目覚め1
紫音は自分の叫び声で目が覚めた。
そしてすぐに、自分の体を見回した。
異常はなかった。
「夢だったのね」
思わず呟いたその言葉で、おぞましい気持ちが少しは楽になった気がした。
それにしても、なんとリアルな夢だったことだろう。
目が覚めた今でも、黒い影の吐息がまざまざと耳に残り、身体を包んだ闇の感触が肌に残っている。
暫くして落ち着いた紫音は、辺りを見た。
見知らぬ部屋だった。
窓から夕日が差し込んでいる。
ここはどこだろう。
木造の10畳ほどの部屋で、箪笥やワードローブ、テーブルなど、古い物ながらも、一人で住むには充分な家具が揃っていた。
紫音の寝ているベッドの寝具も、清潔だった。
どうやら新しい世界で目覚める時に、誰かに見つけられたらしい。
その時、ドアを開けて娘が駆け込んで来た。
「叫び声が聞こえたけど、どうしたの?」
娘は、肩までの髪を束ね、頭にスカーフを巻いていた。
農作業の途中らしく、服に藁屑が付いている。
「ええ、何かとても怖い夢を見たので」
「そうなの。きっと疲れてるのよ。あんな山の中で倒れてたんですもの」
「私は山の中で倒れてたんですか?」
「そうよ。覚えていないの?」
「ええ、まったく」
娘は不思議そうな顔をした。
「あなたが山の中に倒れているのを、薬草を取りに行ったうちのお婆様が見付けたのよ。それから兄と私であなたをここまで運んできたの」
「そうだったんですか。ご迷惑をおかけしてすみません。」
「ううん、そんなことは良いのよ。それよりあなた、何故あんな所に倒れていたの?」
「それが、私にも分からないんです。何も覚えていなくて」
紫音は目を伏せた。
「分からないって・・・じゃ、あなたどっから来たの?どこへいくつもりだったの?旅をしているような様子でもないし。あなた、自分の名前は分かる?」
「名前は・・・多分紫音という名前だと思います。それ以外は何も分かりません。」
娘は、驚いていた。
その時ドアが開き、老婆と青年が入ってきた。
「おぉ、目が覚めたかえ」
老婆はそう言うと、そばにあった椅子をベットに引き寄せた。
「ちょっくら座らせてもらうよ」
「おばあ様、この方お名前は紫音さんって仰るんだけど、それ以外は何も覚えてらっしゃらないそうよ」
「ほほぉ」
娘の言葉に、老婆は紫音をじっと見つめた。
老婆のその目は、紫音の心の底まで見透かすような目だった。
紫音にとってはいつもの事だった。
特別な能力を持つ紫音には生死がない。
死ぬ代わりに、使命を終えた紫音は、ある日突然消える。
そして休息の後、どこかの時代のどこかの場所に現れる。
まるで一日の活動が終わって眠り、次の日の朝に目覚めるように、紫音は年を取らずにそれを繰り返していた。
そして、ある時代に現れた時に一人の時もあれば、今のように誰かに見つけられていることもある。
一人の時は、これからどうするかを落ち着いて考えられたが、誰かに見つけられた時には迂闊なことは言えなかった。
本当の事を言っても信用されないし、後々が面倒な事になった。
だから紫音は、そういう時には記憶を無くした事にしていた。
だが、老婆は何かを感じているようだった。
「ふむ。多分なにか強いショックを受けて、一時的に記憶喪失になっとるんじゃろ。頭に怪我はしとらんから、精神的なもんじゃろな。なに、落ち着けば又思い出すこともあるじゃろうて。」
老婆はそう言うと柔和な目になり、紫音に微笑んだ。
「はい。そうだと良いんですけど」
どうやら老婆は、紫音を悪い人間ではないと思い、何も聞かない事にしたようだった。
紫音は心の中で感謝をした。
「紫音さんとやら、このままじゃどうしようもないから、当分うちにいればよかろう。うちも人手が足りんから、農作業でも手伝ってもらえば助かるしの。」
「ええ、私に出来ることがあれば、何でもお手伝いさせて頂きます。」
紫音は頭を下げた。
「うむ。何もしないでいるのも退屈じゃろうから、よろしく頼むわい。さて私は、部屋へ戻るとするか。」
老婆はそう言って、よっこらしょ、と椅子から立ち上がり、部屋を出ていった。
娘と娘の兄は部屋に残った。
「紫音さん、これからよろしくお願いしますね。私の名前はジャネットよ。それからこの人は兄のマイク。さっきいたお婆様が、ヘレンお婆様よ。家族は三人だけなの。」
「私と兄で農作業をしてるんだけど、人手が足りないのよ。だから紫音さんが手伝ってくれると助かるわ。」
と言って、顔をほころばせた。
「ええ、喜んでお手伝いします。でも、お父様やお母様はいらっしゃらないの?」
「母は、六年前に亡くなったわ。父も去年、病気で死んだのよ。」
「そうだったの。お二人だけで農作業をするのは大変でしょ?畑は広いの?」
「ええ。まだ耕してない土地もあるのよ。私たちだけじゃ、とても手が回らないわ。だから私、お兄様にいつも言うの。早くお嫁さんを貰いなさいって。」
「ジャネット。何も今そんな話をしなくても・・・」
「あら。お兄様のために言ってるのよ。お兄様は優しいけど女の人の事となるとてんで気が弱いんだから」
マイクはうんざりした顔で黙り込んだ。
「さあ、紫音さん。もうすぐ陽が落ちるわ。着替えて夕食の準備を手伝って下さらない?」
ジャネットは洋服タンスへ行くと、紫音に似合いそうな服を物色した。
「ここにあるのは私のお古だけど、良かったら着てね。これなんかどうかしら」
ジャネットは服と紫音を見比べて
「うん、良さそう。大きさも合いそうだし」
そう言って紫音に渡した。
「さぁさぁ、紫音さんが着替えるんだから外に出て」
所在なげに立っていたマイクは外に追い出された。