行橋から小倉まで
その4まで公開した「ちょっと変わった北九州案内記」の、その5になります。
今度は、竹下しづの女の句碑を見に行きましょう。
一つは、中京中学の中にあります。
そこには、村上仏山の詩碑もあります。ついでだから、それも、見てください。
昔々、瀬戸内海に、村上水軍という海賊がいました。その子孫だということですが、この仏山さんは、江戸時代の最後から、明治時代の始めごろまで活躍した学者さんです。漢学というのかなあ、漢文の本を教える名人で、弟子も、のべ数千人ということです。のちに、有名になった人もたくさんいます。
伊藤博文の娘婿になった末松謙澄が、一番有名でしょうかねえ。この人は、漢文だけじゃなく、英語もできる人で、「源氏物語」を英語で紹介した、最初の人だそうです。そういう弟子たちを育てた偉い先生が、村上仏山です。
中京中学にあるのは、漢文の詩、漢詩です。漢詩を石に刻んであるわけです。中学生では、読めないと思いますけどねえ。校区の中に、「水哉園」という塾の建物が、今もありますからねえ。
それで、中学の中に、漢詩の碑があるんだと思います。
桜田門外の変の直後、ホットなニュースを漢詩にしたんです。当時の、ヒットソングみたいなもので、
「らっか ふんぷん ゆき ふんぷん………」なんて、みーんな、口ずさんでいた、と言いますよ。
ほーら、これです。
「落花紛々 雪紛々 雪を踏み 花を蹴りて 伏兵起こる 白昼 斬り取る 大臣の頭…………」
降りしきる桜の花びらのように、降りしきる雪。その中で、水戸の浪士たちが、井伊大老を暗殺したという歴史的事件を、サッと漢詩に出来るんですからね。すごいですよねえ。
この詩がはやったので、明治維新のスピードが速まった、という人もいるくらいですよ。
さて、お隣が、竹下しづの女さん。
「ちひさなる 花 雄々しけれ 矢筈草」
小さいのだけれども、生命力が強い雑草! その代表みたいな矢筈草。
作者の中に、強い生命力があるからこそ、雑草の生命力に、共感するところがあったのじゃないかなあ。
この川に沿って、左に行けば、「水哉園」。右に行けば、竹下しづの女の句碑があります。どっちも、ちらっと見る程度で、見てみましょうか。
こんな田舎に、名高い塾があったんですからねえ。門人帳に名前があるだけで、3000人と言いますからねえ。時間は、それぞれズレていたでしょうが、長年の間には、それだけの若者が、ここに、勉強に来ていたというわけです。このあたり、今も自然一杯でしょう?
若者の心身を育てるには、こういう、自然一杯の所がいいのかもしれませんねえ。毎日が、「自然教室」みたいなものでね。
竹下しづの女の句碑、こんな所にあります。生家も、晩年、米作りをした家も、この近くにあったらしいですからねえ。
「緑陰や 矢を獲ては鳴る 白き的」
視覚、聴覚、ひょっとしたら、樹木の匂いも感じさせる、夏井いつき先生が褒めそうな句ですよねえ。
弓道の経験が生きている、と言われていますが、だからこそ、迫力があるのでしょうか。
私が使った教科書の中には、
「短夜や 乳ぜり泣く児を 須可捨焉乎」
という句がありました。
「赤ちゃんを捨てるとか、母親としての愛情が足りんのじゃないか」と非難したら、司書教諭の女性が、
「そんな気持ちになることもあるんですよ」と弁護していました。
「私にはわかりますよ。この作者の気持ち」と。 まあ、今ふうに言えば、産後うつ、という状態なのでしょうか。最後の一句、漢文の名人らしい表現です。どこで漢文の勉強をしたか、というと、末松謙澄のお兄さんに習った、と言われています。この人は、村上仏山の弟子ですから、竹下しづの女は、孫弟子ということになります。行橋には、そういう伝統もあるんですよ。
この句は、「ホトトギス」の巻頭句に選ばれたという話です。ということは、高濱虚子が、この句を、とても高く評価していたということになります。行橋生まれの人が、全国区の一番になったのですからね。大したもんですよ。
この右手の、こんもりした所、これが御所山古墳です。
今は、大きな道が出来て、昔の面影も、ほとんどありませんが、ここは、狸山といって、幕末に長州の奇兵隊が攻めて来て、小笠原藩の兵隊と、激しい攻防戦をした所だそうです。
このお寺で、長州と小笠原藩との和平交渉があったそうです。
この家が、藤田哲也さんの家のあった所です。弟さんが、建て替えて、弟さんも亡くなって、今は、弟さんの奥さんがいると思います。
車は、ここにおきます。ほんの少々、歩いて下さい。
これが、藤田哲也さんの墓です。こうして、トルネードの図と、プレートテクトニクスの図が並んでいるでしょう。兄がトルネードの研究をして、弟が地学の先生だったということを記念しているわけです。
ここが、新しくなった小倉南区の図書館です。ここに、藤田哲也コーナーという所がありますので、ちょっと見て下さい。
胸像がひとつ。あと、パネルがこれだけ。パネルのまとめ方は、うまいですね。これを見るだけで、博士の人物像から、業績まで、大体わかります。
論文を書いた厚い本が、これだけ展示されているのも、いかにも、本物らしく、大物らしく見えますよね。
確かに、本物だし、大物なのは間違いのないことですが。
わかりにくいですが、ここ、お寺さんですよ。お寺さんが幼稚園を経営しているのかな?
ここに、杉田久女の句碑が二つあります。それを見て下さい。
「無憂華の 樹かげはいづこ 仏生会」
「三山の 高嶺づたひや 紅葉狩」
春の句と、秋の句がセットになっています。
この円通寺の住職のお父さんが、すぐ近くの広寿山福衆禅寺の住職で、久女は、この人の所へ、よく来ていたそうで、何か、深刻な悩みを抱えていた頃の句でしょうね。
松本清張の短編に「菊枕」というのがあります。久女が、敬愛する高濱虚子に、念入りにこしらえた菊の花入りの枕を送るんです。虚子は、ストーカーに追われるような錯覚を持ったのでしょうか、冷たく突き放します。振られたら、ノイローゼにもなりますよねえ。こんなやるせない気持ちを忘れられる所はないか、という心境が、この句には、にじみ出ているような感じ、しませんか?
お時間があれば、清張記念館、チラッとくらい見てみますか?
そうですか。
門司の方も全然行かなかったし、また、もう一度、来て下さいよ。
私でよかったら、また、御案内しますよ。クセが強すぎて、イヤになりましたか?
じゃあ、新幹線口まで、お送りしましょう。
ちょっと、クセが強く出すぎたかな?