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幕間 鉛色の出会い1

 ボトボトボトと麻布に雨が滴る音が、野ざらしの檻の中に響いていた。


 檻が並ぶ天幕の中、粗末な麻布のほつれからの滴る雨のしずくがポツリポツリと檻の天井を叩く。この粗末な天幕と檻だけが少女の雨露をしのぐ唯一の術だった。


 鈍色の空から絶え間なく降りしきる秋雨が、しばしば風で横振りとなって檻の中で足を抱えて座る少女の薄汚れた肌と銀髪を濡らす。


 寒さで、カタカタと歯の根が合わない。少女が寒さに震えていると、檻の外に立った外套を着た男が無造作に粗末な毛布を投げてよこしてきた。そのままいずこかへと去っていく。


 少女を憐れんでのことではない。体が弱り、病を得るなどすると少女の「商品価値」が下がるからだ。


 少女は、毛布を掴むとそれを檻の外に投げようとする。しかし、一瞬の逡巡の後、それを体に巻き付けた。かび臭い毛布にくるまり、震えながら少女は目を閉じた。


 目を閉じると思い出したくもない記憶が脳裏に浮かんでくる。しかし最近、少女はそれでも目を閉じることが多くなっていた。


 もう、見るべきものなど、この世のどこにもないのだから。







 死はどこにでも転がっている。


 エルティア・エステディンがそれを知ったのは、彼女の十歳の誕生日の時だった。


 彼女は裕福な商家の娘で、優しい両親と仲の良い妹に囲まれ、何不自由のない生活を送っていた。


 それが、たった一晩で全てが覆ってしまう。彼女が住んでいた小さな町が野盗集団に襲われたのだ。


 隣国の聖騎士団と嘯く傭兵くずれのその悪漢たちは、町の自警団を瞬く間に殲滅して暴虐の限りを尽くした。


 年老いた者や抵抗する年若い男は皆殺しにされた。女子供は奴隷商へと売り払うために捕縛され、母親から取り上げられた乳飲み子は、冷たい川の中に投げ入れられた。


 エルティアは、地獄を見た。


 仲良くしていた使用人たちの物言わぬ躯。父親の部屋の扉の下から流れ出る大量の血。美しかった母親は、目の前で犯され最後には胸を刺されて絶命した。


 たった一人の妹とも生き別れ、野盗に捕らえられたエルティアは、そのまま奴隷商へと引き渡された。


 それから幾日過ぎたのか、エルティアには分からない。興味もなかった。もはや意味がないからだ。


 彼女にとっての生は過去だけにあって、未来にはあの地獄のような、そして無意味な死があるだけだった。








「……なあ、お前なんでこんなとこ入れられてるんだ?」


 その少年がエルティアに話しかけてきたのは、晴天の空高い秋空の日のことだった。


 黄褐色の髪に黒い瞳をしたその少年は、不思議そうに首を傾げ、エルティアを真っ直ぐ見つめていた。その高価そうな身なりから、どこかの裕福な商人か貴族の子弟であると思われた。


「……」


 エルティアは、光の無い鉛色の瞳を胡乱気にわずかばかり動かして少年を一瞥したが、すぐに膝の中に顔をうずめた。


 自分と同じか年下だろうか。苦労知らずの坊ちゃんといった感じで、妙に明瞭なよく通る声をしていた。


「何か悪い事した罰なのか?俺もよくいたずらして地下室に閉じ込められたりするぜ。実は秘密の抜け道があって全然平気だけどな!」


 少年の言っているほとんどのことをエルティアは聞いてはいなかったが、一つの言葉だけが耳に引っかかった。


 悪い事をした罰。


 ――私はどんな罰を犯したのだろうか。どんなひどいことをすればこんな――


 コツンと何かが肩に触れる感触がして、エルティアはビクリと体を振るわせた。


「……」


 見ると、少年がパンを差し出していた。


「ちょっと硬いけど、このパンうまいんだぜ。家のパンよりこのグルド爺さんの店のパンの方が俺は好きなんだ」


 ん、と少年がパンをエルティアの目の前に出して持たせようとするが、彼女はぼんやりとパンを見つめたまま動かない。


「腹減ってないのか?じゃあ、ここに置いとくから腹減ったら食べればいいよ」


 少年は、パンが入った紙袋ごと檻の中の少女の側に置いた。そして檻を背にして座り込むと持っていたパンをむしって口に入れる。


「こっちの方には遊びにくるなって言われてたから、ここに来るのは初めてなんだ。檻とか一杯あるからサーカスかなんかと思ったけど……なんなんだ?ここ」


「……」


 エルティアはパンを見つめながらずっと考えていた。


 あの日、誕生日だという事に浮かれてお父様のお仕事を邪魔したのがいけなかったのだろうか。あの日、お母様が用意して下さっていたプレゼントをこっそりのぞき見をしてしまったのがいけなかったのだろうか。あの日、私ばかりが特別扱いをされてむくれるアルティナに優しくしてやれなかったのがいけなかったのだろうか。あの日、使用人のエッタが食事の用意をしているときにつまみ食いをしてしまったのがいけなかったのだろうか。それともそれともそれともそれとも。


 些細な罪であるわけがない。


 これほどの目に遭うほどの、とんでもなく酷い事を私はしたはずなのだ。神様がお怒りになるほどの何かを。


 それは何?それは何?それは何?


 エルティアは理由を求めて自らの悪行を暴き立て続けた。暗闇の中、素手で土を掘り返すように、何の当てもなく、何の意味もなく、ただ自らを傷付けるだけの行為に没頭した。


 そして気が付くと、空は夕焼けに赤く染まっており、少年はいなくなっていた。


 少女の中に、少年の言葉は何一つ残っていなかった。








「よ。まだ閉じ込められてんのか」


 少年は次の日も姿を見せた。ぼんやりと少年の顔を見やったエルティアだったが、最初彼が誰だか分からなかった。


 しかし、手に昨日と同じくパンが入った紙袋を手に持っているのを見て、表情を強張らせた。


「……」


 正直、エルティアは少年の顔も見たくなかった。こいつが来るとろくなことがない。


「また持ってきてやったぜ。お前、顔色悪いからもっとちゃんと食べた方がいいぞ」


「……」


 エルティアは、顔を膝にうずめたまま首を振った。


「なんでだ?パン嫌いだったか?」


「……」


 昨日、檻の中に置いてあったパンを奴隷商の小間使いに見とがめられ、そのせいでひどく殴られたのだ。私は何も悪い事していないのに。


「じゃあ今度は、家から何かお菓子を持ってきてやるよ。俺は甘いのあんまり好きじゃないんだけど、女の子はそういうの好きだろ?」


 少年は昨日と同じく、檻を背にして座り込み、とりとめのない話を始める。


 しかし、エルティアの耳には届かない。


 ――私は悪くないのに、殴られた。


 お父様もお母様もアルティナも、誰も悪くないはずなのに、どうしてあんな目に。どうして、どうして、どうして。


 ……やっぱり私が何か悪い事をしたの?私が居なくなれば、みんな元通りになる?


 誰か教えて。誰か――


 深く自虐の淵に落ちていたエルティアが再び顔を上げた時、昨日と同じく少年の姿はすでになく、日が暮れようとしていた。檻の中にはパンはなかった。







 あくる日もやってきた少年に、エルティアは煩わしさと共に、怒りとも呆れともつかない思いを抱いた。どうしてこいつは毎日毎日ここに来るんだろう。放っておいてほしいのに。


「ほら、約束通り、今日はお菓子だ。クッキー焼いてくれたんだ。あんまり甘くないかもしれないけど、結構いけるんだぜ」


 リボンでしばった包み紙をエルティアの側に置くと、いつもと同じように檻にもたれ掛かって座り、町の悪ガキたちの話を嬉々として語り始めた。


「靴屋の息子のハロルドがさ。お使いを頼まれたのに、途中でその金で買い食いしたのがばれて靴の木型でしこたまケツぶっ叩かれたってぼやいてたんだ。バカだろ?でも、どうもその買い食いした串焼きの店の子にハロルドが惚れてるらしいってんで、みんなで――」


 少年が語る、なんでもない町の子供たちの話が、エルティアの心をざわつかせた。


 エルティアの脳裏には、故郷の町での生活の情景が浮かんでいた。


 友人たちと日が暮れるまで遊んだ記憶は、笑い声に満ちていた。男の子にまじってくたくたになるまで遊んだ後の、美味しい晩御飯。食卓は、家族の笑顔に溢れていた。


 そのどれもがもう全て失われてしまった。楽しそうに語る少年はそのどれも持っているのだろう。自分が持っていないものを、全て。


「……」


 妬ましい。


 エルティアはそう思った。


 少年が、楽しそうに話せば話すほど、自分がいかに惨めであるのかを思い知らされる。そして、この能天気に笑う少年の無神経さに怒りを覚えた。


 この少年がどうしてこんなに自分に構うのかは分からない。ただ、これが彼なりの優しさから来ているのだとしても、その無邪気な善意は時に人を傷付ける。


「――っ、か……!」


 久しぶりに、本当に久しぶりに他人に自分の感情をぶつけたい衝動に駆られたエルティアは、少年に怒りのままに怒鳴り散らそうと声を上げかけた。


 しかし、何日もまともに口をきいていなかったおかげで、喉がかすれてうまく声にならなかった。


「ん?」


 かすかに聞こえたエルティアの声に、少年が振り返った。そして、ふいに二人の視線が合い、エルティアは初めて少年の顔を正面から見ることになった。


 堅そうな黄褐色の短髪に黒い瞳。特別美少年といった風ではなく、人懐っこそうなわんぱく坊主といった印象だ。


 その辺の少年と比べても特徴があると言い難いが、一つ印象的な点があった。


 少年の黒い瞳だ。


 彼の大きな黒い瞳は、なんとも言い難い力強さが感じられた。一目見ると知らず知らずのうちに引き込まれそうになる。


 光を宿した黒瞳に、自分の顔が映っていることに気が付いたエルティアは、自分がしばらくの間少年の目をじっと見ていたことに思い当たり、顔を紅潮させた。


「やっと、こっち見てくれたな」


 そう言って、少年はニカリ、と笑った。


 何のてらいもないその無邪気な笑顔に、エルティアは言葉を詰まらせ、行き場を失った怒りを抱え込むように少年に背を向けてうずくまった。


「か……か、えって」


 やっとのことで絞り出せたエルティアの一言に、少年は満足そうな笑みを浮かべた。


「お前の声も聞けたし、今日は帰るわ。じゃあなエルティア」


 ふいに呼ばれた自分の名に驚き、少年を振り返るが、もう彼はそこにはいなかった。


「ど、して……」


 どうして私の名前を知っているの?


 そう思ったが、すぐに思い当たった。首から下げられた名前が書かれた木札。名前の他、話す言葉と年齢が書かれた奴隷の証。少年はこれを見たのだろう。


 バカにして……!


 羞恥に唇を噛み、木札を強く握る。


 そして、側に置かれていたクッキーの入った包み紙を取り上げると、檻の外に投げようとする。こんなものがあればまた殴られる。私は悪くないのに!


 しかし、エルティアは投げることができなかった。母から繰り返し言われた言葉が脳裏に浮かぶ。


 ――食べ物は神様からの贈り物よ。決して粗末にしちゃダメ――


「……」


 エルティアは辺りを見回し、誰もいないことを確認すると、胸元で音を立てないようにリボンを解き、包みを開いた。木の実の香ばしい香りが鼻をくすぐった。


 再び辺りを見回してから、クッキーをつまみ上げるとゆっくりと口に運ぶ。


「……」


 塩味が効いた素朴な味の木の実のクッキー。かつて使用人や母自ら焼いてくれたそれと同じ味がした。


「う……うう」


 エルティアの瞳から大粒の涙がとめどなく溢れてくる。噛みしめるほどに、懐かしさに胸が締め付けられた。


「お母様……お母様……」


 枯れ果てたと思っていた涙は、滂沱となって頬を伝い、檻の木の床の上へと落ちていく。


 包み紙を胸に掻き抱き、エルティアは静かに慟哭した。








 次の日も、そのまた次の日も少年はやってきた。


 毎日何かしらの食べ物を持ってきては、下らない話をして帰っていく

 少年に対する嫌悪感は種火のようにエルティアの奥底で燻ってはいたが、その話に耳を傾ける程度には関心を払うようになっていた。


 おかげで、少年の周囲の人たちの事について妙に詳しくなってしまっていた。


 ネーサン通りの悪童エイギス兄弟のいたずらの数々。本の虫の肉屋の息子カイルの地獄のポエム朗読会。靴屋の息子ハロルドとその仲を冷やかされている串焼き屋の娘シルクの秘密のデート。木登り上手の太っちょロイクと虫取り名人のハインスの毎日繰り広げられるいがみ合い。鍛冶屋の息子キースは最近美人だが気の強いお嫁さんをもらって早速尻にしかれているらしい。果物屋のトグルは五歳になる娘を溺愛しすぎて誘拐を心配するあまり冒険者を雇おうして奥さんにどやされた――


 エルティアは、話を聞いているうちに、いつしか惨めな自分を卑下する気持ちは薄らいでいた。


 それどころか少年たちともに街を駆け回っている自分を夢想した。


 顔もしらない人たちと一緒に遊び、話をして笑顔を見せる自分――


 ふと気が付くと、少年がこちらをみてニヤニヤと笑みを浮かべていた。


「……」


 それを見たエルティアが憮然とした表情を見せると、ニカリとあの愛嬌のある笑顔を浮べて言った。


「やっぱりお前、笑うと可愛いじゃん」


 それを聞いた瞬間、エルティアはみるみる内に自分の顔が紅潮していくのが分かって、少年を背にしてうずくまった。


 やっぱりこいつは無神経だ!キライキライ!


 エルティアの少年に対する嫌悪感は事あるごとに頭をもたげたが、次の日には元の種火のような僅かに燻る程度のものになっていた。


 そしていつしか、天幕の間からその少年の憎らしい顔を覗かせるのを、自分でも気が付かないままに心待ちにするようになっていったのだった。








 飽きもせず毎日のように姿を見せる少年。 


 エルティアは、背を向けて話をする少年をぼんやりと見つめることが多くなってから気が付いたことがあった。


 手足に幾つも怪我をしたような跡や、包帯が巻かれていることがあるのだ。少年は平気な様子だったが、日毎に怪我が増えているように思えて、さすがに気になった。


「それ……」


 ほとんど口を利かないエルティアが堪りかねて声を上げると、少年は少し驚いたように少女の方を振り向いた。そして少女が自分の怪我を指摘しているのに気が付いて、苦笑いを浮かべた。


「……ああ、これか?遊んでたら、ちょっとはしゃぎすぎてさ。派手に怪我してるように見えるけど、実はそんなに大した事ないんだぜ?ほら」


 と、包帯が巻かれた部分をバンバンと叩いて笑って見せる。


「……」


 無理をしているようには……見えない。本当に大したことはないのかもしれない。


 少年は怪我を気にするようなそぶりも見せず、再び何事もなかったように話を始めた。それきり、エルティアも少年も怪我のことに触れることはなかった。


 その夜。


 秋も深まり、日が暮れると肌寒さが次第に身に堪えるようになってきた。


 薄汚れた毛布にくるまりながら、硬く冷たい木の床に身を横たえていると夜のしじまに響くフクロウの鳴き声がやけに心細く聞こえてくる。


 寒さに耐えるだけならよかった。


 だが、最近は一人でいることへの寂しさにも少女は耐えなければならなかった。


 いつもうるさい、あいつのせい。


 エルティアは思った。明日、あの憎たらしい顔を思いっきり引っ張ってやる。許してっていうまで離してやらないんだから。


 その時、天幕の外から男たちの話し声が聞こえてきた。


「――あの売れ残りのガキ、買い手が見つかったってのは本当か?」


「ああ、手付金はもう支払われてるって話だ。近々引き取りにくるってことだぜ」


「あんなひょろひょろのガキ、何に使うんだ」


「……そこはほれ、お大尽には色んな趣味を持ってる人がいるだろう?俺にゃあああいうのに興奮する気持ちはさっぱり分からんがな――」


 男たちの声が次第に遠ざかっていき、周囲に静寂が戻った。


 売れ残りのガキ。


 その言葉にエルティアは愕然とした。自分が知る限り、子供はもう私しか……。


 エルティアは、以前隣の檻に入れられていた、十代半ばの少女が繰り返し言っていた言葉を思い出した。


 ――女は大抵が性奴隷にされる。酷い主人だと、毎晩のように蹴られたり殴られたり。子供が出来たりすれば最悪捨てられるか殺されることもある――


 まだ幼いエルティアは彼女が言っていたことを全て理解できていたわけではない。しかし、どういうことをされるのかを漠然とではあるが想像はできた。


 ふいに、母親が殺される場面が脳裏をよぎり、強く目を閉じて頭を抱えるようにうずくまった。体がガタガタと震え出し、止まらない。


 怖い怖い怖い!誰か……助けて!


 寒風が吹きすさび、天幕がバタバタと音を鳴らす。エルティアはその小さな体を抱え込み、毛布にくるまりながらまんじりともせず夜を過ごす。


 ……明日になれば、またあの子と……


 時折、あの少年の屈託のない笑顔が思い浮かんだ。そして、彼の話に出てきた顔も知らない少年の友人たち。


 その子供たちと見知らぬ街を駆け回る自分を夢想しているその瞬間だけ、エルティアは幸福だった。




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