囚われ、息苦しい思いをしながら泣くしかできない私とは大きな隔たりがある。雨の雫が風に舞う中、どこからか現れた夕焼けが空を染めていた。分厚い窓ガラス越しでは風を感じることもできない。

 内側から掻き毟られるような痛みを感じ、胸を抑えて蹲る。涙は自然と溢れ、頬を伝っていった。どうしたら私は自由になれるのだろうか。




 閉じ込められたのははるか昔。記憶にないくらい昔の話だ。

 まだ幼稚園にすら通っていなかったのではないか。公園で遊んでいるときに、不思議な雰囲気のおじいさんに声をかけられた。

「お嬢ちゃん、少し助けて欲しいんじゃがの」

「どうしたの?」

私は何の疑いも持たずに問いかけた。

「この辺りに落とし物をしてしまってな? 探すのを手伝って欲しいんじゃが」

「うん、いいよ!」

「助かるの。これくらいのカードケースなんじゃが…」

おじいさんが手で示したサイズを見て、私は熱心に足元を捜索し始めた。

「…助かるのぉ、扱いやすい子じゃて…」

 次の瞬間、鮮烈な痛みとともに私の意識は途絶えた。


 次に目覚めたのは車から引き摺り出された時だ。

 灰色のバンの扉が目の前で閉まり、走り去っていく。ぼんやりした意識の中でも、そこがさっきとは違う場所であることがすぐにわかった。乱暴に何かに乗せられ、アスファルトの地面が進んでいく。

 思わず気圧されるような重い格子を開けた音とともに、私はざらりとした床に叩きつけられた。

 檻の扉を閉めたのは黒い男だった。もうシルエットしか覚えていない。

 耳障りなざらつく声が吐き捨てる、「閉じ込めておけ」。私が日常に帰れなくなった瞬間だった。


 意識がはっきりし始めると、私は泣き叫んだ。壁に、床に爪を立て、格子を必死で握りしめて揺さぶり、声が枯れるまで叫び続けた。最初こそ看守が面倒くさそうにやってきたが、すぐに誰も来なくなった。私の声はわんわんと虚ろに響くだけとなった。それが怖くて、なおも叫んだ。涙を迸らせながら手から血が流れるまで壁を殴り、地団駄を踏んだ。涙も鼻水も流しっぱなしにしたので、肌はみるみるうちに荒れた。角度によっては鏡となる小さな窓には、いつも私の真っ赤な顔が映っていた。


 両親や親戚が私を探しに来てくれるのではないか。泣き疲れると、拙い想像力で必死で想像した。「迎えに来たよ」、そう言ってこの檻から出してくれるのではないか。この冷たい土の床や硬い岩壁、黒く錆びた格子からおさらばできるのではないか。小さな窓から見上げるしかない空を全身で味わうことができるのではないか。


 想像するうちにだんだん悟り始める。誰も私のことなんか探していないこと。欲していないこと。私は望まれて生まれてきた子ではなかったのだ。夜が来るたびにそう思い、過呼吸になるまで泣き続けた。枕は常に絞れるほどの涙を含んでいた。呆れた顔で看守がビニール袋を持ってきてくれるのが唯一の心の拠り所となった。


 しばらくすると、諦めがやってくる。このまま生きるしかないということを受け入れるしかなくなる。でも仕方がない、私にはそれだけの価値しかなかったということなのだから。あの家にいるうちに自分の価値を生産できなかった私が悪い。だから諦めるしかない。そう。全て私が悪いのだから。


 これを悟るまでにどれくらいかかっただろうか。時間の感覚なんてとうの昔になくしていた。今が何月であろうが、何年であろうが、私の生活には何の変化もなかった。夏はサウナかと思うほど暑くなり、冬は凍りつきそうなほど冷え込む。それだけだった。夏は冷たい格子や岩壁に体をつけて眠り、冬は日中に僅かに暖まった床に丸まって眠った。




 それからしばらく経つ。

 ただ日々を怠惰に過ごすだけだ。何も変わらない日常。日中は空を見上げる。夜は闇から逃げるように眠る。

 ただ時折、ひどく泣いてしまう。呼吸ができなくなり、吐いてしまうこともある。一応水で流して掃除してくれるあたりが看守の優しさだろうか。一度涙が流れ出すと、もう止まらなくなってしまう。ベッドに突っ伏し、シーツがぐしょぐしょになるまで泣きしきってしまう。

 「壊れてしまうのだろうか」

 だらだらと涙を流す中で、そんな思いがときどきよぎる。それでも構わない。壊れられるなら壊れてしまいたかった。壊れきって自我を失ってしまいたかった。いまだに私が捕まっている理由も、そのまま囚われ続けている理由もわからない。死んでしまおうと思ったりもするが、どうしても食事を断つことができない。格子の間から何かが投げ込まれると、意地汚く貪ってしまう。そんな卑しい自分を意識してしまうと、また涙の理由が増える。どうしてこんなになってまで生きようとしてしまうのか。生き続ける理由なんてないのに。


 今日もそうだ。

 今日の食事は久しぶりのスープにパン。スープは上澄みだけを掬ったような薄いものだが、滅多に出ないご馳走だ。椀が入れられるや否や、私は無心でスープを舐めた。飲んでしまうとあっという間に終わってしまうので、舐めるように啜っていく。はしたなく音を立てているのも全く気にならない。

 最後の一滴までパンで掬いきってから、私は椀を外へ出した。看守が拾い上げてどこかへ運んでいく。

 胃の中が温まってきてから強烈な自己嫌悪が襲ってきた。また犬のようにがっついてしまった。またも卑しい真似をしてしまった。

 誰も見ていないとはいえ、看守はいる。音は聞かれていただろう。本当に誰もいなかったならこんなに気にすることもないのだろうが、私の中では看守がいるだけでも大きな違いだった。

 また生に未練があるような行動をとってしまった。いつ死んでもいいと思っているのに。どうして私の意思はこんなに弱いのだろう。もう死んでしまいたい。これ以上生き恥を晒すこと以上に辛いことがあるだろうか。

 自己嫌悪は私をどんどん深い沼へ沈めていく。唇が震える。熱い涙が湧いてくる。堪えようと懸命に目に力を込めたが、それはあっけなく決壊した。

 ぼろぼろと大粒の涙が頬を流れる。しゃくりあげていると、子供のような大きな泣き声が溢れ出た。ぺたんと座り込んだまま、声を上げて泣き続ける。涙はどんどん服の染みを増やし、気がつくと鼻水も流れていた。みっともなく情けなくて、さらに声を張り上げる羽目になる。

 看守の戻ってくる足音がした。が、涙は止められない。仕方がなく泣き続ける。


 ひとしきり泣いてから、私はシーツで顔を拭った。まだ涙は止まりきってはいないものの、さっきまでのような勢いはない。日はいつの間にか落ちていた。窓のある壁の方から冷気が忍び寄ってきた。

 シーツはきんと冷え切っている。私はいつものように薄い上掛けを床に下ろし、ほんのり暖かい床で丸まって眠ろうとした。

 その瞬間。

 世界が揺れた。


「な!?」

 看守の焦ったような声が響く。地面がゆっくりと波打っていた。何が起こっているのかわからない。ぱらぱらと天井から砂が散っている。電球が生き物のように跳ねた。

 まだ揺れは続いている。もう眠れそうになかった。毛布にくるまったままじっと耳をそばだてる。

 と、急に激しい揺れが床を突き上げた。

 電球が勢い余って天井にぶつかり、明かりが消える。破片が降ってきた。硬い落下音が耳元で聞こえる。

 天井から降る砂はその量を増し、鉄格子は軋み、割と近くで鈍い音がした。看守が転んだのだろうか。呻き声も聞こえる。

 金属と金属が触れ合う甲高い音がする。世界の揺れはまだ収まらない。ひょっとして、このままずっと揺れたままなのだろうか。それはそれでなかなか生活しにくいだろう。まずスープは飲めない。

 そうしたら、死ねるだろうか。


 重いものが地面を擦る低い音、甲高い金属音。

 不意に手首を掴まれ、引きずり上げられる。暗くて見えないが、何かに乗せられたのがわかった。空気が動く。手探りで地面を探すと、地面が進んでいた。

 どこかに運ばれるのか?

「逃げるぞ!」

荒い声が後ろで叫ぶ。

 逃げる? どこへ?


 世界はまだ揺れていた。

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