ホラー小説「深沼池のタクシー」
よく聞くでしょ?
ほら、車の後部座席にさ、乗っていた奴が消えて。あとには水溜りだけが残ってるって話。
あれの元ネタはここなんだよ。深泥池。見えるかい? 真っ暗でわかんないね。あとで車から降りて、近くに行ってみよう。
三十年くらい前の新聞に載ったらしいんだけどさ。深夜、タクシーの運ちゃんが若い女を乗せるわけ。「どちらまで?」って聞くと、「深泥池まで」って言う。
運ちゃんは不審に思ったさ。だって、今でこそわきにちらほら家があるけどさ、当時はなーんにもない、それこそ湿地が広がってるような場所だったんだ。今だってほら、どこが池かわかんないくらい真っ暗だろ?
長ぁーい髪の女の人で、バックミラーをちらちら見ても、ずっとうつむいてるから表情なんて見えやしない。伝わってくるのは陰気さばかりだよ。行き先が変なのもあって、だんだん不気味になってくるね。こりゃ早いところ済ませちまうに限る。アクセルを吹かして、お客さん着きましたよって後部座席を振り返りゃ――。
そう、居ないんだ。水溜りだけがじっとり残ってる。
運ちゃんの気持ちは想像に難くないね。同じ商売をしてるとね。どうしたっておかしな気分になる時があるのよ。今乗せたこの人、足はあったっけな、ってさ。ハハハ。おかしいよね。いい年の大人がさ。
……ちょうど、このくらいの時間だったらしいね……。
いや、そのね。例の運ちゃん、うちの会社の人だったらしくてさ。脈々と伝わってる話ってのがあるのよ。他にもさ、あるんだよ。噂だよ? あくまで噂。
その運ちゃんさ、世間話のつもりで一言だけ会話したそうなんだよ。「深泥池までなんの御用です?」ってね、冗談めかしてね。返事なんてないだろうなって思ってたんだけど、その女の人、こう言ったんだよ。「妹を探しに」ってさ、ぼそりと。「池に沈められたんです」ってね。
おお、やだ。ぞくっとしちゃったよ。自分で言っておいてさ。ハハハ。ごめんなさいね、怪談話なんかしちゃって。間に受けちゃだめですよ。暗いからわからないけどさ、深泥池なんて池とは名ばかりの湿地だから。よく水死体の話を聞くけど、ありゃあ死ぬ方が難しい。洗面器に顔をつけるようなもんだよ。
ね、だからちょっと外出てみようよ。そんな、黙ってばっかりじゃさ、おれも困っちゃうよ。ね、ほら、あのフェンスから向こうが池になってて――。
あれ? 誰だろう。
おかしいな、フェンスの向こう側に人が立ってるよ。いやあそこ池だろ? 公園のフェンスはあそこで切れてる……。
え、なんだって? お姉さん?
あ、おい、ちょっと。やっと会えたって。待って、出るなら鍵開ける――。
おやおや。ハハハ。ドア開けないで出ちゃったよ。よっぽどうれしかったんだね。あ。足はちゃんと二本あるや……。迷信はいかんね、信用したらさ。ハハハ。
でもいいね、なんでもすり抜けられるってね。フェンスも越えなくていいしね。池の上も歩けるし。ハハハ。抱き合ってるね。お姉さん髪長いね。顔見えないのが残念だけど、あんたに似て綺麗なんだろうね。
ああ、こっち向いてお辞儀してるよ。二人そろって深々と。
そんな、いいよ。なんだろうね。ハハハ。なんなんだろう、胸が熱くなってきちゃったよ。
きっとずっと、タクシーを乗り継ぎながら探し回ってたんだろうね。二人ともね。涙出てきちゃったね。ようやく会えたんだね。
ああ、もういっちゃうんだ。よかったね。最後に一つだけ言っておくことがあるんだけどさ。
姉妹そろってタダ乗りかよ。
――おわり