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勇者がバイトを始めたら(サンプル)

作者:ひーらぎ
今作品は、C93冬コミにて販売する

「勇者がバイトを始めたら」

のサンプルとなります。
挿絵(By みてみん) 

 「登場キャラ」

品田アルト(しなだ   )

 深雨と一緒に喫茶店『雨宿り』で働いている心優しい青年であり、本作の主人公。
 三年雨、工事現場の事故に巻き込まれたことで、アレボスへ転移されてしまう。転移のショックで日本での記憶を全て失ってしまう。
 その間は勇者アルベルト・シュナイダーとして、聖剣メルクを手に魔王討伐を目指し戦闘の日々を送っていた。
 魔王を追って日本へ転移したことがきっかけで深雨と再会。
 現在は魔王を討伐し、少しずつ失われた記憶を思い出しながら深雨と働いている。

■水星深雨(みずぼし みう)
 本作のヒロイン。喫茶『雨宿り』の店長でアルトの恋人。
 アルトが行方不明になったショックから、一時は放心状態だったがいつか帰ってくる日を夢見て店を閉じることはしなかった芯の強い女性。
 世話好きで、気づくと相手を甘やかしてしまう天然のダメ人間育成人間。

白藤山茶(しらふじ つばき)

 地元じゃ知らぬ者はいない白藤家の一人娘。 
 和服を着ていることが多く、大和撫子を体現したようなおしとやかな少女――というのは表の顔で、実際はどこにでもいる普通の女子高生。

大鳥レイネ(おおとり    )

 雨宿りの常連客。左右で色の違うオッドアイが特徴の女性。
 その正体はアルトとは違う異世界から転移してきたエルフであり、精霊魔法の使い手。 現在は深雨に紹介された会社で事務員として働いている。
 時間問わず、ほぼ毎日『雨宿り』に足を運ぶ超常連客。

■ギブソン

 浅黒い肌の筋肉ダルマでスキンヘッドの大男。
 かつては神官としてアルベルトの冒険をサポートしていた。
 現在はアレボスへ帰る方法を探しつつ、深雨に紹介された建設現場で汗を流している。また、生活費を節約するために、コトハとルームシェアをしている。

■コトハ 

 グラマーな体型で大人の魅力溢れる黒髪の女性。
 かつては魔法使いとしてアルベルトの冒険をサポートしていた。
 現在はギブソン同様アレボスへ帰る方法を探しながら、深雨に紹介された建設現場で事務員として働いている。また、出費を抑えるためギブソンとルームシェアをしている。


  「1巻までのあらすじ」

 勇者アルベルト・シュナイダーは『アレボス』で魔王クシャナと決戦に挑んでいた。
 戦況がアルベルト優勢で傾く中、クシャナは敗北を予感し異世界のゲートを開いて撤退を試みる。しかしそのゲートへアルベルトも飛び込んだ。
 そうして転移した先は日本のとある街。
 クシャナを探す中、アルベルトは喫茶店『雨宿り』を営む女店主、水星深雨と出会う。彼女は過去に事故で一緒に店をやっていた彼氏を無くしていた。
 その彼、品田アルトと瓜二つのアルベルトを前に、深雨は彼が戻って来たと歓喜の涙を流して、一緒に暮らすことに。
 そうして奇妙な同棲生活が始まる中、アルベルトを追って神官のギブソン、魔法使いのコトハが遅れて転移してくる。
 そうして始まったクシャナとの決戦。
 アルベルトは聖剣メルクを手に戦うが、クシャナは『アレボス』にいた頃よりも強さが増していた。
 魔力不足で、徐々にクシャナに圧され始めるアルベルト。
 このままでは負けるのは時間の問題。
 アルベルトは深雨を連れて逃げることを選択。
 そしてアルベルトは逃げ込んだ古い民家で、自分は「品田アルト」ではない全くの別人であることを深雨へ打ち明ける。
 しかし、深雨は彼が自分の恋人ではないことをどこか悟っていた。しかし、それでも深雨はアルベルトの傍にいたい、と震えながら訴える。
 一瞬でも彼女が知っている「品田アルト」になれたなら、そう願いながらアルベルトは深雨と唇を交わす。
 すると、アルベルトの中にとある記憶が流れ込んでくる。
 それは深雨の中にある品田アルトの記憶――ではなく、アルベルトの中に封じ込められていた「品田アルトだった頃」の記憶。
 アルベルトは自分が事故にあった記憶を失ったまま、『アレボス』へ転移して勇者として生きるようになったことを思い出す。
 深雨と離れた三年間の月日。
 それを取り戻すため、アルベルトはクシャナと最後の一騎打ちに勝利。
 そうして平和な日常を取り戻したのだった。


   「プロローグ」

 魔王クシャナとの戦いからもうすぐ一ヶ月と少しが経とうとしていた。
 七月も終わりが見えてくれば、陽が沈んでもまだまだ十分暑い。今年は六月くらいから暑さの猛威が始まったが一ヶ月経っても慣れることはなかった。
 それどころか、日々の疲れが抜けなくなったようにも思える。
 屋外と店内の温度差でやられているのか、はたまた慣れたとは言えない『雨宿り』での業務のせいか。
 しかし、休むわけにはいかない。
「いらっしゃいませー。お弁当温めますか?」
 商品カゴへ弁当なんかを入れた客へ、疲れを押し殺して微笑で対応する。
 夜二十時。アルトの本日二度目の労働――コンビニバイトが幕を開けた。


 1章「孤独の檻 夏の夜」

   1

 夜も七時を回れば『雨宿り』の営業はゆるりと終わる。
 店舗になっている一階の明かりは落とされ、ようやく一段落付くことができるのだ。
「お疲れ様。今日も終わったねぇ~」
 薄い栗色の髪をポニーテールっぽく縛った女性。『雨宿り』の現店長、水星深雨が垂れた目元でゆったり微笑した。大きく伸びをした背中から、ポキポキと一日の疲労が伺える音が聞こえる。
 同時に、やたら胸元が強調される姿勢になっているため、アルトとしては視線の行き場に困ってしまった。
 深雨と付き合ってからだいぶ、それこそ年単位の時間を一緒にしているはずなのに。何度となく彼女と夜を過ごしたはずなのに。
「アルトってたまに凄く難しそうな顔するよね。何考えてるのかなぁー?」
 気まずさや居心地の悪さとはまた違う微妙な心持ちで俯いていると、深雨が下から顔を覗いてきた。屈んでいる姿勢はやはり危険で、Tシャツの首元から水色のフリルが無邪気に存在を主張してくる。
「べ、別に大したことないよ。深雨って胸でかいなって思ってただけだし」
 まるで思春期真っ只中の中二男子みたいなことを言いながら明後日の方向へ目をやる。それを楽しんでいるのかどうか、
「触る?」
 深雨が更に近づいてくる。
 ふわりと漂う花の香りと一緒に、コーヒーの香ばしい匂いが重なってアルトは無意識に唾を飲んだ。
「いいの?」
「今はだめかなぁ」
「今じゃなければ……」
「……しーらない。変態」
 ボソッと耳元を掠めた声が消えないうちに、深雨はパタパタスリッパを弾ませて隣接するキッチンへ行ってしまった。
 その姿を見つめつつ、アルトはソファーへ身体を沈める。
「いい匂いだったな。コーヒーの……」
 自分の指先をそっと鼻まで持っていく。深雨と同じコーヒーの匂いが鼻腔をそっと撫で抜けていく。それがアルトの中で固まっていたモヤモヤしたものを僅かに溶かし、、
「はぁ……」
 溜息となって口から零れていった。
 本格的に店の業務へ復帰して、コーヒーを淹れるようになって一ヶ月あまり。
 コーヒーとは生き物だ。
 身体でその日の気温や湿度なんかを感じ、相応しく淹れないとベストな味は生まれてくれない。彼女は言った、

『昔……っていうと変かもしれないんだけど、記憶を無くす前のアルトのコーヒーは美味しいのはもちろんだけど不思議な感じがしたんだよね。飲んだら笑顔になるような……温度じゃない温かさがあったの』


 もしその話が本当だとして、その感覚はいつ戻ってくる?
 身体が覚えていた経験では届かないであろう職人の域へどうすれば辿り着けるのか?
 今のままじゃ無理なことはわかっているが、打開策は見えてこない。
 ましてや、従業員は深雨との二人のみ。
 付きっきりでコーヒーの相手をするわけにもいかないのだ。
「なにが足りないんだろうなぁ」
 何気なく呟くと、
「焦っても仕方ないよ」
 二人分のカップを手にした深雨がキッチンから戻って来た。すぐ隣へ座ると、
「これ飲んでね」
 渡されたカップへは、つい数分前まで戯れていた真っ黒な液体がゆらゆら踊っていた。そこへミルクを注げば、白と黒の境界線が重なり曖昧になり――抱き締められているような安心感が胸へ広がっていった。
 深雨が言っていたのは多分きっとこういうことなんだろう。
「なんか特別な淹れ方してる?」
「別に普通だよ? 美味しくなるといいなって思いながら淹れてるだけ」
「……なにが違うんだろうなぁ」
 確かめるように一口、また一口と含んでからテーブルへ置く。そこでも隣へ深雨のカップが寄り添っている。
「慌てなくていいよ。別に手を抜いてるわけじゃないんだから。それに、これからは……時間できるでしょ?」
「時間……?」
「だってほら、もうアルトは勇者じゃないから」
「あ、あぁ……」
 深雨の励ましへアルトの溜息が喉の辺りで留まった。
 魔王クシャナを倒した以上、勇者の証である聖剣メルクを振るう機会もないだろう。
 勇者アルベルト・シュナイダーとしての仕事は終わったんだ。
 これからはアレボスではなく、ここ人間界の日本で、品田アルトとして生きる。わかってはいるけど、
「そう……だよね」
 かつて同じ戦場を駆け抜けた仲間たちがアレボスへ帰って行ったとき。それまではまだ勇者でいなくてはならない。そんな気がしていた。
 アルトが内心そんなことを考えていると、
「時間かけて前より美味しいコーヒー淹れられるように頑張って。私、いつまでも店長やるの嫌だからさ。今日来てくれた人も、アルトが店長に戻るの期待してると思うよ?」
 マグカップを両手に包んだ深雨が両膝を立ててこちらを見つめていた。そのままアルトの左肩へ温もりが乗る。
「夜ご飯、もうちょっと待ってね。少し休憩したら作るから」
「あ、あぁ……」
「アルト?」
 歯切れの悪い返事に深雨が首を斜めにした。
「食欲ない? 最近忙しかったもんね、夏バテ?」
「いや、そうじゃなくて……」
 アルトが考え込むように口を噤んだ。深雨がアルトの顔を覗く。
「お腹痛い?」
「……ごめん。このあとちょっと用事があって、出ないといけないんだよね。だから夜ご飯は……帰ったらにするよ」
 気重く呟いたアルトへ、途端に深雨がくすくす肩を震わせた。
「深刻そうに言うから心配しちゃったじゃん。予定あるならそう言ってよ~」
「ごめん。あまり店でも活躍できてないし、最近こういうこと増えたから悪いなって」
「仕事とプライベートは別でしょ? ちゃんとリフレッシュして来て」
「ごめん……ありがとう」
 深雨の笑顔へ送られるようにアルトが腰を上げる。財布やら貴重品をジーンズのポケットへねじ込んで玄関へ歩き出す。すると、
「あ、待って。お金ある?」
「あるよ。というか、そこまでは流石に……」
「でも何かあったら大変だし。何もなかったら返してくれればいいから」
 深雨がいそいそと、自分の長財布から福沢諭吉を一枚抜き出した。それをアルトへ押し付けるよう手渡す。
「楽しんできてね」
「あ、あぁ……」
 受けとりたくないのに、深雨の笑顔がそれを許してくれない。
 まるでパチンコへ行くために同棲している彼女に金をせびるダメな彼氏そのものだ。ただ違うところは、この金は絶対に使うことがないということ。
 そもそも、これから行く場所は――決して使うことがない場所なんだから。
「じゃあ行ってくるよ」


 この街へ戻って来るまで「品田アルト」は死んだ人間として扱われていた。
 三年前のあの日。工事現場で起こった事故から深雨を救うためにも飛び込んだ品田アルトは偶然開かれた異世界のゲートに飲み込まれて姿を消したからだ。
 そのショックから記憶を無くしたアルトとは、『アレボス』で魔王討伐のためだけに剣を握り、生と死の境目が近すぎる日々を過ごしてきた。
 故に――今この生活があるのは奇跡なのだ。
 何気なしに魔王が開いた異世界のゲート。そこを潜らなければ、今もアルトは勇者、アルベルト・シュナイダーとして生きていただろう。
 決して彼女のことを思い出すこともないまま。
 もし現実にそうなっていたとしたら、果たして自分はどうしていただろう?
 いや、何も記憶がないのだ。当たり前のように聖剣を振るい、『アレボス』へ蔓延る悪を葬る日々を続けていたに違いない。
 では深雨は?
 アルトがいない日々は深雨にとって、虚空のような時間だったのだろう。
 好きな人がいない無色透明な日常。
 考えただけで、気がおかしくなりそうだ。
 多分それは生きているけど死んでいるようなもの。
 そんな悲しい日々をもう二度と深雨に体験させてはいけない。
「ありがとうございましたー」
 コンビニ夜勤バイトという戦場を生き抜く活力となっていた。
 全ては七月半ばに始まったのだ。


 七月半ば。
『今って色んな結婚式があるんだねぇ。水族館で結婚式とかやれるんだってー」
 『雨宿り』の昼休憩中、深雨は昼のワイドショーで特集されていた最新結婚式情報を前に少女のように目を輝かせていた。
 いつもの包むような微笑みではなく、純粋な憧れを前にした笑い顔。アルトはただその横顔へ夢中になっていた。
 自分がいなかった三年間はもう取り戻すことはできない。
 それを取り戻す手段があるとするなら、
「結婚……か」
 深雨との関係が始まってもう随分と時間が過ぎた。
 深雨が結婚式へ憧れているように、アルトもまた一つの憧れを抱いていた。
 その憧れは結婚という形ではなく、もっと身近なもの。
「ん? どうしたの? じっと顔見られると照れるんだけどなぁ」
「なんでもないよ。昔より老けたなって思っただけ」
「うるさいなぁー。そういうこと言ってると、アルトが昔くれたラブレターみんなの前で音読するよ?」
「ちょ、それは……」
「冗談だよ。というか、音読する方も恥ずかしいし、あんな正直な手紙さぁ」
 クスクス笑いながら深雨が、
「お茶淹れてくるね」
 と、逃げるように腰を上げようとする。釣られるようにアルトの視線も動いて、赤く染まった彼女の耳で止まった。
「アルト……?」
 気付くと、深雨は立ち上がるのを止めてじっとこちらを見つめて首を傾げている。
「お茶、いらなかった? 急に手繋がれたから」
「あ、いや……」
 いつからそうしてたのだろう。
 毎日のように繋いだ手は、思ったよりも細くて長い。そんな彼女の白い指に嵌めるとしたらどんなリングが似合うだろうか。
 アルトの脳裏へそんなことが過ぎった。
「なんでもないよ。指細いなって思っただけ」
「そうかな? アルト……手フェチ?」
「なんでそうなんだよ」
「ふふ、冗談冗談」
 なんて楽しそうに笑いながら、深雨が今度こそキッチンへ立った。間もなくポットからお湯を注ぐ音が聞こえてくる。
 アルトはワイドショーを適当に眺めながら、まだ手に残る深雨の細い指を思い出す。
「……頑張ってみるか」 
 アルトはそっと決意を固めた。
 笑われてもいい、断られてもいい。
 今は結婚したくない、そう思われてもいい。
 これは自分を待って一人でい続けた深雨へ向けた感謝の気持ちなんだから――。


  2

 バイトの時間は夜八時から深夜十二時を回るまでの四時間。それを週に三日から四日。これが『雨宿り』での仕事に支障を出さずに済む最低ラインだろう。
 レジ対応、売上金の計算、ドリンクの補充。雑貨とパンの納品陳列。せわしなく動き続けていれば四時間なんて一瞬だ。
「じゃあお先です」
「あぁお疲れ。アルト、慣れてきたか?」
「まぁぼちぼち」
「そうか。俺としては助かってんだけど、お前さん向こうもあるんだしほどほどにしとけよ。秘密にはしといてやるけど、深雨ちゃん泣かすんじゃねぇぞ」
 このコンビニの店長へ肩を軽く殴られる。人懐っこい笑みはたまに客として『雨宿り』にやってくるときと全く同じだ。
 多分――この人もアルベルト・シュナイダーとして生きる前。つまり、アレボスへ行くまでの品田アルト、という人間を作る上でなにかしら関わった人間なのだろう。
 彼への記憶はまだ思い出せていない。
 魔王クシャナとの戦いで記憶を取り戻したとは言え、それはほんの一部だけだ。まだまだ思い出さくてはいけないことは多くあるんだろう。
 けど、それは追々でいいだろう。
 せっかく深雨との平和な日常が戻ってきたんだ。
「じゃあまた明日、店長」
 裏口を通じて外へ出ると、小さな公園が道路の奥へぼんやり見える。深夜0時を回ったのもあり、ブランコなどの遊具はもちろんベンチにも人影ひとつ確認できない。
 不気味に静かな公園を横切るように抜ければ、駅の近くまで伸びる並木通りへ出る。こちらは整備が行き届いているようで、街灯の数やベンチの数が段違いだ。
 駅からそこそこ離れていて、傍に家やコンビニがあるわけでもない並木通りはカップルが静かに過ごすにはもってこいの場所なのだろう。目に付くベンチへは、色んな年齢層のカップルが静かな夜に愛を深めていた。
 そんな光景がアルトの中で深く印象へ残ったのか、いつの間にか通りを行く歩幅が狭くなっていた。その速度は隣に深雨がいるときと同じもの。
 隣には誰もいないはずなのに、近くに深雨がいる気がしてアルトの口元が僅かな微笑みを作っていた。もう少しだけ深雨といるときの気持ちに浸っていたくて、ゆっくり歩き続けていると、
「……はぁ」
 丁度差し掛かったベンチへ、夜の闇とよく似た色の和服に身を包んだ女性が座っているのを見つけた。長い黒髪が街灯に照らされて、天の川のようにほんのり光っている。
「あっ……」
 目が合ったのはその女性が二回目の溜息を付きかけた時だった。
 視線が交差したかと思えば、アルトと逆方向へ静々走って行ってしまう。
 ここら辺で夏祭りなんてあったっけ……?
 アルトは顔まで確かに見れなかったその女性へ首を傾げ『雨宿り』までの道を急いだ。

 『雨宿り』へ戻ったのは深夜一時数分前のことだった。一階が暗いのは当然だが、二階はまだ明かりが灯っていた。
 深雨は今日もまだ起きているのだろう。
 あまり音を立てぬよう玄関を上がって、
「た、ただいま。ごめん、遅くなって……」
 そっとリビングを覗き込んでみる。
 こちらを背に置かれたソファーに深雨はいないらしい。リビングを一通り見渡してみても、明かりがあるだけで彼女の姿はなかった。キッチンの明かりは消えている。
「トイレ?」
 アルトが首を斜めにしながらソファーへ回ってみると、
「……まぁそうだよな」
 ついアルトの目尻がゆったり垂れ下がった。ソファーへは座らずに、足場へ寄り掛かるように腰を下ろす。半身でソファーを振り返り、
「いつからそうしてたんだー?」
 ソファー上で、猫のように丸まった深雨が寝息を立てていた。
 さっきまで起きていたのだろう、傍のテーブルへは仄かに湯気が登るコーヒーカップが置いてある。、
 並木通りでのんびりしてなければ、起きてる深雨と会えたんだろう。
 少し後悔しながら深雨の頭をそっと撫でる。滑らかに髪を流れる指先が深雨の頬で止まる。押しては返す肌の柔らかさを楽しんでいると、
「……あると? おかえり」
 眠気眼の深雨が頬へ置かれたままなアルトの指を触ってふにゃっと顔を綻ばせた。
「あ、ごめん。起こしちゃった」
「ううん。帰って来るまで待ってたかったんだけどねぇ。ごめんね、お腹空いたよね」
 深雨がよろよろ危なげに腰を上げるも、
「おっと……」
 すぐにアルトの胸元へ顔が埋まった。
 アルトの首へ手を回して、しがみつく形になった深雨がまたしてもふにゃりと笑う。
「ごめん、ごめん。まだ起きてないんだね」
「自分のくらい俺が用意するから寝てていいよ」
「えぇー、わたしもお腹空いてるんだけどなぁ」
「まぁお腹空く時間だしね」
「うん。アルトが出て行った後くらいからもうお腹空きすぎて」
 胸から離れた深雨がソファーへかかったエプロンを身に付ける。
「すぐ用意しちゃうね。温めるだけだから」
「手伝う?」
「うーん。お箸とかお皿運んでもらえる?」
「了解」
「アルト最近遅いから、一緒にご飯食べると太っちゃうんだけどなぁー」
 キッチンへ向かいながら深雨がゴキゲンな微笑みをゆらゆら奏でていた。 
 その後ろ姿は、いつも通りの深雨のものでアルトを少しだけホッとさせた。
 まだバイトしているのがバレていない。不安に思わせていない。
 深雨との未来を夢見ていながら、アルトは今この瞬間で胸がいっぱいいっぱいだった
 例え、それが自己満足だったとしても――。


「……アルトがね、最近夜中にふらっといなくなるの」
 はぁ、深雨の溜息が昼を少し過ぎた『雨宿り』店内へ重く波紋した。
 現在店内にいるのはカウンター席へ四人のみ。
 入口の近くから、肩が丸出しのタンクトップに土木作業用のズボンを履いた褐色筋肉ダルマにスキンヘッドのギブソン。
 艶っぽい黒髪をゆるっと内巻きにして、右目を隠すように分け目を作ったブラウスにプリーツスカート姿のコトハ。
 薄緑と金、それぞれの色がバランスよく混ざったゆるふわボブカットの色白少女。髪同様に左右の瞳も黄緑と金に別れたオッドアイが特徴のレイネ。
 この三名。
 つまりは、アルベルト・シュナイダー同様異世界から転移してきた異世界人だ。
 三人とも深雨の淹れたブレンドコーヒーに舌鼓を打つ中、
「アルト……最近何してるとか聞かない?」
 深雨の不安そうな声だけが店内を満たしていく。
「アルトさんは今どちらにいるでございますです?」
「ちょっとお使い。まだ帰ってこないと思うよ」
「でございますですかぁー」
 レイネの質問へ深雨が答える中、ギブソンが深く吐息した。
「マスター、男が黙っていなくなる。理由なんざひとつしかねぇだろ、女だよ。女」
「はぁ、これだから男は。少なくとも、だからアンタはダメなのよ。仮にもアレボスじゃ神官やってたのよね? 気の利くことも言えないわけ?」
 呆れたようにコトハが両肩を竦めた。しかしギブソンはただただ豪快に笑うのみ。
「生憎と神様はベガスで休暇の真っ最中だ。つまり、今の俺は神官じゃなくて、ただのしがない土木作業員よ。勘定、ここ置いとくからな」
 慣れた手つきでテーブルへ小銭を置くや、タオルを頭に巻いて席を立つ。
「マスター、心配しなくてもアイツに限って外で女作るなんて器用な真似はできねぇよ。そうさな、神はベガスに行ってるが元使いはここにいる。安心していいと思うぜ」
 ギブソンが深雨へ白い歯を覗かせるや、
「じゃあ俺は現場戻るからな、ボスの野郎、作業終了時間は曖昧なくせに昼休憩はきっちりしてやがんだ」
 ギブソンが後ろ手を振りながら店を出て行った。
 残ったのは女性陣のみ。
「アルト……浮気してるのかな」
 ギブソンが出て行くと、まもなく深雨がポツリと呟いた。
 それは女性しかいないこの場に限れば禁断の果実。いや、パンドラの箱だ。
 開けてはいけない災の詰まった箱――しかし最後に希望は。
「信じたいの。でも何も話してくれないからさ」
 無言の二人を前に深雨が呟いた。疲れたようにカウンターテーブルへ回って、入口へ近い丸椅子へ腰を下ろす。
 深雨がほんの小さな溜息を零すと、
「あのー質問いいでございますです?」
 レイネが小さく挙手。わざわざ深雨の隣へ移動するや、耳元の髪を持ち上げる。
 細長いエルフ族特有の耳が覗き、深雨がくすりと口元を緩ませた。
「レイネちゃんの耳、いつ見ても可愛いよね」
「照れてしまうでございますねぇ~」
「他の人に見られたら大変よ?」
「平気よマスター。何かあったらささっと記憶改竄の魔法でどうにでもしてあげるわ。これでもアレボスじゃ中々の魔法使いだったんだし」
「ふふ、頼もしいわね」
 深雨が楽しげに笑ったまま、それで質問ってなにかしら? と続けた。
「アルトさんって毎週何曜日に出かけてるとか分かるでございますか?」
「曜日……? えっと火曜日とかが多いかな。結構不確定なんだよね」
「なるほどねぇ。この件なんだけど任せてもらえない? 多分……なんとかなるわよ」
 何を悟ったのか、コトハの相貌が獲物を狙ったハンターのように細く座ったものになっていた。それへいち早く気づいたのは深雨。
 数秒アイコンタクトが続いたかと思えば、
「そうだね。残念だけど、今のアルトよりもアルトといた時間が長いのはコトハさんとギブソンさんだもんね。お願いできるかな?」
 少し落ち込んだようなしょんぼりした苦笑を浮かべた。

   3

 七月最後の火曜日。
 この日もアルトは、『雨宿り』の営業が終わるや、
「先ご飯食べてて大丈夫だからね。行ってくる」
 休憩もそこそこに、深雨へ内緒のコンビニバイトへ飛び出した。
「……今日も、か。ごめんね、アルト……でももう私だけ何も知らないのは嫌だから」
 スマホと一緒にソファーへ転がり込んだ。
 深雨がスマホを横になったままスマホを見つめていると、メッセージの受信を告げるように暗転していた画面が明るくなる。
『了解。今出て行ったわ』
 ただそれだけ書かれたシンプルなメッセージは、コトハからだ。




 夜八時手前。
「いったいどこ行くって言うのよ……」
 コトハは駅繁華街へ広がるどの人や店、コンビニ一つにさえ目もくれずにどこかを目指すアルベルトへ首を傾げるしかなかった。
 『雨宿り』かアルベルトを追いかけてもうすぐ十五分が経過しようとしている。
 その間アルベルトが足を止めたのは赤信号が一回、『雨宿り』のある鈴原駅東口から西口へ出るために利用した駅のエスカレーター上り下り一回ずつ。 
「不思議でございますですねー。いつもより歩くの早い気がするでございますですよ」
「えぇ、ほんと……。アルくん、本気で浮気なんて言わないわよね」
 幅が広くゆったり歩ける並木通りをサラリーマンや学生に紛れて歩いていくアルトへ、コトハがただ静かに溜息した。
「確かレイネってこの辺に住んでたわよね。何かある?」
「うーん、難しいでございますですね。こっち側は家ばっかりでございますので」
「そう……。まぁいいわ、どうせ着いていけばわかるんですもの」
 アルトが並木通りを最後まで渡り切ったのを確認し、コトハとレイネも木影から飛び出て尾行を再開する。
 カップルが多い並木通りを抜けると、急に街灯の数が少ない公園へ出た。途端に人の数も減って、ここだけ忘れられたような静けさが漂っていた。
 そんな場所でアルトは何をしようとしてるのか……。
「レイネ、ここら辺ってなにかある?」
「そこにコンビニがあるくらいでスーパーもないでございますですねー」
「だとしたら……アルくん、まさか直接浮気相手の家に行こうって言うの!?」
 もしそうならこんな喫茶店一つない場所を行く理由も見えてくる。上手く行けばその相手の家の場所を知れるかも知れない。
「レイネ、行くわよ」
「ガッテンでございますですねー」
 アルトが公園を出て道路を横断したのを確認し、二人が一斉に木影から飛び出た。そのまま二人も道路へ出ようとした瞬間、右手から強いフラッシュが伸びてくる。
 トラックだ。
 考えるまでもなく、二人の足は道路を前に止まった。
「あぁ、もう! アルくん見失ったりしないでしょうね……」
 一台走り去ったかと思えば更にもう一台。おまけのもう一台。合計三台のトラックが走り去った後には、物の見事に前方へ人影らしいシルエットは確認できなくなっていた。
 強いて言うならば、道路を越えた先にあるコンビニくらいだ。レジで二人の女性店員が客の対応をしている。
 つまり、アルトはおろか――ここに男なんて一人もいないのだ。
「はぁ、やられた……」
 コトハが公園の出口にある、背の低い花壇みたいなブロックへ寄り掛かった。
「魔力で探ってみますです?」
「かしらねぇ……。でも、その前に休憩しない? 気を張りすぎて疲れたわ。どうせコンビニもあるんだし、飲み物くらい買っていきましょ」
「アレボスなら出来たんでしょけどね。いや、クシャナを倒す前までだったらできたわ。でも今のアルくんの中にある魔力はほぼゼロと言ってもいいわ。この前最後まで使い切ったんでしょうね、それで魔力の補充もしてないときたもの」
「ございますですねー」
「それに、新作スイーツも売ってるらしいし」
「見逃せないでございますですねー」
「そういうわけで、これからはご褒美ダイムよ! スイーツがわたしを呼んでるの!」
 二人一緒に溜息し、どちらからともなく砂漠でオアシスを求めるようにコンビニへ歩みだした。


「いらっしゃいませー」
 二十時上がりのバイトとの引き継ぎも終わって数分が過ぎた。
 アルトが一人レジの真後ろにあるフライヤーで追加補充分のホットスナックの調理をしていると、二人の女性が何やら楽しそうな雰囲気で入ってきた。
 特に気に止めることもない普通の客。
 一人は綺麗な黒髪を肩へ流すに縛ったスーツ姿のOL。もう一人は綺麗な黄緑と金を混ぜたふわっとさせた短めの髪型に黒縁メガネをかけた独特な雰囲気を放っていた。
 まるで印象が異なる二人。そう、決して交じり合うことがないタイプに見えるのに、
「どれにしようかしら……こんなにあるんじゃ迷うわね」
「全部買えば問題ないでございますですよ」
「ふ、太るわよそれ……」
 スイーツコーナーで楽しげに話す姿を見ると、気のおけない友達同士らしい。
 人生誰と繋がることになるかわからない。
「俺と深雨さんは他の人の目から見たらどうなってんだろ」
 既に関係を知っている人からは、「お似合い」なんて言われたりもする。
 しかし、今の品田アルトも昔の品田アルトも、深雨に大きく頼っているじゃないか。深雨を助けたことなんて数えるくらいしか……。
「はぁ……」
 気付けばアルトは作業の手を止めて深く溜息をしていた。
 それを現実世界へ引き戻したのは、フライヤーにセットしていたホットスナックの調理が完了を告げるタイマーの音だ。
 綺麗に上がったフライドチキンをトングで掴んで油を切っていると、
「すみません、会計大丈夫ですか?」
 少し低めで落ち着いた女性の声が真後ろからやってきた。
 現在店にいるアルバイトはアルトのみ。となれば、当然後ろへ居るのはお客様。慌てて振り返ると、先程店へ入って来たスーツ姿の女性が立っていた。
「いらっしゃいませ、すみません。えっとこちら一点でよろしいですか?」
「えっ、あ、え、えぇ……そうね。いや、これも一緒でいいかしら?」
 後ろに並んでいた黄緑と金が混ざったふわふわヘアーの女性が手にしていたプリンも一緒にレジへ並べる。
「こちら二点で、お会計460円ですね」
「え、えぇ」 
 なんだろう? 
 なんか慌ててる?


 な、なんでアルくんがここにいるの!?
 財布の小銭を漁りながら、コトハはカウンターを挟んだ先の彼。「品田」と名札のついた彼へチラチラ視線を送る。深い緑色の制服は間違いなくこの店のもの。名札もちゃんとしたものだし、今日だけ働いてるというわけでもなさそうだ。
 ということは、今までマスターに隠れて働きに来てたってこと?
 動揺してるのを見抜かれないよう店員へ小銭を渡し、商品を受け取る。
「あ、あの……いつから働いてるんですか? 初めて見ますけど……」
「えっ、あぁ。最近ですよ。二週間前とか……ですね」
「そ、そう。頑張ってね」
 間違いない、今目の前にいる店員はそっくりさんでもない正真正銘品田アルトだ。
 コトハはレイネの手を取って、逃げるように店を後にする。
 そして、
「な、なんでアルくんがコンビニで働いてるのよ!!」
 道路を挟んだ公園へ入ると同時にコトハがベンチへ頭を抱えて腰を下ろすのだった。
「というか、なんでアルくんはわたしたちって気づかないの!? 髪型変えて、メガネかけただけでわからなくなるって言うの!? どんだけマスターにぞっこんなのよ!」
「そ、それはあまり関係なないと思うのでございますよ」
 レイネが苦笑しながら隣へ座った。そのままベンチへ置かれたビニールをガサガサ漁ってプリンを手に取る。
「えっ、ここで食べるの?」
「どこで食べても美味しいのがプリンでございますからねー」
「まぁいっか。わたしも食べちゃお。アルくんがここで働いてる理由も聞かなきゃいけないしね」
 言いながら、コトハがロールケーキへフォークを通した。

   4

 深夜0時を告げた瞬間、アルトはバックドアを押し開けてタイムカードを切った。
「終わったー」
 制服から私服へ着替えて、事務所と扉一枚で繋がるドリンクの大型冷蔵庫を覗く。白い息を吐き出しながら、店長が黙々とドリンクの補充をしていた。
「じゃあ店長帰ります。お疲れ様です」
「あいよー。おつかれさん」
 こちらへ一度目配せしたかと思えばすぐ作業へ戻ってしまった。
 邪魔するのもなんだし、多分今日も深雨はリビングで夕飯も食べずに待ってるだろう
 アルトは足早に店を後に、並木通りまで出た。その頃にはもうすっかり走っており、夏の熱っぽい風を一身に感じていた。
 一歩踏み出すたびに、額へ汗が滲んで心臓がドクンと大きな鼓動を刻む。
 この日も通りには何組かのカップルがいたが、今日のアルトはそれへ目を奪われることはなかった。ただ駅を目指していると、

「はぁ……」

 全くその気はないのだろうが溜息がアルトの足を止めた。
 溜息が聞こえてきたのは、この前と全く同じベンチからだ。視線を送ると、街灯でできた自分の影を見つめるあの和服少女が小さく座っている。
 深雨のために急いでいるし、話したこともない。赤の他人であることは重々承知していたが――自分が日本へ転移されたばかりの頃、深雨と姿が重なったのかもしれない。
「あ、あの……キミ、こんな遅くに何してるの?」
 気付くと彼女へ声をかけていた。
 アルトの呼びかけへ、少女がゆっくり顔を持ち上がる。
 顔の輪郭が街灯へ照らされていくのに従って、黒い髪が緩やかな川のように首筋を沿って流れていく。薄くて細い目元で一歩引いたような微笑みが、和服姿の彼女と重なって大和撫子を体現したように彼女の存在に色を付けた。
「こんばんは。家の使いで帰りが遅くなったものですから。休憩中です」
 見ず知らずのアルトに対しても、大和撫子じみた微笑みが崩れることはない。むしろ逆だ。更に喜色が濃くなったように受け取れる。
 花が咲いたみたいな美しく可憐で、決して主張の強くない微笑で、
「もう帰りますので。ご心配おかけしました」
 ペコリと会釈をした。
 しかしアルトは帰ろうとはせず、
「でもこの時間だしさ。家か、近所まで送るよ。女の子がこの時間に一人じゃ危ないからね。和服ってだけでも結構注目されるだろうから」
 なんて会話を続けていた。
 それが面白かったのか、細かった目元を僅かに大きく開いて、えくぼを作った。
「大丈夫ですよ。電話すれば家の者が迎えに来てくれるはずですから」
「って言ってもなぁ……。わかった、家の人が来るまで俺もここにいる。なら安心だし、警察が来ても事情の説明がしやすい」
 言うが先か、アルトは彼女の肯否もなく少し距離を開けた隣へ腰掛ける。
「結構強引なんですね、警察が来ても私の名前を言えば察してくれますよ? 家の使いの帰りに何度かそういうこともありましたから」
 クスクス笑ったかと思えば、
「白藤山茶」
 夜風の切れ目でそう唱えた。
 楽器か何かの芸術的な一音にも似た彼女の声に、アルトはそれが名前だと気付くのに一瞬遅れてしまう。
「白藤山茶さん……。あぁ、俺は品田アルト」
 そっと彼女へ右手を差し出してみる。
 山茶はその手とアルトの顔を何度か見やり、
「あ、あの……白藤です」
「……? あぁうん。よろしくね」
 もしかして聞き逃したと思われたか?
 アルトが曖昧に笑うと、
「不思議な人。ふふ、コーヒーのいい匂いがする不思議な人」
 山茶の目元がふわりと緩んだ。そのまま華奢な手でアルトの握手へ応じる。
「コーヒー好きなんですか?」
「まぁね。鈴原商店街にある『雨宿り』って喫茶店で働いてるんだよ。コーヒーの匂いもそのせいかな。臭くてごめんね」
「いえ、いい香りですよ。きっとおいしいコーヒーなんでしょうね」
「あぁ美味しいよ。今度おいで」
「えぇ必ず。ではわたしは帰りますね」 
 ベンチから腰を上げた山茶が和服のお尻部分を軽く撫でるように払った。
 一歩歩くたびに黒髪が夜闇へ溶けるように踊る。アルトの方へくるりと回る姿は、日本舞踊のように可憐で、
「家まで送っていただけますか? 携帯の充電が切れてたみたいで……」
 少しお茶目な笑い顔が――彼女の年齢と呼べるものを悟らせてくれない。
 間違いなく年下なはずの童顔、けれど振る舞いはずっと年上。
 アルトは不思議な感覚に陥りながらも、
「あ、あぁ。いいよ。どっち方面?」
 彼女の隣へ並んで立つ。
「すぐ近所ですよ。この先に公園があると思うんですけど、そのすぐ傍です」
 山茶が指さした方向は、少し前まで自分が働いていたコンビニがある方面じゃないか。その傍に住んでいるって――この傍に、彼女みたいお嬢様が住む家なんてあったか?
 記憶にある限りじゃ平屋だったり木造アパートだったり、割と昔からの家があるだけだったはずだけど。
 アルトは山茶の歩くペースへ合わせながら記憶を遡ってみた。
「すみません、会ったばかりの人に不躾けなお願いしてしまって……」
「俺が言いだしたんだ。気にしなくていいよ」
「本当ですね」
 和服の袖を優雅に持ち上げた山茶が口元を隠してクスクス微笑をたたえる。
「でもいいの? 見ず知らずの男に家を教えるって……今更だけど危なくない?」
「アルトさんはそういうことしない真面目な人って印象だったので。違いましたか?」
「さぁどうだろうねぇ~。どうする? 俺が悪い人だったら」
「そうですね……。仲間にしてもらいましょう!」
「なんだそりゃ。仲間になってどうすんだよ」
「うーん、そうですねぇ」 
 楽しげに笑う山茶が頬へ指を当てて夜空を仰ぎ見た。
 しかしそれも僅か数秒のこと。
 彼女へ着いて歩いているうちに、アルトがバイトしているコンビニは遥か後方へ流れていた。すぐの角を左折すると、急に道幅が広い通りへ出る。
 それまで見えていた民家は途端に姿を消し、
「……ここです」
 大きな木がいくつも並ぶ大きな家。屋敷という言葉がぴったり当てはまる純和風の家屋を前に山茶が足を止めた。
 さっきまで見せていた笑顔は角で置いてきてしまったのか、俯き気味で足元ばかりを気にしていた。
「山茶ちゃん?」
「……楽しい時間はあっという間ですね」
 アルトの隣からすすっと離れた山茶が、見上げるほど高い門を背にした。
「ありがとうございます。あの……また会えますか?」 
「そうだね。メアド交換とか……あっ」
「ふふ、いいんです。充電が切れたおかげでアルトさんとここまで一緒に来れたんですから。それにまたあそこで会えると思うんです」
「だといいね。楽しみにしてるよ」
 不思議な人、か……。俺からすればそっちのほうが不思議だよ。
 笑ってる顔が一番似合ってる、可愛いはずなのに――どうしたものか。
 門に備え付けてあるライトへ照らされた山茶の顔はそよ風一つで吹き飛んでしまうほど儚げに眉を寄せていた。
 それが暗い色の和服と怖いくらい相まっていて、目を離せなくなってしまう。
「山茶ちゃん、いつでも店来ていいからね」
「はい。ありがとうございます。おやすみなさい」
 低い位置で手を振った山茶が門の脇にある小さな戸から中へ入っていった。
 時刻は深夜一時を回った頃。
 アルトは深雨のために早く帰るという目的も忘れて、ただ彼女の面影を見つめていた。


 それから二十分ほどかけてアルトは『雨宿り』のある鈴原商店街まで戻ってきた。時間が時間なのもあって、空いている店も明かりがついている民家もない。
 ただ一つ、『雨宿り』を除いては。
「やばいな、深雨まだ起きてるよ」
 今日こそ早く帰ろうと思ったのに……。
 アルトが焦りながら店舗側の真裏にある勝手口から上がろうとした途端、背筋を氷が舐めていくような、嫌な圧力を感じた。
 全身の血液が冷えていくような緊張感と肺が重くなったような息苦しさ。
 アルトはそれを知っている。
「……う、嘘だろ。どうして……」
 ドクン、心臓が大きな鼓動を重ねていく。
 一か月前と同じ感覚が左腕へ意識を集中させた。
 血液と一緒に熱い何かが流れていく魔力の証。
「クシャナ……なんでまた。あの日確かに俺は」
 そう、一か月前――確かに魔王クシャナを倒したはずなのに。
 なのにどうして。
「なんでだよ、なんで……」
 アルトの視線はただ綺麗な月が浮かんでいたはずの夜空を睨んでいた。
 数秒前までそこにあった月は、漆黒の渦の中へ飲み込まれていった。月だけじゃない、星も。空にある何もかもがその中へ収まろうとしている。
 不気味な威圧感。
 異世界へ通じるゲートによって。
「ぎ、ギブソンたちに連絡しないと……」
 アルトが慌てて携帯を取り出した。しかしこの現象によるものか、圏外と表示されて電話をすることができない。
「……俺が行くしかないか」
 徐々に大きくなる異界のゲートをじっと睨んで数秒、聖剣を抜く準備が出来たかと思った次の瞬間、
「……あ、あれ?」
 何が起きるでもなく、最初から何もなかったように閉じ始めたじゃないか。
 クシャナや魔獣たちの襲来ではないということか?
 アルトは首を傾げながら夜空を確認する。すっかり閉じてしまったゲートはその痕跡さえも残さず夜空に溶け込んでいた。
 月も星も元通り。
 最初から何もなかった。
 夢でも見ていたのだろうか?
「明日話してみるか」
 現状何も起こってないし、何かが落ちてきたわけでもない。
 なら、問題ないのだろう。
 アルトはまだ胸に残る違和感を誤魔化すように勝手口の戸を引き開けた。

   5

 獅子落としの音が響く小さな池を前に、少女はただ水面に揺れる月を見つめていた。
「……アルトさん」
 不思議な人。
 自分の名前を聞いても、家を見ても、態度も雰囲気も変えない不思議な人。
「また会えるかな……アルトさん」
 自分が誰かに心から会いたいと思ったのはこれが初めてかも知れない。
 自分はただこの家に生かされ、この家のために生き続けるしかない。
 白藤の長女に生まれたからには逆らうことができない宿命。
 全部諦めていたのに……。
 山茶はまだアルトの温もりが残っている気がする左腕をそっと触ってみる。
 池の近くにいたせいか嫌な冷たさが肌を伝った。それが自分を現実へ引き戻すように思えて山茶の心を縛り付ける。
「会いたいです……アルトさん」
 いつの間にか雲か何かへ隠れて締まった月へそう呟いた途端、
「流れ星……?」
 夜空へ一筋の光が走ったように見えた。
 その流れた先はすぐ近く、眼前にまで迫ってきていた。
 ぶつかる、そう思った瞬間、その星はどういうわけか一切の衝撃を残すことなく足元へ落下。まるで小石のようにコロコロ転がってつま先へぶつかった。
「い、石……?」 
 夜の深さを閉じ込めたような紫色の石は持ってみると、まだ仄かに温かい。
 彼を思った矢先に流れてきた石――それはまだまだ高校生の彼女に希望を抱かせるのには十分すぎるものだった。

 勇者シリーズ第二弾
「勇者がバイトを始めたら」は、C93冬コミにて販売予定です。
『よろづ屋本舗』三日目東ホ-60b
 勇者シリーズ第一弾、
「勇者がヒモになったなら」の販売も予定しております。

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