幽霊君と憂鬱な世界
「あら、お帰り」
家では、父さんと母さんが夕飯を食べていた。
「遅いから、先に食べちゃってるわよ」
真夏に鍋をつつく2人の呑気な顔を見て、俺はようやく息を整ることができた。
「なんだ、悪い幽霊に追われたか?ちゃんと魔除けの札、持ち歩いているのか?」
父さんはそう言うと、タンスから札を取り出し、俺に渡した。この紙切れは、警察を呼ぶ防犯ブザーのようなもので、それなりの効果がある。大抵の幽霊はこれで大丈夫だが、繋がりのある彼にはきっと駄目だろう。
テレビを観ていた母さんが、大騒ぎで画面を指さす。
「ほらみて!お姉ちゃん映ってるわよ!」
まだうまく働かない頭で、テレビに目を向ける。
「恐怖!美人霊能力者と怪奇現象を科学的に分析!」というテロップのもと、巫女服を着た姉貴が映っていた。俺は荷物も降ろさず、2歳年上の姉貴が仕事をする様子を茫然と見つめる。なんだか巫女服が胡散臭さを演出しているが、紛れもなく、あの人は「特別」だった。
姉貴は中学を卒業すると、高校には行かず、霊媒師として働き出した。俺が同じ道を進もうとしたら、きっと両親は猛反対しただろう。俺のような「異常」の範疇を越えて、姉貴はさらに上の力を持っているからそれが許される。この「異常」と「特別」の差は、決して埋まることはない次元の話だ。
そもそも、この業界は実力はもちろん、人との繋がりも重要らしい。うちは親戚に霊媒師が多く、身近に応援してくれる人達がいることも、姉貴が特異な道を進める理由ではあるのだが。
この仕事も、きっと誰かの誰かからお願いされた、誰かの悩みなのだろう。
「亡くなった妻は、この世に未練を残しているのでしょうか…」
さめざめと涙を流しながら、旦那さんは姉貴に尋ねる。姉貴は、旦那さんの側に居る幽霊の奥さんに目を向けた。画面には、姉貴と旦那さん、そして幽霊の奥さんがいた。ピンと背筋を伸ばして座る奥さんは、緊張した面持ちで「いいえ」と首を振った。高そうなイヤリングとネックレスがきらりと揺れた。どうやら香水がきついらしく、姉貴がむせながら通訳する。
「奥様はこの世に未練はありませんが、今もあなたの側にいらっしゃいますよ」
それを聞いて、旦那さんはさらに嗚咽をもらす。
「それよりもお姉さん、ちょっと聞いてくださる?」
奥さんは姉貴に向けて話を始めた。
「この人ったら私が死んだ後も、結婚記念日にお祝いをしてくれるんだけれど、なんだか1日ずれているのよね。7月25日じゃなくて、7月26日って伝えてくださらない?」
姉貴は頷くと、旦那さんをなだめながら、ゆっくりと話をする。
「奥様は、あなたが結婚記念日に今でもお祝いをしてくれることが嬉しいと仰っています」
旦那さんは驚いた表情になり、姉貴を見つめた。
「でも、7月25日ではなく、7月26日だと」
勢いよく旦那さんは部屋へと向かい、数秒後、カメラの前に戻ってきた。
「本当だ…7月26日だった…」
ザワザワと、スタッフやコメンテーターが騒いでいる。
「この人、いつも少しだけ抜けているのよね。きっと死んでも直らないわ」
奥さんの言葉に、姉貴がクスリと笑った。旦那さんは気づくはずもなく、すぐ近くにいる奥さんに何度も手を合わせる。
「ごめんよ、ごめんよ、ありがとう…」
幽霊が見える人からすれば、不思議な空間だった。母さんは「分かるわ~」と謎の共感をしているし、父さんは「この奥さんじゃ、生前は相当尻に敷かれただろうな」と、よく分からない同情をしている。
俺は、こうして他人の目を集めることを恐れない、姉貴を見つめていた。人の目にさらされても、自分を失わないあの人と、俺は何が違うのだろう。それが「特別」なのだろうか。
「あ!そういえば明日はお爺ちゃんの葬式だからね」
母さんに言われて思い出し、俺はほっとしてしまった。明日は学校に行かなくていいから。あの公園を通らずに済むから。
再び画面をみると、姉貴が、こっちを見ていた気がした。
布団に入ると、眠りにつくのが怖かった。きっとあの頃の、小学生の頃の夢をみるだろう。家に幽霊が入れないよう結界を張っても、恐ろしい夢をみることは防ぐことができない。どうすることもできず、何度も寝返りをうち、ようやく明け方になって微睡んでいると、夢と記憶の狭間で彼のことを思い出していた。
「ぼくと友達になろう」
そう言って差し伸ばされた手は、とても温かなものだった。小学生の俺は、幽霊のせいで友達もいないし、先生にも邪険に扱われていた。それでも「居場所がない」とは感じなかった。家族以外に、誰かとの居場所があったことなんて、一度もなかったから。ただ、独りきりなだけ。誰とも繋がらず、独り分の世界を生きていた。
友達がいなかった原因は今思えば幽霊のせいだけではなく、俺の努力不足とか、諦めに近い考え方のせいで、周りとの距離の取り方が分からずにいたせいだと思う。でも、あの頃の俺はみんなの目が怖くて、ひっそりと形作る「普通」は歪んでいて、そんなことを考える余裕もなかった。
「ぼくは、君の味方だよ」
僕の世界に、一番最初に手を伸ばしたのは彼だった。彼は正義感が強い少年で、いじめられていたというより、みんなから避けられていた俺を仲間に入れようと必死になってくれた。
あの時、俺がその手を取らなければよかったのだろうか。拒否していれば少なくとも、俺が彼を不幸にすることはなかっただろう。あの手は、とても温かったのに。俺が手を取ったから、彼の手は冷たくなってしまった。
「待っているから。約束だからね」
冷え切った、彼の声が蘇る。体中の血が恐怖と後悔を叫んでいる。気持ちの悪い汗を拭いながら、俺は朝を迎えた。
どこにも行かず、部屋で考え事をしていたかったが、爺ちゃんに会いに行かなきゃならない。考える時間が欲しかった。いくら考えても、きっと、答えは出ないだろうけど。
「おはよ!ほら、もう行くわよ!」
「…姉貴は来ないの?」
「お姉ちゃんは後から向かうって電話来たわよ。ほら車乗って」
きっと、姉貴に会ったら笑われてしまうだろう。あの人の強さが、俺にも欲しかった。
爺ちゃんの家に着くと、親戚がたくさん集まっていた。俺の親戚は、ほとんどが幽霊が見える人間だった。だから、幽霊になって元気になった爺ちゃんに会うのを、みんな楽しみにしていた。けれど、爺ちゃんは家に居なかったから、みんなが「どこに行ってるんだ」と騒いでいた。仕方ないから、爺ちゃんの体にだけ手を合わせて、式場に向かった。
式場にも爺ちゃんは居なくて、みんなが「きっと怒ってるのよ、体の為に禁煙させたから」と口々に言っていた。本人不在のまま、式も終わって、みんなでバスに乗り、火葬場に向かった。
姉貴はまだ来ていないようだった。
火葬場は山の方にあって、ずいぶん開けた場所に建っていた。
美術館のような、真っ白な建物だった。木々や芝生の緑と、建物の白が、なんだか別世界のようで、不思議と心を落ち着かせた。ここにも爺ちゃんは居なくて、みんなはもう諦めて「死ぬ前から頑固者だったから、死んでも頑固なのは仕方ない」と笑った。
会える時は、いつでも会えるし、会えない時は、今は会えないってだけ。
ただそれだけのことだから、悲しくはない。
火葬も静かに終わり、中庭から光の射す待合室で、俺は時間を潰していた。父さんも母さんもおしゃべりだから、きっとまだまだ暇だろう。透明なガラスで仕切られた待合室は、まるで自分が、展示品の一部になったかのようだ。
そうだとしたら、俺は、その目にどう映るのだろう。煙草を吸いたい気分になる。吸ったことなんて、無いけれど。
時間が止まっているかのように、静かだった。
あの人が来ていると、幽霊も姿をみせようとしない。
「なにか嫌なことでもあったのか」
足音もなく、姉貴が隣に座っていた。
「爺ちゃんの晴れ舞台だぞ?もっと笑え」
「…無理言うなよ」
姉貴はカラカラと、愉快そうに笑った。ちっとも笑えず、俺はムスッとした顔のまま座っていた。
「嫌なヤツにでも会ったのか」
分かりきっている質問には答えず、俺は、窓の向こうの景色を見つめていた。遠くを見たくても、どうしても、ガラスに映る自分が目に留まってしまう。姉貴は立ち上がると、日向と日陰を行ったり来たりしながら、言葉を続ける。
「なぁ、好きなヤツと嫌いなヤツ、人間と幽霊、何が違うんだろうな?」
姉貴が舞のようなものを踊ると、ヒールのカツン、カツンという音が、遠くに響く。
「じゃあ、本物と偽物、何が違う?」
黒いドレスのような礼服が、ふわりと揺れる。俺の視線を遮るように立ち止まり、目が合う。まるで、目の前にいる俺のことだけでなく、俺の向こう側、これから出会うものすら見透かすような瞳だった。
姉貴がにっこりと笑った。
「選ぶだけ。それが、この世界の決まりになるから」
その言葉に、俺は目を伏せてしまう。
「…俺は、姉貴みたいに、なんでもできるわけじゃない」
こんな弱音をはくなんて、我ながら情けなかった。姉貴はふわりと俺の後ろにまわると、俺の両肩に手を置いた。
「存分に悩め、弟よ」
姉貴は小さい頃から、上の立場の振る舞いができる人だった。
まるで神様みたいに。
「悩んだ分、きっと良いことがあるぞ」
手が離れ、後ろを振り返ったけれど、姉貴はいなくなっていた。
「…そんなんで、相談に乗ったつもりかよ」
俺はため息をつき、ゆっくりと立ち上がった。
カラカラとした笑い声が、遠くで聞こえた気がした。
式場を出て、空を見上げた。
ずっと上の方から、眩しいくらいの温かな光が、降り注いでいる。ここは山の上だから、緑が多くて、天気も良くて、とても綺麗で、誰かの死を「悲しむ」場所とは違っているような気がした。
ここはきっと「受け入れる」ための場所だろう。
喜びも、悲しみも、憎しみも、無関心さえも、この場所は、包み込むのだろう。
「おう、元気そうだな」
真っ白な建物の屋根で、爺ちゃんが、うまそうに煙草を吸っていた。
笑った時にできる、目尻のしわが、懐かしかった。
「うん」
それしか、言えなかった。
俺は記憶通りの、死んでもちっとも変わらない爺ちゃんを見て、涙が流れた。