第11話 1896年、ウィーン/パリ/オデッサ——設計図、世に出る
明治29年
・三陸大津波(明治三陸地震)
・松方正義内閣(第2次)発足
・八幡製鉄所の設立(官営)
一冊の薄い本が、世界を変えることがある。
それは稀なことだ。ほとんどの本は、書かれ、読まれ、忘れられる。しかし時代が熟し、問いが煮詰まり、誰かが言わなければならないことを言う言葉が現れたとき——その言葉は、ただの言葉ではなくなる。
1896年2月。
ウィーンとライプツィヒで、一冊の小冊子が出版された。
著者の名前は、テオドール・ヘルツル。
題名は、『ユダヤ国家(Der Judenstaat)』。
一 1996年の世界——近代の疾走
1896年は、世界があらゆる方向に同時に走り出したような年だった。
ウィーンでは前年の1895年、カール・ルエーガーが市長に選出されていた。反ユダヤ主義を旗印に大衆票を集めたこの男の当選を、皇帝フランツ・ヨーゼフ一世は承認しなかった。古い帝権が、新しい大衆政治の暴走に待ったをかけた瞬間だった。しかしルエーガーは諦めず、翌年以降も繰り返し選出され続ける。皇帝の拒否権は、潮流を止めることができなかった。
音楽の都ウィーンでは、前年にグスタフ・マーラーが交響曲第2番「復活」をベルリンで初演し、高い評価を得ていた。そして1896年、ウィーンを代表する作曲家アントン・ブルックナーが世を去った。巨匠の死とともに、一つの時代が幕を閉じた。その同じ年、クリムトら若い芸術家たちがアカデミズムへの反旗を準備していた——翌年の「ウィーン分離派」結成へと向かう胎動が、街の空気に滲んでいた。
リュミエール兄弟の映画がウィーンでも初上映された。動く映像という前年パリで生まれた奇跡が、あっという間に帝都にも届いた。
黒海のオデッサでは、電気トラムの路線が拡張され、港から郊外の別荘地や海水浴場へのアクセスが飛躍的に向上していた。穀物貿易で潤うこの港湾都市は、近代化の恩恵を存分に享受していた。しかしその豊かさの裏側では、ユダヤ人知識人たちの間でシオニズムへの共鳴が静かに深まっていた。
パリでは1月、ロシア皇帝ニコライ2世の訪問を記念したアレクサンドル3世橋の定礎式が行われた。露仏同盟の蜜月を象徴するこの橋は、やがてパリで最も美しい橋の1つとなる。大国が手を結び、世界の秩序が固まっていくように見えた。
そして2月、ウィーンとライプツィヒで1冊の薄い本が出版された。
二 小冊子の中身
この本は、薄かった。
本文はわずか86頁。学術書のような重厚さはなく、哲学的な難解さもなかった。文章は明快で、論理は直線的で、結論は一行で言えた。
「ユダヤ人は1つの民族である。その民族には、独自の国家が必要だ。」
これだけだった。
しかしこの1行が、それまで誰も公に言わなかったことを、初めて国際政治の言語で言い切ったのだった。
ヘルツルは主張した。ユダヤ人問題は「社会問題」でも「宗教問題」でもない。それは「政治問題」だ。個人の努力でも、慈善事業でも、教育でも解決できない。ユダヤ人が安全に生きるためには、世界の列強が法的に承認した「ユダヤ人の国家」が必要だ——と。
場所については、2つの候補を挙げた。アルゼンチンか、パレスチナか。
どちらでもよかった、とさえ言えた。重要なのは場所ではなく、国際法によって承認された「主権」だった。ユダヤ人が、他の誰かの恩情に頼らず、自らの力で守ることのできる土地。それが必要なのだ、と。
三 嵐のような反応
出版直後から、反響は嵐のようだった。
しかしその嵐は、賞賛と嘲笑が入り乱れる、奇妙な嵐だった。
西欧のユダヤ人知識人の多くは、冷淡だった。あるいは激しく反発した。「妄想だ」「危険だ」「同化政策を台無しにする」——そういう声が、ウィーンのサロンから、パリの書斎から、ロンドンの応接間から届いた。彼らにとって、「ユダヤ人国家」という主張は、せっかく手に入れかけた市民権を危うくする、時代錯誤の叫びだった。
宗教的な正統派からも批判が来た。「神がユダヤ人をパレスチナに帰還させるのは、救世主の到来によってのみだ。人間の力で国家を作ろうなどとは、神への冒涜である」——と。
しかし東欧では、まったく違う声が上がった。
ロシア帝国やポーランドで、ポグロムの恐怖の中で生きていたユダヤ人たちは、この本を読んで泣いた。熱狂した。「ついに言ってくれた」と。彼らにとって「同化」はもとより夢物語だった。受け入れてくれる社会など、最初からなかった。だから「自分たちの国家」という言葉は、救済の言葉として響いた。
テオドールのもとに、手紙が殺到した。東欧の各地から。「あなたは我々の预言者です」「あなたの言葉を待っていました」——そういう言葉とともに。
四 ノルダウ、最初の共鳴者
西欧のユダヤ人知識人の中で、この本をほぼ無条件に支持した重要人物が1人いた。
マックス・ノルダウだった。
ノルダウはこの本を読んだ瞬間、その論理の正確さを見抜いた。医師として「ヨーロッパ文明の病理」を診断してきた彼には、ヘルツルの結論が明快に映った。「退廃」したヨーロッパが、ユダヤ人を受け入れることは、構造的に不可能だ。ならば処方箋は一つしかない——ヘルツルの言う通りだ、と。
2人はパリで向き合い、長い時間を話し合った。
ノルダウはその席で言った。「テオドール、あなたは狂っていない。狂っているのは、同化という幻想に縋り付くこの世界の方だ」
この言葉が、テオドールにとってどれほどの支えになったか。
反発と嘲笑の嵐の中で、ヨーロッパ最高の知性の1人が「あなたは正しい」と言った。その重みは計り知れなかった。
ノルダウはやがて、ヘルツルの右腕として、シオニズム運動の演説家となる。その雄弁は、群衆を熱狂させた。しかしこの1896年においては、まず「最初の1人の味方」として、その役割は揺るぎなかった。
五 アハード・ハアム、対抗の砦を建てる
1896年10月。
オデッサのアハード・ハアム40歳は、ヘブライ語月刊誌『ハ・シロアハ』の創刊号を世に送り出した。
これは偶然ではなかった。
『ユダヤ国家』が出版されたのが2月。『ハ・シロアハ』の創刊が10月。同じ年に、対極的な思想の「拠点」が2つ生まれたことは、後のシオニズム運動の内部分裂を象徴するかのようだった。
アハード・ハアムのこの雑誌は、普通の文学誌ではなかった。
彼は厳格な編集方針を定めた。娯楽的な文章は載せない。自然を賛美するだけの詩も載せない。ユダヤ民族の現状と直接関わる「知恵」「評論」「批判」のみを掲載する——と。
その批判の対象の一つが、『ユダヤ国家』だった。
アハード・ハアムはヘルツルの主張をこう評した。器(国家)を急いで作っても、そこに注ぐべき魂(ユダヤ的文化・アイデンティティ)が再生されていなければ、その国家は空洞だ。まず民族の内面を変えなければならない。精神的な準備なき政治的建国は、砂上の楼閣に過ぎない——と。
ヘルツルの言葉がドイツ語で西欧に向かって放たれたのに対し、アハード・ハアムの言葉はヘブライ語で東欧のユダヤ人知識人に向かって放たれた。二つの声は、使う言語も、想定する読者も、目指す方向も、まるで違っていた。
しかし両者が格闘しているのは、同じ問いだった。
ユダヤ人の未来は、どこにあるのか。
六 世界の反応——1896年の地図
『ユダヤ国家』の出版は、当時の政治の中枢にも波紋を投げかけた。
ヘルツルは出版後すぐに行動を起こした。彼は外交官のように、ヨーロッパの権力者たちに会おうとした。オスマン帝国のスルタン、ドイツ皇帝、イギリスの政治家——ユダヤ人国家の「承認」を得るために、彼は扉を叩き続けた。
この年、彼はコンスタンティノープル(現イスタンブール)を訪れ、オスマン帝国高官との会談を試みた。パレスチナはオスマン帝国の領土だった。スルタンの承認なくして、パレスチナへのユダヤ人国家建設はあり得ない。
交渉は難航した。オスマン帝国は、ユダヤ人の入植に原則として賛同しなかった。
しかしテオドールは諦めなかった。
外交とは、一度の交渉で決まるものではない。繰り返し、繰り返し、粘り強く扉を叩き続けることだ——そういう確信が、この時期の彼の行動原理だった。
七 ヴァイツマン、2つの師の間で
この年、22歳のハイム・ヴァイツマンはベルリンで化学の勉強を再開した。
そして同じ年、彼はアハード・ハアムが設立した秘密結社「ベネイ・モシェ(モーセの息子たち)」に加入した。
これは、ヴァイツマンという人物の後の姿を予感させる選択だった。
彼は科学者として、実証と論理を信じた。しかし同時に、ユダヤ民族の文化的アイデンティティの重要性を説くアハード・ハアムの思想にも深く共鳴していた。
やがてヴァイツマンは「綜合的シオニズム」と呼ばれる独自の立場を形成する。外交的な法的承認(ヘルツル的なアプローチ)と、文化的・精神的な民族再生(アハード・ハアム的なアプローチ)を同時に進める——という立場だ。
今はまだ、1人の学生が書物の間で揺れていた。
しかしその揺れの中に、後の歴史を動かす思想の種が、すでに蒔かれていた。
八 預言者の孤独
1896年末。テオドール・ヘルツル、36歳。
この1年で、彼の人生は別人のように変わった。
劇作家だった男が、運動の指導者になっていた。社交界の機知ある紳士だった男が、「ユダヤの预言者」と呼ばれるようになっていた。ウィーンのサロンで笑いを取っていた男が、東欧の無名の民衆から「あなたを待っていました」という手紙を受け取っていた。
しかし、変わらないものもあった。
家庭は冷えていた。ユリアとの関係は修復できないほど遠くなっていた。子供たちとの時間は、運動への情熱によって削られていた。かつての劇作家仲間たちは「あいつは狂った」と囁いた。ウィーンの名流社会は、彼を厄介者として遠ざけ始めた。
預言者とは孤独なものだ。
しかしこの孤独は、少なくとも今は、方向を持っていた。
翌年——1897年、スイスのバーゼルで、歴史的な会議が開かれることになる。
* テオドール・ヘルツル
オーストリア=ハンガリー帝国出身のジャーナリスト・劇作家。近代政治シオニズムの創始者とされる人物。1896年に『ユダヤ国家(Der Judenstaat)』を出版し、ユダヤ人国家建設を国際政治の課題として提起した。
* ユダヤ国家
1896年に出版されたヘルツルの小冊子。正式題名は『Der Judenstaat(ユダヤ人国家)』。近代シオニズム運動の出発点とされる。
* ウィーン
オーストリア=ハンガリー帝国の首都。19世紀末にはヨーロッパ有数の文化・政治中心地で、反ユダヤ主義と近代芸術が同時に噴出した都市。
* ライプツィヒ
ドイツ帝国の出版・印刷業の中心都市。当時、多くの思想書や学術書がここから刊行された。
* カール・ルエーガー
反ユダヤ主義を掲げて人気を集めた政治家。後の大衆政治・民族主義の先駆的存在とされ、若き日のヒトラーにも影響を与えたと言われる。
* フランツ・ヨーゼフ1世
1848年から1916年まで在位したオーストリア皇帝。多民族国家オーストリア=ハンガリー帝国を長く統治した。
* グスタフ・マーラー
後期ロマン派を代表する作曲家・指揮者。交響曲第2番「復活」で名声を高めた。
* アントン・ブルックナー
荘厳な交響曲で知られる作曲家。1896年に死去し、「古いウィーン音楽文化の終焉」の象徴とも見なされる。
* グスタフ・クリムト
象徴主義・アールヌーヴォーを代表する画家。翌1897年、「ウィーン分離派」を結成した。
* ウィーン分離派
保守的な美術アカデミーに反発した若手芸術家たちの運動。近代芸術への転換点となった。
* リュミエール兄弟
シネマトグラフを開発し、世界初期の映画上映を行った兄弟。映画史の始祖として知られる。
* オデッサ
黒海沿岸の港湾都市。19世紀末にはロシア帝国有数の商業都市で、多くのユダヤ人知識人が居住していた。
* シオニズム
ユダヤ人が民族的故郷を再建し、自らの国家を持つべきだとする思想・運動。19世紀後半に政治運動として本格化した。
* ポグロム
ロシア帝国などで発生したユダヤ人迫害暴動。住居や商店の破壊、虐殺を伴うことも多かった。
* 同化政策
少数民族や宗教集団が多数派社会に溶け込み、文化・言語・習慣を失っていくことで社会的受容を得ようとする考え方。
* マックス・ノルダウ
ハンガリー出身の医師・思想家。ヘルツルの盟友で、初期シオニズム運動の主要演説家。
* 「退廃(Degeneration)」
ノルダウの代表的概念。近代ヨーロッパ文明が精神的・文化的に病んでいるとする批判思想。
* アハード・ハアム
本名アシェル・ギンズベルク。政治国家建設よりも、ユダヤ文化・精神の再生を重視した思想家。
* ハ・シロアハ
1896年に創刊されたヘブライ語雑誌。アハード・ハアムの思想的拠点となった。
* ヘブライ語
古代ユダヤ人の言語。19世紀末から近代言語として復興が進み、後のイスラエル建国で公用語となる。
* メシア
ユダヤ教における「救世主」。神によって遣わされ、イスラエルの救済をもたらす存在。
* コンスタンティノープル
オスマン帝国の首都。現在のトルコ・イスタンブール。
* オスマン帝国
中東・バルカン・北アフリカを支配したイスラム帝国。19世紀末時点でパレスチナを統治していた。
* ハイム・ヴァイツマン
化学者・政治家。後にイスラエル初代大統領となる。外交と文化再生を両立する「綜合的シオニズム」を推進した。
* ベネイ・モシェ
アハード・ハアムが設立した知識人グループ。「ユダヤ民族の精神的再生」を目的としていた。
* 綜合的シオニズム
政治的国家建設と文化的民族再生を両立させようとする立場。ヴァイツマンに代表される。
* バーゼル
スイス北西部の都市。1897年、第1回シオニスト会議が開催された場所。
* シオニスト会議
ヘルツル主導で始まった国際会議。世界各地のシオニストが集まり、ユダヤ国家建設運動の方針を議論した。




