社会人としてのマナーは大切
堅い握手を交わす瑠璃と基夫さん。本日をもってトプステの経営権はスペックスへと譲渡された。
2人の表情は穏やか、そして満足気である。
「では私は各種手続きに入りますので」
牡丹が立ち会って下さっていたM&A専門コンサルティング会社の人達を引き連れて退室して行く。
紗雪は大学へ行っており、夏希はドラマ撮影、姫子は舞台稽古中だ。
「元はスペックスの派生のようなもんだからな。お断り屋業界の発展へ、大いに役立ててほしい」
いや、俺の目を見ながら言われてもね。
「これから基夫さんは?」
瑠璃が基夫さんのこれからの身の振り方を尋ねる。基夫さんが肩をすくめて答える。
「しばらくゆっくりするよ。親を連れて旅行でもしようかと準備してるんだ。
姫子も誘ったんだけど、つれなくてね」
だから俺の目を見ながら言われても。
そんなやり取りをしていると、スペックスの裏方事務をしている女性の声が聞こえてきた。
「困ります! 社長とのお約束がないお客様をお通しする訳には参りません!!」
「そう固い事を言わないで。私は宮坂社長の友人ですよ?」
やり取りが続く中、オフィスの扉からノックの音が鳴る。
「失礼致します」
誰も入室許可を出していないのに、インテリ眼鏡風なスーツ姿の男性が入って来た。
「ほら、いるじゃないですか。久しぶり、宮坂さん」
「あら、飯尾君じゃない。卒業以来かしら?」
飯尾と呼ばれた男は、どうやら瑠璃の大学の同級生らしい。という事は、基夫さんとも知り合いか?
「橋出先輩もいたんですか。2人は別れたって聞いてたけど?」
「ああ、別れたよ。今はビジネス上の関係だ。
瑠璃ちゃん、俺はこれで失礼しようと思うんだけど……」
「ええ、新店舗がオープンする際には来賓としてご招待させてもらいますね」
若干心配そうな目で瑠璃を見る基夫さんに対し、何でもないとほほ笑んで見せる瑠璃。瑠璃がチラッと俺の方に視線をやらなければ、ちょっと嫉妬していたかも知れない。
「じゃあな、飯尾。言動には注意しろよ?」
基夫さんが飯尾さんの肩をポンと叩いて部屋を出て行った。去り際の基夫さんのニヤニヤしている口元を見て違和感を覚える。
俺と瑠璃の関係を冷かしているのか、それとも飯尾とやらの訪問者に対する嘲笑か。まだちょっと判断が付かないな。
瑠璃が飯尾さんを止めようとしていた女性にお茶を用意するよう指示し、飯尾さんへソファーへ掛けるよう勧める。
「その前に社会人としてのご挨拶だけさせてもらえるかな?」
飯尾さんが瑠璃へと片手で名刺を差し出した。瑠璃がそれに応えて立ち上がり、スペックス代表としての名刺を手渡す。
「ふ~ん、飯尾君はうちの銀行に入ったんだ」
俺は名刺を交換していないので直接見てはいないが、どうやら飯尾さんは宮坂銀行の行員として瑠璃に面談に来たようだ。
瑠璃の隣に座ったままの俺をチラチラと気にしているようだが、瑠璃が俺を紹介しない限り自ら名乗ったりするつもりはない。だから何でいんのコイツみたいな顔をしても無駄です。
「本店営業部でね、法人を相手にしてるんだ。大学の時に起業した君の会社がこんな規模だったなんてびっくりだよ」
ところで、と前置きして、飯尾さんが本題を切り出した。
「お断り屋だっけ、経営は順調かい? 融資の提案をしたいから決算書くれない?」
はぁ? こいつ何言ってんの?
「ほら、いくら自分の家関係の銀行でもさ、そこらへん審査を緩めたりしないじゃん?
俺が上手い事やったげるからさ、お金貸したげるよ?」
「飯尾君、うちと宮坂銀行との取引状況は確認してから来たの?」
声色に呆れの感情を少し乗せた瑠璃の発言。それに気付いていなさそうな飯尾さんが得意気に続ける。
「もちろん。うちからの借り入れ残高は僅かだったよ。預金残高はかなり積んであるようだけど、この規模の会社を経営するとなるとすぐに動かせるキャッシュが必要だろ? 定期預金だとどうしても時間がかかるし、解約するとなると変な勘繰りもされるしね。
その点、当座貸越を利用すればすぐに支払いに回せるよ」
当座貸越。銀行が会社にお金を貸し出す方法の1つだ。そこそこの優良企業でないと銀行は提案しない方法であり、担保を要求される事が多い。勉強してて良かった、経営学。
でもうちの場合は複数の銀行とコミットメントラインの契約をしているはずだけど、そこまでは把握していないのか。
「俺と宮坂さんの仲だからさ、ちょちょいと手続きしようよ」
ほらっ、と言って手の平を差し出す飯尾さん。それで決算書を出す馬鹿がどこにいるというのか。
このタイミングでまたも扉が開かれる。おっと、よりにもよってこの人が。チラッとこちらの様子を見つつも、少し離れた場所にあるソファーに掛けるようだ。
新たな登場人物に怪訝な表情を見せ、飯尾さんがわざわざ遠回しに嫌味を口にする。
「それにしてもこの部屋は、プレイヤーだっけ? 従業員の休憩所なのか? 社長が銀行と大事な話をしているというのに席を離れないのはどうかと思うけどね~」
あ~あ、言ったな? ほら、眉間に皺を寄せてるぞあの人。飯尾さんあの人が部屋に入った時に顔を見てたよな? 知らないのか。
あの人が俺の目を見ながら顎で「やってしまえ」とでもいうかのように合図をして来る。
いいんですかいいんですか? 本当にやっちゃっていいんですか?
そんな俺達のやり取りを見ていた瑠璃もニヤニヤし出し、腕を組んでソファーにもたれる。腕は組む必要ないでしょう、この男に胸を強調するような恰好を見せるなよ。腕を掴んで解かせる。
その俺の行動が気に障ったのか、飯尾さんが俺に突っ掛って来た。
「君は店のプレイヤーだと思ったが、あれか? 宮坂さんのヒモか何かか?
いいスーツ着せてもらって隣に座っているのがお仕事なのかな?」
はぁ……、わざわざ自分から破滅の一歩を踏み出すとは……。
「ゴッホン!」
分かりました、分かりましたからわざとらしい咳払いしないで下さい。
「ここで飯尾さんに問題です。僕は誰でしょう。
1、プレイヤー
2、瑠璃の旦那
3、スペックスの役員
4、今わざとらしく咳払いをした人の義理の息子」
「何言ってんの? 突然の四択で俺をからかってるつもりかも知れないけど……」
「はいタイプアップ。正解はこちらをどうぞ」
立ち上がってスーツの胸ポケットから名刺入れを取り出し、丁寧に両手を添えて名刺を差し出す。差し出しながら名乗る。
「初めまして、私は桐生優希と申します。プレイヤー兼スペックスの取締役を任されておりまして、瑠璃の旦那でして、あちらに座っておられる方の義理の息子になります。
と言う事で、正解は全部でした」
反射的に手を出したのか、飯尾さんは俺の名刺を受け取ったまま固まってしまっている。
「あっれ~? マナーがなってないですねぇ、宮坂銀行ってその程度の銀行なんですか?
普通名刺を出されたら先に自分の名刺を取り出して先に受け取ってもらおうとするもんじゃないですか? これからお金借りてほしいんですよね?
あれですか、うちの会社は銀行に媚びへつらわないとお金貸してくれないような弱小企業に見えましたか」
お、反応を見せた。
どうする? 弁明するか、それとも……。
「……っ、はっはっはっ、やられたよ宮坂さん。プレイヤーってのはすごいんだね。君演技上手いじゃん、ちょっと信じそうになったよ!」
嘘だと思い込んでそっちに賭けるか。
「全部本当だけど?」
今度は口を開いたまま固まった。
さて、どの点に衝撃を受けて固まっているのやら。
「優希君は私の主人だし、プレイヤーでもありこのスペックスの役員だし、それに……」
「マジで!? すごいね、俺達よりも年下でしょ?
どうやったらそんな逆玉な展開に持って行けたのか教えて欲しいな!!」
いや、ゴメン。それについては俺も人に教えられるほど把握出来てないんだ。知らん間にこうなってたって言うか。
「で? 友達のノリで会社まで来て、決算書を見せろっていう非常識な銀行員様はこれからどう挽回するおつもりですか?」
飯尾さんの頬にたら~っと汗が筋を作って流れる。インテリ眼鏡も両端が白く曇り出した。
焦れ焦れ、全部自分の蒔いた種だ。でも反省するのに遅過ぎるって事はないと思いますよ。
「お、俺は天下の宮坂銀行の本店営業部の人間だぞ! エリートなんだぞ!! だいたいこんな名刺、刷ればいくらでも用意出来るだろ!
バカにしやがって、こんな会社、うちの銀行が……」
一番やってはいけない行動、逆ギレ。社会人として取引のある企業の人間に対してその態度はないだろうよ。
「お~、もしもし~、久しぶり。持田は確か今、本店の統括本部長だったよな? ちょ~っと聞きたいんだけど、営業部の飯尾っていうの知ってる?
あ~、すぐには分からんか。いやね、私が監査役を勤めている娘の会社に飯尾っていう営業マンが来てるんだけどね、あまりにも失礼な奴でね。
まぁいいや、宮坂銀行の本店営業部所属だって言ってるんだけど、名刺なんて刷ればいくらでも用意出来るからな。ごめんごめん、忙しいのに悪いね、はいは~い」 プチッ
娘の会社、くらいでやっと気付いたのだろうか。飯尾さんの顔面が真っ青になっている。
賢一さんが立ち上がり、わざわざ飯尾さんの隣に腰掛けて脚を組む。
「で、君は何者かね。本店営業部の統括部長してる私の知り合いが、飯尾って奴がいるかどうか分からんと言っていたんだが、本当に君は宮坂銀行の本店営業部の人間なのかね」
「宮坂さんの、お父さん……!?」
今さら気付いても遅い。
ピリリリリリッ、ピリリリリリッ、ピリリリリリッ、飯尾さんのポケットからスマホの着信音が聞こえる。
「電源を切るか、マナーモードにしておきたまえ」
しかし、とスマホを握りしめたままブルブル震えて飯尾さんが懇願するかのような表情で賢一さんを見つめる。恐らく銀行からの電話だろう。
電話を取っても、取らなくても、どちらにしても自分の身に何かが降りかかるであろうこの状況。
まぁ仕方ないね、瑠璃が呼んだ訳ではないし、こちらから喧嘩を売った覚えもない。
「さて、君が本当に宮坂銀行の行員であるかどうかは問題ではない。君は社会人として相応しくない振る舞いをした為に、私達に不快な思いをさせた。
さぁ、帰りたまえ」
賢一さんの発言を受けて、ずっとドア脇で待機していた事務の女性が半ば抱き抱えるようにして飯尾さんを外へと連れ出す。未だ鳴り続ける彼のスマホが気に障る。
「ったく、うちの銀行のレベルも落ちたのかねぇ。M&Aが無事に終わったか報告を聞こうと来てみればこれだもの。
なぁ義理の息子よ」
ニヤニヤしないで下さいよ、お義父さん。瑠璃、ちょっと抱き締める力を弱めてくれないか。
作者が銀行員の方に対して特別な感情を抱いている訳ではない事を、この場でお断りさせて頂きます。
誤字訂正致しました。




