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幽霊君  作者: 佐藤
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幽霊君と正直な世界

 授業が終わってしまった。帰らなければならない。


 放課後のガヤガヤとした喧騒の中、俺は椅子に座ったまま暗く沈んだ気持ちを抱えていた。正直君がいつものように机まで来ていたことにも気づかずに。

「幽霊君」

 声を掛けられて、ようやく我に返ると「ごめん」と呟き、俺は急いで帰り支度を始めた。正直君に伝えるべきかずっと迷っていたが、何も言えないまま、教室を出る。廊下の窓から外を見ると、まだ、雨は降り続いていた。


「雨、一日中降ってたな」

 正直君の言葉に、「あぁ」と、気のない返事をする。昇降口に着くと、傘を持った生徒たちが、足早に学校から出て行く。雨のせいか、なにかひとつ欠けている色があるような気がした。


 その色を、俺は見つけた。傘も無く、入り口で立ち止まる男子生徒が目に留まる。傘を持っていないのだろうか。それとも、誰かを待っているのだろうか。


「君は、どうして死んでいないの?」

 唐突に、声が聞こえた。それは、見つめている男子生徒の後ろ姿から発せられ、耳へと届く。後ろ姿の彼が、ゆっくりと、こちらに顔を向けようとする。


「幽霊君」


 正直君に肩を掴まれ、驚いて振り返る。正直君の真っ直ぐな目に、現実に引き戻された気がした。もう一度、あの男子生徒に目を向けるが、帰りを急ぐ生徒達の行き来があるだけで、どこにもいない。俺は大きな音を立てる心臓にひどい目眩を感じながら、なんとか声を出す。

「ごめん、考え事してた」

 正直君はそれを聞いて、ふと右上を見つめ、少しだけ考えるような仕草をしたと思ったら俺の瞳を見つめ、問いかける。


「俺に何ができる?」


 言葉が、出てこない。純粋なその問いはどこまでも清々しく、彼そのものに感じられた。


 ただただ、眩しかった。

決して陰ることはない彼の光が、朝日のように地平線まで照らす。


 「救われる」というのは、きっと、こういうことだろう。目には見えない、強く大きな力に手を引かれた感覚。


 ふと、姉貴の後ろ姿が思い出される。きっと正直君は、姉貴と同じ「特別」な人だ。特別にも普通にもなれない俺と、正直君は何かが違う。

 でも、こうして同じ目線で話ができる。すごく自然に、彼は隣にいて、俺を見つめていて、当たり前のように、俺達は笑っていた。


   「本当の友達は、お前が心を開かないと、いつまでもできやしない」

それは「相手を信じること」かもしれないと、いつかの言葉を思い出していた。


 自分のことを信じてくれる。そう、信じることができる。

それがあれば、失うことを怖がる必要はない。たとえ独りになっても、今、この瞬間だけは、確かに信じられる人が居たのだから。


 俺は、正直君を真っ直ぐ見つめ返し、答える。

「…ちょっとこれからケンカするから、見届けてくれる?」

 正直君は満足そうに笑い、「じゃあ行くか」と、俺の肩をトンと叩く。


 俺達は傘を差して、あの公園へと歩き出した。




 俺と正直君は降りやまない雨の中、言葉を交わすことなく歩き続ける。

その間俺は、独りではきっと来ることができなかっただろうと、自分の弱さを見つめていた。そして、自分独りではないことの強さを、初めて見つめた。


 公園には、人は誰もいなかった。


 夏の匂いをかき消すような細い雨。目を伏せたくなる灰色の空が、薄っすらと、一つの黒い影を浮き上がらせる。俺は息をのみ、その姿に目を凝らす。正直君は「いるのか?」と、同じ方向を見つめているが、やはり見つからない。


 公園の奥にある見慣れたブランコには、彼が待っていた。

後ろ向きに座っていて顔が見えないが、小学生だった彼の姿があった。降り注ぐ雨音の隙間から、軋むブランコの金具が、叫ぶように響いている。


 覚悟を、したつもりだった。


 立ち向かう勇気を、正直君に分けてもらえた。それなのに、ここまで来たくせに、足がすくんで動けない。


 怖い。彼と向き合うのが怖くて堪らなかった。俺は本当に駄目な人間で、こうして手を差し伸べてもらっても、いつだって上手くできやしない。


「ちょっといいか?」

 横から唐突に正直君が尋ねた。俺が振り返ると、正直君は静かに傘を閉じ、不思議な質問をした。

「例えばの話、幽霊君は、俺がこれから万引きするって言ったらどうする?」

 俺は戸惑い、正直君の瞳を見つめた。それはいつもと変わらない真剣な瞳だった。雨に濡れる正直君に、俺は傘を差しだす。

「…それは、止めるよ」

 正直君が理由もなくそんな罪を犯すとは思えないが、率直に答えた。正直君は「だよな」と頷き、俺の傘を受け取ると、それも閉じてしまう。


「正直君は、もう持っているんだよ」

 「え?」と、思わず聞き返すと、正直君は小さく笑って、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「俺さ、人間ってすごいなって思うことがあるんだ。…歴史の授業で、太平洋戦争って習っただろ。あれってよく考えたら、ほんの70年前の出来事なんだ。それって、つい最近まで、俺たち日本人も、人に殺されること、人を殺すことを、普通に考えていたってことだよな」


 雨音と共に響く言葉に、俺はただ耳を傾ける。


「でももし、あの頃の人たちが『これは本当に正しいことなのか』って立ち止まって考えていたら、誰かに殺されてしまうから。だからきっと、目が霞むくらいの、『誰かの正しさ』で自分を奮い立たせないと、みんな、生きていられなかったんじゃないかって思うんだ」


 まるで見てきたことのように、正直君は遠くを見つめ、呟く。


「あの頃と違って、70年が経って、今の俺達は殺される必要も、殺す必要もなくなった。誰かの正しさに頼るだけではなくて、時間を掛けて、それぞれの人間が『それって本当に正しいのか?』って立ち止まって考える自由を得ることができたんだ。それは命を左右する大きなことも、取るに足らない小さなことだって。俺達は自分自身が考える正しさで、人生を選ぶことができるようになった」


 降りやまない雨が、なぜか正直君の存在を冷たくぼかして、消してしまおうとしている気がした。

 俺は彼を見失わないように、必死になって見つめていた。


「だからきっと、早く大人になる必要があった昔の人達からしたら、こんな俺達は迷ってばかりで、幼く見えるのも当然だと思う。…でもその分、もし、独りの人間では抱えきれない問題が出てきた時、みんながそれぞれの正しさを持ち寄って考えれば、もっと良い答えが見つかる。悲しい間違いも、もう起こさない」


 そう言って、正直君は笑った。

気づけば、雨は辺りの風景だけを溶かし、強く眩しい彼の輪郭をはっきりとさせていく。


「幽霊君も、もう持ってるよ。だから俺は、幽霊君の持つ正しさに興味がある。どんな答えを出すのか見届けたい」


 疑いのない彼の言葉に、俺は堪らず、問いかけた。


「俺の正しさが、もし間違っていたら?正解を探しても、見つからなかったら?」


「その時には、俺がいる」


 俺が彼を見つめると、彼の瞳が、俺を映していた。

「決して許されない正しさがある。それを貫こうとする人間もいる。でも、みんなが正しさを考えるこれからの世界では、それは通用しない。この先、未来が分かる人がどんなに考えても間違えるかもしれないし、答えが見つからないこともあるかもしれない。でもきっと、それを必死になって探すことが、俺達がやるべきことだと思うから。だから、お前が迷った時には俺も一緒に探しに行く。正しさを見つけに行く」


 雨は、地面に、自分に、正直君に、小さな彼に、等しく落ちてくる。


「俺が保証する。幽霊君は、誰の物でもない自分の正しさを持ってる。あと、足りないのは自分を信じることだけだ」


 雨に濡れても、正直君の瞳には命の力強い光が灯って、眩しかった。

「行って来いよ。待ってるから」


 正直君の光は、俺の真っ黒な瞳に、そのまま映っている。


「…もしも…どうにもならなかったら、責任とれよな」


 俺の言葉に、彼は笑った。それは誤魔化すような笑いじゃなくて、「当然」と言いたげな笑い方だった。いつの間にか、正直君の強さが、俺の一部になっていた。彼はきっと、俺がたとえ何度立ち止まっても、こうして手を差し伸べてくれるのだろう。


 誰かの言葉や行動、気持ちは、想像以上に、受け取った人に大きな影響を与えるのかもしれない。その人の生き方を変えてしまうほどに。


「ありがとう、正直君」


 泣きそうな顔で、やっと、それだけ伝えた。

もう、独りじゃない。だから、一人で行かなければならない。


 俺も、正直君と同じ顔で笑う。それを見て、彼は力強く頷く。



 濡れた前髪の隙間から見上げれば、遠くの空が明るい。

光を含んだそれは雷雲だろう。


 前を向くと、あの小さな後姿はブランコを漕ぐのをやめ、静かに雨に打たれている。同じように雨の冷たさを感じながら、俺はその背中に近づいていった。

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