ありがとう、あなた。
「あら、あなたお帰りなさい。随分早かったのね」
「うん、思ったより仕事が早く終わってさ、着いたら空港からすぐ帰ってきたよ」
「へえ珍しい。いつもならどっかに寄り道して来るのにね」
思いもかけず明るいうちの忠男の帰宅に、円香は少々面食らっているようだ。
飲みに行くと午前様、買い物に行けばゴルフ用品店や工具店などに平気で長居はするし、散歩に行こうものなら行方不明になるのはしばしば――――
ついこの間などは、街で逢った若い娘とメールのやりとりをしていたのが発覚し、皿は飛ぶわ“離婚よ!”と泣き喚くわの大修羅場を演じて、円香はまだその事を許してはいない。
忠男はいつも憤慨する円香を“鬼嫁”などとからかうので、よけい火に油を注いでしまい、別れる切れるの大騒ぎなど日常茶飯事だ。
そんな忠男が着いたその足でご帰宅とは、明日雪でも降るのではなかろうかと心配になってしまう。
「あー腹減った。円香、なんか食うもんあるかあ?」
「ちょうど煮物ができたとこなのよ。あなたの好きな里芋とイカの煮物よ」
「おおっ、美味そうだー」
上着を脱いで円香に手渡した忠男は、二泊三日の出張で疲れた腰を落ち着けた。
「ちょっと!先に着替えて下さいよ。ワイシャツが汚れちゃうでしょう」
「とりあえずメシにさせてくれよー」
「じゃあ汚さないように気をつけてちょうだい。洗濯が大変になるんですからね!」
「はいはい」
裏返しに脱いだ靴下を眉を顰めてつまみ、籠に放り込んで円香は食事の支度をしにキッチンへと向かう。
「今お味噌汁作るからちょっと待ってねーっ」
「ほいよ」
広げた新聞越しから、こもった声が聞こえた。
いつもはだらしない駄目亭主でも今日はいい旦那だから良しとしようと、円香は万更でもない気分にいつしかなっていた。
「はい、お待たせ。あなたおビールは?」
「あとで、いい」
「そう、たくさん作ったからいっぱい食べてね」
「いただきます」
忠男は無心で食している。
それを眺めては、ちょっと“かわいい”と思ったりした。
「どう?」
「ん、うまい」
「そ、よかったわ」
最初はニッコリとしていたが、そのうち忠男の様子がどこか違ってきているのに円香は気づきはじめた。
忠男の目が、潤んでいるようなのだ。
「やあだあなた、泣いてるの?」
「何だよ、泣いてなんかいないよ」
「いいのよ。私の味が恋しかったんでしょう?泣きたいほど感激してるなら、いくらでもどうぞ」
思わぬ忠男のリアクションに、この間の浮気を許してもいいかなという気にさえなってきた。
考えてみれば今日の忠男は別人のようだが、“この態度がこれから毎日続くなら、私は世界一の幸せ者よ”と円香は悦に入っている。
「お母さん、ただいまー」
「あ、大吾。お帰りなさい」
「アレ!?お父さんも帰ってたの?ワーイ、お帰りーっ」
小学生の息子の大吾は学校から帰ってくるなり、忠男にじゃれついた。
「ねーねー、おみやげはー?」
「ああ、ちゃんとあるさ。そこの紙袋、とってくれるか?」
「何コレ?」
白地にえんじ色の字の、多少ダサいともとれる包装紙の箱と、かわいい鳥の絵がある黄色い箱が紙袋に入っている。
「“博多辛子明太子”お前たち好きだろ?それと、福岡名物“ひよこ饅頭”」
「おいしそー(^^)ねえ一個食べていい?」
「おやつのときにしなさい」
「はーい」
大吾はちょっと残念そうにすごすごと自分の部屋にランドセルを置きに行くと、またリビングダイニングへと戻って来た。
「ちょっと大吾、宿題は?」
「今日宿題ないもん」
大吾はお気に入りのソファー席に陣取ると、リモコンを掴んで夕方のアニメ再放送を観はじめた。
「全くもう、宿題なかったら予習とか復習とかしなさいよね。あなたからも何か言ってやって下さいな」
忠男は、無言で食事している。
大吾もテレビに夢中だ。
「はあ……ダメだこりゃ。ウチの男どもときたら、ホントに……」
さっきまでの幸せな気分が、風速50mの突風に飛ばされるようだ。
「ちょっとあなた、胸ポケットにあるの、出しなさい」
「?……洗濯でもするのか?」
忠男は訝しく思いながらも、胸ポケットの煙草とライターをテーブルに置いた。
すると円香は一本銜えて先端を紅く灯しはじめる。
「オイお前、タバコなんて吸うのか?」
「吸わないわよ!でもやってらんないから、いいでしょ?………ぐっ、ケホッ、ケホッ!」
はじめはマフィアの女ボス風に気取ってみたものの、慣れないから煙にむせてしまった。
「おいおい大丈夫かよ?そのくらいでやけっぱちになって。全くお前ときたら、すぐ頭に血が上りやすいんだから」
「えーそうよ!どうせあたしは怒りっぽいわよ。それもこれもあなた達がそうさせてるんですからね!コレもういらないわ」
半分も喫わないうちに、円香は煙草を揉み消してしまった。
「おーもったいね。でもなあ円香……」
忠男が急に真剣な眼差しを向けるので、円香は胸を射抜かれてドキリとしてしまった。
「大吾は今はまだ子供だが、これから大きくなるにつれ大変になっていく。ちょっとやそっとで怒っててはいけんぞ」
「プーーーッ!」
真面目な話をしている筈なのに、思わず円香は吹きだしてしまった。
「ちょっとやだあ(^^)あなた出張先で方言がうつったんじゃない?もお、笑わせないで……」
「あーっ!」
その時突然大吾が叫んだので、何事かと円香はそちらを振り返ってみた。
「どうしたの?」
テレビはアニメーションが楽しげに展開されていた筈だが、今画面の中では女性アナウンサーが神妙な面持ちを呈している。
『番組の途中ですが、ここで只今入りましたニュースをお伝え致します。今日夕方頃、中国山地付近で全日本航空472便、14時30分福岡発羽田行きの旅客機が通信不可となり、行方知れずとなっておりましたが、さきほど岡山県山中にて同機が墜落したとの情報が入りました』
「お母さんこの飛行機、お父さんが乗るって言ってた飛行機だよ!」
「何言ってんのよ。お父さん仕事が早く済んだって言ってたわよ。現にお父さん、ちゃんと帰って来たじゃない。ねえ、あな……」
円香は同意を求めようとしたが、振り返っても忠男の姿はなかった。
「あら?トイレに行ったのかしら」
「だって、お父さんに電話したら“2時半の飛行機で帰るって言ってたもん」
「もうちょっと早い飛行機で帰ったんじゃないの?でもよかったわー、予定通りに帰っていたらとんでもない目に遭っていたところだったわね」
そんな円香の安心を破るように、女性アナウンサーは続ける。
『つきまして当テレビ局は、乗客名簿を入手しましたので発表致します。テレビをご覧の皆様、もし心あたりのあるお名前があっても、別人の可能性もあります。どうぞお心乱しのないよう落ち着いて下さい。順番は五十音順になっています。アイダケイゴさん、イケダヒサノリさん、イチカワレイコさん……』
まさかとは思うが、急に不安の翳りが胸に射しかかってくる。
夫の名前が無いのを確認するため円香は画面に釘付けになっていた。
気づけば無意識に手を組んでいて、祈るように見守る自分がいる。
『モモヤマヒサツグさん、ヤマグチヨシミさん、ヤマシタカナメさん、ヤマダヒサシさん、ユウヅキコハクさん、ヨシカワタダオさん』
ヨシカワ タダオ――――
アナウンサーのその声が、円香の頭で渦を巻いている。
(まさかそんな、きっと同姓同名の別人よ。あの人さっき帰って来たんだし)
しかし忠男の姿が先程から見えない。
円香はいいようのない不安に襲われ、トイレに行ったと思われる忠男をもう一度この目で見なければ気がすまないのだ。
コンコン☆
「あなたー、入ってるー?」
トイレのドアを開けたが、彼女の期待には添えなかった。
「変ね……」
二階にも上がった、庭にも出てみた。
だが円香の今度こそという思いは、ことごとく裏切られてしまう。
(ったくもう、どこ行ったのよ!)
次第にあせり・苛立ちに似た感情が、円香の心で暴れだしていった。
すると突然電話が鳴り、少しドキリとしてしまった。
ルルル……
「はっ!」
「お母さん、電話鳴ってるよー」
「ありがと、今出るわー……はい、吉川でございます。ああ、お母さん。何?」
『円香、テレビ見たかい?』
「見てたけど、飛行機事故のこと?」
『そうよ、堕ちたら爆発して燃えたっていうじゃない。乗客は、ほぼ絶望的なんだって。忠男さん、お気の毒に。まだ若いのに……円香、気をしっかり持って』
「ねえ、何言ってるの?忠男はさっき帰って来たわよ。お腹空いたからって、私がこしらえたおかずを美味しそうに食べてたわ」
『それがねえ……福岡のおじさん憶えてる?そのおじさんと忠男さん、向こうで会ってたんだよ。それで今日、おじさんが福岡空港まで見送りに行ったらしいけど、忠男さん確かに2時半の東京行きの飛行機に乗ったんだってさ!さっきおじさんから電話があって、もうビックリしたわよ』
「えっ……」
(そんな!じゃあ、あれは何だったの!?幻でも見たっていうの?)
円香は電話を切り、もう一度リビングダイニングに戻った。
(おみやげの箱…ある!私が悪戯で喫ったタバコもテーブルの上……)
しかしそれより何より、忠男に出した食事の器がどれも空になっている。
円香の視界には星が瞬きはじめ、思考回路は途切れたインパルスにせき止められて、頭の中はただ涼しい靄がかかっていた。
「あ………」
そして、時は何十倍も低速のスピードで彼女の中をゆっくりと巡ってゆく。
まばたきのあいだに、十年を過ごすように――――
円香は思考力とバランスを失くすと床に後頭部を打ちつけてしまい、目の前はさらに星で満たされていった。
「ワーお母さん、大丈夫!?」
大吾が心配する声も遠くかすかに響いている。
宇宙を漂うような意識の中で、ひとつ分かった事が円香にはあった。
(あの人、最後に私達に逢いに来てくれたのね。怪奇現象とか信じてないけど、間違いない!私の料理が食べたかったんだわ。あんなに嬉しそうに、よかったわね。おみやげだって、渡したかったのね。なんだかもったいなくて食べられないわ。最後に言ったひとこと、私を励ましてくれたの?……ありがとう。暫くは悲しくて寂しいかも知れないけど、私生きていけるわ!あなたの優しさ、よーく分かったもの。大吾と二人で、いつまでも元気で暮らしていくわ。あなた、見ていてね……)
円香の目から零れた涙が、耳元を抜けて髪を濡らしてゆく。
「お母さん、今日はお父さんの命日だから、これからお墓参りに行ってきます。……早いものだね、あれからもう二十年になるよ。できればお母さんも一緒に連れて行ってあげたいけど、しょうがないよね。お母さんの分もお墓に手を合わせてくるから。ねえ、最後に逢ったお父さん、本当に優しかったね。もしお母さんが長い夢を見ていたとしたら、あのときのお父さんがずっと一緒なのかなあ?だとしたら、とっても素敵な夢だね……あ、変な事言ってゴメン。じゃ、行ってきます」
(気をつけて、行ってらっしゃい)
「え?………気のせいか」
大吾は背中越しに円香の声を聞いた。
しかしそんな事ありえる筈がないから、ただの空耳にすぎない。
眠っている母親にもう一度微笑みかけ、大吾は扉の音を忍ばせて墓地へと向かって行った。
彼女は幸せだ。
この幸せが、戻らない意識の中にいつまでも閉じ込められている。
心の中で息子と楽しそうに笑い、時々夫に向かって笑いかけている。
白い部屋の中で、いつまでも いつまでも―――――
(おわり)
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