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幕間 鉛色の出会い2

 次の日、少年は姿を現さなかった。


 そしてその次の日も。


 エルティアは、少年が天幕の間から顔を出すのをじっと待ち続けた。朝早くから日が暮れるまで、ずっとあの笑顔が現れるのを待ち続けた。しかし彼はやってこない。


「どうして……?」


 あの子を怒らせるようなことをしただろうか。碌に口をきこうとしなかった自分に愛想を尽かしたのだろうか。もっとちゃんとお話をすればよかった。もっともっともっと……!私が……もっと……ちゃんと!


 私が!私が……!


 幾日たっても姿を見せない少年の面影が次第にエルティアの心から遠ざかる。


 エルティアは、再び自分の罪を暴き立て始めた。光の消えた鉛色の瞳で虚空を見つめながら、繰り返し繰り返し後悔の念と己への断罪に明け暮れた。


 夜の寒さも侘しさも、もう意味をなさない。エルティアの心は凍てつき、己が起きているのか眠っているのかも判然としなくなっていたから。


 深い深淵へと続く闇の螺旋にたゆたうエルティアの意識は、突然奴隷商の使用人に水浴びを命じられたことによってわずかに覚醒した。


 井戸へと連れていかれ、乱暴に身体を洗われる。普段は濡れた手ぬぐいで体を拭くのがせいぜいなのだ。


 いつもと違う対応に、ああ、とエルティアは悟った。


 エルティアはぼんやりとした意識で、まるで他人事のように思った。


 ――もうすぐ終わるんだ――


 粗末だが、今までとは違う新しい服に着替えさせられ、高価な調度品が並ぶ応接室へと連れていかれた。


 うつむきながら応接室に足を踏み入れた瞬間、懐かしい香りがした。


 父親が嗜んでいた煙草の香り。幼いエルティアがあれほど嫌っていたその香りの懐かしさに、思わず少女は足を止め顔を上げる。


 恰幅のいい奴隷商が座るソファーの対面、ゆらりと煙る紫煙の中に細長いパイプを持った妙齢の女が足を組みながら座っていた。


 煽情的に胸元が大きく開いた漆黒のワンピースドレスを着こなすその濡羽色の髪の美女は、部屋に入ってきたエルティアを横目に見ると、ふうと煙草の煙を吐き出した。


「これ、であるか?」


 女が、奴隷商に物憂げにも聞こえる声色で尋ねた。


「はい。この者で間違いございません。顔見せもしないままのご依頼でしたので少々案じてはおりましたが……こちらでよろしかったでしょうか?」


「ふむ」


 女は優雅な所作でふわりと立ち上がると、ヒールの高い靴をコツコツと鳴らしながらエルティアに向かって歩き出した。


 そしてエルティアの前に立つと、少女の顎に手を当てて上を向かせる。女の赤銅色の瞳が、エルティアを真っ直ぐに射抜いた。


 エルティアは、その視線に得体の知れない恐ろしさを感じた。


 自分の心の奥底を見通されているようであり、憐れで惨めな自分をなじられているようにも感じた。


 女はしばらく何も言わぬままにエルティアを見つめていたが、やがて興味を失くしたように不意に視線を逸らし、身を翻した。そして再びソファーに戻って腰を下ろし、足を組む。


「まあ、よかろう。これが代金じゃ。確かめるがよい。このまま連れ帰って問題なかろうな?」


 女はどこからともなく突然大きな袋を取り出すと、テーブルの上に置いた。ジャラリと金属が擦れる音がする。奴隷商は満面の笑みを浮かべた。


「もちろんでございます。確認が済みましたら所有証明書をお渡しします。この者の所持を証明する物でございますので、大切に保管頂きますようお願いします――」


 目の前で進む奴隷商と女のやり取りを、他人事のようにぼんやりと見つめていたエルティアは、頭の片隅で理解した。


 私は、この女の人に買われたのだ、と。


 手続きが済み、女はエルティアを伴って奴隷商の店を後にした。


 久しぶりに吸う外の空気と賑やかな街の雑踏に、エルティアは何の感慨も持つことはなかった。どこに行こうと、鎖に繋がれる場所が変わるだけの話なのだから。


「さて」


 女はエルティアを振り返り、面倒臭そうに少女を見下ろした。


(なれ)の名はなんといったかの?我は興味のない者の名を覚えるのがとんと苦手での」


 自分の買った奴隷の名を知らないのか。それに、興味もないのになぜ自分を買ったのか。


 エルティアはそんなことをぼんやりと考えたが、口にする気にはなれず、黙って首にかかったままになっていた名前が書かれた木札を女に手渡す。


 女はそれを受け取ると、さして興味もなさそうに一瞥した。


「エルティア……そうそう、そんな名であったな。ふむ。また失念せぬよう、これは預かっておこう」

 女はそう言って木札をその豊満な胸の間に差す。


「我はグリゼリアという。まあ好きに呼ぶがよい」


 紫煙を纏いながら、パイプをクルリと回したグリゼリアは、ふうと一つ息を吐いた。


「我は疲れた。こんなにも歩かせおって。帰るぞ。あー……」


 グリゼリアは胸元に差した木札を抜き、再びそこに書かれている少女の名前を確認した。


「そう、エルティアじゃ。エルティアよ。我の手を握るがよい」


 そう言ってその妙齢の美女は、手を差し出してきた。紫紺色の長い爪をした細くしなやかな手。彼女が何を言っているか分からず、ぼんやりと目の前のその手を見つめたまま動けなかった。


「……何をしておる。早うせんか」


 エルティアの脳裏に一瞬、優しく手を差し伸べる父と母の姿が浮かんでは消えた。一度頭を振り、おずおずとグリゼリアの手を握る。その手は驚くほど冷たかった。


 次の瞬間。


「……!?」


 目の前には鬱蒼と茂る木々が広がっていた。むせかえるほどに濃い草花の芳香。


 エルティアは驚き言葉を失った。つい先ほどまでいた街の雑踏は消え失せ、様々な生き物が息づく深い森の風景がそこにはあった。


「な……んで」


 驚きに目を見張り、思わずそうつぶやくエルティアに、グリゼリアは訝しげな目を向けた。


「何を呆けておる。ほれ、そこが我が家じゃ。行くぞ」


 エルティアの手を引っ張り、草むらの中を歩いていくグリゼリア。


 見ると、見上げる程大きな大木の下に埋もれるように一軒の木造の家があった。


 複雑に這う巨大な木の根に巻き込まれるかのように建つその家は、壁面が長い蔦や草花に覆われており、裕福な家の子供だったエルティアでさえ見たこともないような透明度の高いガラスがはめ込まれた窓がしつらえてあった。


 草花の意匠が施された木製の玄関の扉を開き、中に入る。入るとすぐに居間があり、そこには何に使うのかさっぱり分からない奇妙な物ばかりが所狭しと置かれていた。


 おかしな形の透明な瓶や、見たことのないような禍々しい形の鳥獣の骨。不思議な虹色の光を放つ大きな鉱石に、紫の炎が灯るランプなどの奇妙な道具の数々。そしてなにより、膨大な数の書物や巻物が雑然と山のように部屋のあちこちに置かれているのには、エルティアは目を剥いて驚いた。


 本はとても貴重なもので、裕福な商人だったエルティアの父親とて、きちんと製本された書物をこのような数は所蔵してはいなかった。


 グリゼリアは、暖炉の側に置かれてあった安楽椅子に腰を落ち着けると、パイプを片手に大きく息を吐いた。


「ふう、やれやれ。思わぬ遠出をしたものじゃ」


 パイプを口に咥え、紫煙を吐き出すと、赤銅色の瞳を入り口側に立ち尽くすエルティアに向ける。


「さて、小娘よ。汝はここに何しに来た」


 女からの思わぬ質問に、エルティアは呆然とした。


 何しに来た?自分を奴隷として買い上げ、いきなりここに連れてきたのはそちらではないか。それも、どうやってここまでやってきたのかさっぱり分からない。恐ろしい。


「……」


 女の得体の知れなさと、意味の分からぬ問いかけにエルティアが口をつぐんでいると、グリゼリアは眉根を寄せ、その細い指をこめかみに当てた。


「ふむ……そうか。我がここに汝を連れてきたのであったな……。やれやれ。不慣れな事ゆえ、勝手がとんと分からぬ。まったく、契約とはいえ、あの坊主には面倒なことを押し付けられたものよ」


 グリゼリアは手にしたパイプをエルティアに向け、目を細めた。


「小娘。汝は口が利けぬのか?そうでないならば、これだけは言っておく。我は腹蔵なきを(よし)とする。今言いたい事、尋ねたき事あらば、その一切を申すがよい。これは我が命ぞ」


 低くなった声色のグリゼリアの言葉は、得体の知れない威圧感を伴いエルティアの耳朶に響いた。


 体が硬直し、足が細かく震え出した。ゴクリと一つ喉を鳴らし、言葉を絞り出そうとする。


「……な」


「ふむ?何じゃ、早う申せ」


「な、ぜ……私を、買ったの……?」


「汝を買った理由かの?知れた事よ。これが契約だからじゃ」


「……けいやく?」


「そうじゃ、坊主との契約じゃ。ホルス谷に住まうある魔獣の胆と引き換えに汝の世話を頼まれたのよ。素材の希少性と坊主の力量を鑑み、契約を結ぶに足ると判断したまでのこと」


 グリゼリアはそう言ってゆっくりと煙草の煙を吐き出す。


「ぼ、坊主って……誰?」


 ある予感にエルティアの鼓動が早くなる。まさか。


「坊主は坊主よ。汝は当然知っておろう?毎日のように汝の元に通っておったと聞いたが」


「……!」


 やっぱり……!


 エルティアは、震える手を胸の前で組み、浮かぶ涙をまなじりに溜めた。


「あ、あの子は!あの子はどこ!?どこにいるの!?」


 エルティアはあの少年の屈託のない笑顔を見たかった。


 会いたい。会って、今まで会いに来てくれなかったことをなじってやるのだ。そして……一杯話をしよう。今度は私から。


 グリゼリアは目を細め、安楽椅子をギシリと鳴らすと、一つ大きく煙草の煙を吐き出した。


「死んだ」


「……え?」


 目の前の女が言ったことを理解できず、エルティアは呆けたように聞き返す。


「死んだと言っておる!不快ゆえ、何度も聞くでないわ」


「し……」


 死んだ?あの子が?どうして?どうして死ななきゃならないの?分からない。一体何が……。


「……ホルス谷に住まう魔獣はいっぱしの戦士でさえ複数人で掛からぬと相手取れぬ難物よ。あのような小僧が奇跡的に胆を持ち帰ることができたとて、無事でおれる道理がなかろう」


「……」


 エルティアの鉛色の瞳が、深い暗闇に沈んでいく。それを見て取ったグリゼリアは、手にしたパイプをクルリと回し、吸い口で頭を掻く。


「まったく……面倒なことよ」


 そう言って、大きくため息をついた。








 それから数日、エルティアは一言も口を利かず、宛がわれた小さな部屋に閉じこもったまま出てこようとはしなくなってしまった。


 用意された食事にも手をつけず、壁に寄りかかって足を抱えたまま虚空をじっと見つめるばかりだった。


 床の上に置かれた皿の手つかずのパンを見たグリゼリアは、部屋の入り口の縁に寄りかかり、パイプをゆっくりと燻らす。


「死ぬつもりかの?」


「……」


「契約により、我は汝の世話をせねばならぬ。なれど、生に執着なき者を生かす術を我は知らぬ。業腹じゃが、世話とは、汝の頼みを聞くことも含まれよう。死にたければそう言うがよい。苦しまぬよう、一瞬で汝を消し飛ばして進ぜる」


 そう言って、グリゼリアは突然手の平に漆黒の炎を生み出した。禍々しい炎の揺らめきを見て取ったエルティアは、久しぶりに口を開いた。


「魔法……?」


 魔法という技術自体は世間に広く知られるものだったが、実際に使われるところを見るのはエルティアにとって珍しいことだった。


 かつて住んでいた故郷の町には、まともに魔法を扱える者は数えるほどしかおらず、それが使われるところを見ることなどほとんどなかった。


「そうじゃ。これで汝なぞ一瞬で消し炭になろう。どうするかの?」


「……」


 揺らめく黒い炎を見つめ、エルティアは思った。


 それもいいかもしれない。


 もう苦しいことや悲しいことはうんざりだ。


 それに。


 ここで自分が死んでも、誰も悲しむことは、ない。


 私に笑いかけてくれる人など、もう誰もいないのだから。


「……」


 ふいにあの少年の笑顔がエルティアの脳裏によぎった。


 絶望を彷徨っていた自分を救い上げてくれたあの笑顔。


 最初はあんなに憎らしかったのに、いつの間にか生きる(よすが)となって毎日天幕の間から彼が顔を覗かせるのを追い求めるようになった。


「どうして……」


「ふむ?」


「どうしてあの子は、私なんかのために……自分の命までかけて……」


「知らぬわ」


「……」


「知らぬが、奴も浮かばれぬであろうよ。己が命を懸けてまで救おうとした命が、ゴミくずのように捨てられようとしておる。それも本人の手によってじゃ。救われぬ話よの」


「……っ」


「だが、まあ、己の死を自ら選べるというのは、考えようによっては贅沢な話かもしれぬがな。生きたくとも生きられぬ者もこの世には数多おる。生きたくとも生きられなかった魂も多く彷徨っていよう。汝の周りにもそういう者はおらなんだか?」


「!」


 エルティアの脳裏に家族の笑顔や町の人々の顔が浮かんでは消えた。彼らは生きたかった。そして、生きたくとも生きられなかったのだ。


 グリゼリアは、黒い炎をかざしながら、エルティアを見据えるその目を細めた。


「……さて。死にたいのなら早うそう言うがよい。そして、あの世とやらで坊主に言ってやるがよいわ。汝の労苦はすべて徒労に終わった、とな」


「……」


 エルティアは、震える自らの手を見つめた。


 あの地獄の中で見た、冷たい躯じゃない。そこには暖かく息づく生身の体があった。あの少年に救われた自分がここにいた。


 父と母に愛された自分は、まだここに生きている。


「お父様……お母様……」


 手の平に一つ、二つと滴が落ちる。まなじりから止めどなく溢れてくる涙は、驚くほど暖かかった。


 エルティアの様子を見ていたグリゼリアは、手の平の炎を一瞬でかき消すと、パイプを咥えて鼻を鳴らした。


「……本気で死にたい者は黙って勝手にとっとと死ぬものよ。愚か者め。甘えることしか知らぬ愚かな童に命じる。死にたくなければ、そこなパンをさっさと口にするがよいわ」


 そうグリゼリアに命じられたエルティアは、頬を涙でぐしょぐしょに濡らしながら、パンを手に取り、口に入れた。


 そのパンは、少年がくれたパンと同じぐらい固く、しかしそれより遥かにしょっぱい味がした。








 迷いの森の漆黒の魔女。


 恐れを含めてそう呼ばれる魔導師グリゼリアは、一人の弟子を取ることになった。


 エルティア・エステディン。


 後の世に、救世の大魔導士と呼ばれることになるその少女は、だらしない師匠がすぐに無茶苦茶にする部屋の片づけをしながら尋ねる。


「お師匠、そう言えば」


「なんじゃ」


「私、あの男の子の名前も知りませんでした。大切な恩人なのに。お師匠は知っておられますよね?」


「ふむ」


 グリゼリアは、いつものように安楽椅子に腰かけながらパイプを燻らす。


「そうよの……グイン。グインと、いったかの」


「グイン……」


 エルティアは、その恩人の名を心に刻んだ。生涯、忘れることはないだろう。少女は胸に手を当て、大切なものをしまうようにその名を繰り返し呟いた。


「じゃあ、お師匠。街に下りて買い物をしてまいります。帰ったら、グインの事、もっと教えて下さいね。それと留守の間にお部屋を汚さないようにして下さいよ!では行ってまいります」


 エルティアは、ペコリと一礼すると、紫紺のローブを翻して外へと飛び出していった。


 弟子を見送ったグリゼリアは、ふうと大きく紫煙を吐き出すと、パイプの吸い口で頭をかいた。


「まいったの」


 偉大なる漆黒の魔女は、困り顔でため息をつき、安楽椅子をゆっくりと揺らし始めるのだった。





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