表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

行橋から小倉まで

その4まで公開した「ちょっと変わった北九州案内記」の、その5になります。

今度は、竹下しづの女の句碑を見に行きましょう。


一つは、中京中学の中にあります。

そこには、村上仏山の詩碑もあります。ついでだから、それも、見てください。

昔々、瀬戸内海に、村上水軍という海賊がいました。その子孫だということですが、この仏山さんは、江戸時代の最後から、明治時代の始めごろまで活躍した学者さんです。漢学というのかなあ、漢文の本を教える名人で、弟子も、のべ数千人ということです。のちに、有名になった人もたくさんいます。

伊藤博文の娘婿になった末松謙澄が、一番有名でしょうかねえ。この人は、漢文だけじゃなく、英語もできる人で、「源氏物語」を英語で紹介した、最初の人だそうです。そういう弟子たちを育てた偉い先生が、村上仏山です。

中京中学にあるのは、漢文の詩、漢詩です。漢詩を石に刻んであるわけです。中学生では、読めないと思いますけどねえ。校区の中に、「水哉園(すいさいえん)」という塾の建物が、今もありますからねえ。

それで、中学の中に、漢詩の碑があるんだと思います。


桜田門外の変の直後、ホットなニュースを漢詩にしたんです。当時の、ヒットソングみたいなもので、


「らっか ふんぷん ゆき ふんぷん………」なんて、みーんな、口ずさんでいた、と言いますよ。


ほーら、これです。


「落花紛々 雪紛々 雪を踏み 花を蹴りて 伏兵起こる 白昼 斬り取る 大臣の頭…………」


降りしきる桜の花びらのように、降りしきる雪。その中で、水戸の浪士たちが、井伊大老を暗殺したという歴史的事件を、サッと漢詩に出来るんですからね。すごいですよねえ。

この詩がはやったので、明治維新のスピードが速まった、という人もいるくらいですよ。


さて、お隣が、竹下しづの女さん。


「ちひさなる 花 雄々しけれ 矢筈草(やはずそう)


小さいのだけれども、生命力が強い雑草! その代表みたいな矢筈草。

作者の中に、強い生命力があるからこそ、雑草の生命力に、共感するところがあったのじゃないかなあ。



この川に沿って、左に行けば、「水哉園」。右に行けば、竹下しづの女の句碑があります。どっちも、ちらっと見る程度で、見てみましょうか。



こんな田舎に、名高い塾があったんですからねえ。門人帳に名前があるだけで、3000人と言いますからねえ。時間は、それぞれズレていたでしょうが、長年の間には、それだけの若者が、ここに、勉強に来ていたというわけです。このあたり、今も自然一杯でしょう?

若者の心身を育てるには、こういう、自然一杯の所がいいのかもしれませんねえ。毎日が、「自然教室」みたいなものでね。


竹下しづの女の句碑、こんな所にあります。生家も、晩年、米作りをした家も、この近くにあったらしいですからねえ。


「緑陰や 矢を()ては鳴る 白き(まと)


視覚、聴覚、ひょっとしたら、樹木の匂いも感じさせる、夏井いつき先生が褒めそうな句ですよねえ。

弓道の経験が生きている、と言われていますが、だからこそ、迫力があるのでしょうか。


私が使った教科書の中には、


「短夜や 乳ぜり泣く()須可捨焉乎(すてっちまをか)


という句がありました。

「赤ちゃんを捨てるとか、母親としての愛情が足りんのじゃないか」と非難したら、司書教諭の女性が、

「そんな気持ちになることもあるんですよ」と弁護していました。

「私にはわかりますよ。この作者の気持ち」と。 まあ、今ふうに言えば、産後うつ、という状態なのでしょうか。最後の一句、漢文の名人らしい表現です。どこで漢文の勉強をしたか、というと、末松謙澄のお兄さんに習った、と言われています。この人は、村上仏山の弟子ですから、竹下しづの女は、孫弟子ということになります。行橋には、そういう伝統もあるんですよ。

この句は、「ホトトギス」の巻頭句に選ばれたという話です。ということは、高濱虚子が、この句を、とても高く評価していたということになります。行橋生まれの人が、全国区の一番になったのですからね。大したもんですよ。




この右手の、こんもりした所、これが御所山古墳です。



今は、大きな道が出来て、昔の面影も、ほとんどありませんが、ここは、狸山(たぬきやま)といって、幕末に長州の奇兵隊が攻めて来て、小笠原藩の兵隊と、激しい攻防戦をした所だそうです。



このお寺で、長州と小笠原藩との和平交渉があったそうです。



この家が、藤田哲也さんの家のあった所です。弟さんが、建て替えて、弟さんも亡くなって、今は、弟さんの奥さんがいると思います。



車は、ここにおきます。ほんの少々、歩いて下さい。


これが、藤田哲也さんの墓です。こうして、トルネードの図と、プレートテクトニクスの図が並んでいるでしょう。兄がトルネードの研究をして、弟が地学の先生だったということを記念しているわけです。



ここが、新しくなった小倉南区の図書館です。ここに、藤田哲也コーナーという所がありますので、ちょっと見て下さい。


胸像がひとつ。あと、パネルがこれだけ。パネルのまとめ方は、うまいですね。これを見るだけで、博士の人物像から、業績まで、大体わかります。


論文を書いた厚い本が、これだけ展示されているのも、いかにも、本物らしく、大物らしく見えますよね。

確かに、本物だし、大物なのは間違いのないことですが。



わかりにくいですが、ここ、お寺さんですよ。お寺さんが幼稚園を経営しているのかな?

ここに、杉田久女の句碑が二つあります。それを見て下さい。


無憂華(むゆうげ)の 樹かげはいづこ 仏生会(ぶっしょうえ)


「三山の 高嶺づたひや 紅葉狩(もみじがり)


春の句と、秋の句がセットになっています。

この円通寺の住職のお父さんが、すぐ近くの広寿山福衆禅寺の住職で、久女は、この人の所へ、よく来ていたそうで、何か、深刻な悩みを抱えていた頃の句でしょうね。


松本清張の短編に「菊枕」というのがあります。久女が、敬愛する高濱虚子に、念入りにこしらえた菊の花入りの枕を送るんです。虚子は、ストーカーに追われるような錯覚を持ったのでしょうか、冷たく突き放します。振られたら、ノイローゼにもなりますよねえ。こんなやるせない気持ちを忘れられる所はないか、という心境が、この句には、にじみ出ているような感じ、しませんか?



お時間があれば、清張記念館、チラッとくらい見てみますか?

そうですか。

門司の方も全然行かなかったし、また、もう一度、来て下さいよ。

私でよかったら、また、御案内しますよ。クセが強すぎて、イヤになりましたか?


じゃあ、新幹線口まで、お送りしましょう。





ちょっと、クセが強く出すぎたかな?

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ