幽霊君と小さな世界
「…行ってきます」
いつもの時間よりも少し早く、俺は家を出た。それは、あの公園の前を通らないようにするため。姉貴と違って、俺はいつだって目を背けることしかできないから。
外は雨で、冷たかった。
泣いているような気がして、嫌だった。
雨の中、傘をさすこともなく、幽霊たちは楽しそうにはしゃいでいた。パンをくわえて走り回る女子中学生とか、あくびばかりの中年のサラリーマンとか、よく分からない歌を口ずさむ小学生を通り過ぎて、傘をさした俺はうつむき、歩いていく。
どうしてだろう。俺以外は、こんなにも幸せそうなのに。立ち止まりたい気持ちなんて無視されて、今日をなんとかやり過ごし、終わらせなければならないことにやり場のない苛立ちを感じる。
「君は、どうして生きているの?」
すれ違いざま、俺と同じ制服を着た少年が、そう言い残した。
振り返ったが、そこにはもう、誰の姿も無かった。
もっと、雨が降ればいい。何も見えなくなるほど、考える隙間もないくらいに。
傘の重たさを感じながら、俺は歩き続けた。
「幽霊君、大丈夫?」
学校に着くと、悪魔君に声をかけられた。
「あぁ、大丈夫だよ。…目のクマ?」
俺は笑って、目の下のクマを指さした。だが、そうではないと悪魔君は横に首を振る。
「それはいつもだから。それよりも、今日の幽霊君、すごく顔色が悪いよ」
悪魔君は、本当に「悪魔」なんてあだ名が似合わない。俺は笑顔を作って「とりあえずは大丈夫」と答えた。幽霊君は頷くと、席に戻っていった。
俺は自分の弱さが情けなくて、先生が来るまでずっと、机に突っ伏していた。
居眠り先生の授業を聞きながら、ずっと、考えていた。もし、過去に戻れたら、未来が分かっていたのなら、俺は、もっと上手くやれたのだろうか。彼に恨まれることもなく、彼が死ぬこともなく、俺達は友達でいられたのだろうか。そもそも、俺は、彼にとって友達だったのだろうか。
「お兄ちゃん、眠いの?」
俺を覗き込むようにして、幼女が問いかける。死してなお、清らかな光を湛えた瞳。俺にも、その瞳があったなら。みんなと同じに、きっと、なることができたのに。
彼の、強い意思の灯った瞳が思い出される。
「僕は、君の味方だよ」
小学校の狭い教室で、彼はそう言ってくれた。独りで教室の外を眺めていた俺に、彼は、その手を差し伸べてくれた。初めて、友達ができたと思った。けれど、それは少し、違っていたのかもしれない。
彼はクラスの委員長で、「正しい選択」をすることが好きだった。
「あいさつは元気よく。ろうかは走ってはいけません。」
彼は、誰にでも大きな声で挨拶をした。
彼は、廊下を走る他の児童を、先生のように叱った。
「みんなと仲良く。仲間はずれはいけません。」
彼は、特別親しい友達はいないようだった。
彼は、同じクラスになった俺に、話しかけてくれた。
「大丈夫。僕は、君の味方だよ」
それは、正しさの物差しで測った結果の言葉だった。
仲間外れにすることは、正しくない。
仲良くしてあげることは、正しい。
この道理を、彼は信じ切っていた。正しさで、他人を敵と味方に分けていた。俺はそれを隣で見ていて、いつも、何かを彼に伝えたかったのだけれど、それが何か分からず、何も言えずにいた。間違ったことを言って、彼を失うのが怖かった。
ある日、よく見かける霊のおじさんが、俺に問いかけた。
幼い頃は、霊ともよく会話をしていたから、このおじさんとも何度か話をしたことがある。このおじさんは6年生の教室のベランダにずっといて、「眠いな」と、いつもあくびをしていた。俺が「じゃあ寝れば?」と言うと、彼は小さく笑ったのを覚えている。
普段と変わらない様子で、霊のおじさんは俺に問いかける。
「なぁお前、あいつと一緒にいて楽しいか?」
その言葉に、俺は迷いなく頷いた。
「独りよりずっと楽しいよ」
その言葉に、偽りはなかった。おじさんはそっと、遠くの景色を見つめて呟いた。
「…そうか…もしあいつが、お前にとって本物の友達だったなら、お前はきっと『独りより』なんて、言わなかっただろうよ」
不意の言葉に、俺は何も言い返せず、目を逸らした。
心の内では、どうしてそんな意地の悪いことを言うのだろうかと、ひどく腹立たしく感じていた。そしてそれと同じくらい、もやもやと抱え込んでいた部分を言葉にされ、明らかにされたことが、悔しくてたまらなかった。
「薄っぺらな友達が欲しいならこの先いくらでも見つかる。でもな、本当の友達は、お前が心を開かないといつまでもできない。それだけは、覚えとけ」
普通ではない俺に友達がいるだけで奇跡なのに、こいつは何を言っているんだと、俺は反論したかった。心を開くというのも、訳が分からない。言いたいことを伝えたら、友達ではいられなくなってしまうのに。俺の世界と、みんなの世界の間には、こんなにも隔たりがあるのに。
それ以来、俺はそのおじさんの霊のいるベランダを避けるようにした。おじさんは少し悲しそうに、俺を見つめていた。
強い瞳を持つ彼は、俺をみんなの輪に入れようと、必死になっていた。だが、先生ですら気味悪がっていた俺をみんなに受け入れてもらうことは難しかった。正しさに沿っているにもかかわらず上手くいかないことが許せないようで、彼が日に日に、感情的になっていくのを、俺は隣で感じていた。
「どうして僕達、仲間に入ったらだめなの?」
彼の問いに、クラスメイト達は顔を見合わせ、答える。
「…だって、怖いから」
その答えは、仕方のないものだった。そして今思えば、距離をとって見えないものとして扱うことは、お互いの為だったのかもしれない。
だがそれは、彼の理想ではなかった。
「先生がいつも言ってるだろ?『みんなで仲良く』って!間違っているのはそっちだ!」
正しさを振りかざす彼と、その原因である俺に、クラスメイト達は目を向ける。
そこにはいくつもの「普通」が「異常」を拒否する目があった。その中に敵意すら感じた。そして、その目に留まった俺達は、少しずつ攻撃を受けるようになっていった。それは今までの生活でみんなの中に溜まっていた、理解できないものに対する恐怖心や、苛立ちを表すようだった。その気配が怖くなった俺は、側でずっとイライラしている彼に伝えた。
「…もういいよ、みんなの所に混ざろうとしなくて」
「君がそんなだから、みんなが仲良くしてくれないんだよ!僕がこんなに頑張っているのに、君がそんなだから!」
怒鳴る彼の言葉に、心が、カサリと音を立てる。
違う。違うんだよ。俺は、ただ、同じ目線で話がしたいだけなんだ。「みんな」じゃなくていい、「君」と、本当の友達になりたいだけなんだよ。
でも、それを、言葉にはできなかった。たとえ言葉にしても、俺と彼には、どうにもできないことだと思った。きっと彼に頼んで、俺と目線を合わせてもらっても、どこか不自然さが生まれてしまうだろう。
それは俺が、こんなに「正しくない」形をしているから。
だから、これは全て仕方のないこと。彼が「味方」と言ってくれるのならば、せめて、彼の「正しさ」に従いたいと思った。
ふと、幽霊のおじさんの言葉を、思い出す。忘れようと、俺は頭を大きく横に振る。
差し伸ばされた、あの手。それは、温かいけれど、どこか冷えていて、いつも、息苦しさがまとわりついている。
カサリと、音が聞こえた。
正しさだけでは、成り立たない。でも、自分にはどうすることもできない。
結局その違和感を埋めることはできないまま、俺は彼の「友達」として隣に居続けた。それは、彼が学校に来なくなるまでの、長く感じた、短い間のことだった。