(5)
「レオン、具合悪そうだよ?」
「正直、けっこうしんどい」
昨夜降った雨のせいか、今日は朝から蒸し暑かった。登校時からすでに少し呼吸の乱れていたレオンは、リリーたちと一緒に一限目の教室へ向かいながら嘆息した。
「薬はちゃんと持ってきてるの?」
「もちろんだよ。命綱だからね」
セピアの問いにうなずき、レオンは背負っているかばんに視線を投げた。
「薬ってずっと同じところで買ってるの?」
「うん、最初に診断されたときに紹介された薬屋で定期的に購入してる」
でも全然よくならなくてさとレオンはぼやいた。発作のときに口にする薬はよく効くのに、肝心のヘルツクロブフェン病の症状は改善されないのだ。
「実はお父さんも気にしてたの。そんなに長い年数、薬を飲んでいて治らないのはおかしいって。薬があってない可能性もあるから、ちょっと調べさせてくれないかって言ってたよ。先に薬だけ預かって、あとは都合のいい日に来てほしいって」
「いつでも行けるぞ」
リリーの提案に先に答えたルテウスに、レオンはあきれた。
「誘われてるのは僕で、ルテウスじゃないでしょ」
「付き添いだ、付き添い」
「付き添いが必要なほど小さな子供じゃないんだけど」
「お前一人でキュグニー先生に会うのはずるい」
「ルテウスだって単独で先生と本の貸し借りをしてるじゃないか」
「俺はいいんだ」
「何その意味不明な理屈」
レオンはたまらず吹き出した。本当にルテウスは敬愛する教官が絡むとおかしくなる。
「平日ならお父さんが帰ってくるまで、うちで待つついでにご飯食べていけばいいよってお母さんも言ってたから」
「あー、じゃあフォルマもいいかな?」
人数が増えて申し訳ないけどとレオンは頬をかいた。ルテウスがリリーの父親に傾倒しているように、双子の姉はリリーの母親を崇拝している。自分とルテウスだけが訪ねるとなれば激怒するに違いない。
「大丈夫だと思うよ。お母さん、フォルマと話すのが楽しいみたいだから」
「フォルマが聞いたら泣いて喜びそうだね。うちはまた今度、家族でお邪魔するね」
笑うセピアに、ルテウスが目をむいた。
「家族ぐるみで付き合ってるのか?」
「当たり前でしょ。親同士が仲良かったから私たちも幼馴染なんだし」
シータさんはうちの店の手伝いにも来てるしねと少しばかり得意げな顔をしたセピアに、ルテウスが悔しそうにうなる。いったい何の競争だと苦笑し、レオンは予備で持っていた薬をリリーに渡した。
三限目は演習だったのでレオンは法塔へ向かったが、やはり体調は戻らなかった。今日はあまり無理をしないほうがいいかもしれない。
それでもホーラー教官の実践重視の授業は面白くて、つい夢中になってしまい、レオンは一番最初にすべて命中させた。するとホーラー教官は倉庫にある最小の球体を出してきた。
「小さっ」
「あんなの無理だろ」
ざわつく一回生たちの前で、「これは三回生が使うものだ」とホーラー教官が説明した。
「三回生でも全部きれいに当てる奴はあまりいない。ちなみに俺は三回生のときに完璧にこなしたぞ」
「先生、自慢してるー」
胸をそらすホーラー教官にドゥーダが突っ込み、場が笑いに包まれた。
「最終的には一回生のうちにこれを一つでも当てられるよう頑張れ――レオン、大丈夫か?」
「さすがのレオンでもあれはきついんじゃないか?」
同期生たちはホーラー教官の問いかけを誤解している。ホーラー教官はレオンの顔色を見て心配したのだが、自分の病気のことを公表していなかったレオンは「大丈夫です」と答えた。
それから生徒たちは自分の習熟度にあう球体を持ってまた練習に散ったが、レオンの見学に残る者も少なくなかった。
彼らの視線を一身に浴びながら、レオンは球体に集中した。
バシュゥゥゥンッ、パンッ、パンッ
「きゃあーっ! レオン、すごいわっ」
飛んでいた三つともにレオンの法術は当たったものの、二つはかすめただけだった。しかし一つは見事にレオンの放った炎を吸収し、美しい赤色に染まっている。
悲鳴に近い歓声を上げて拍手するチュリブたち女生徒のそばで、ホーラー教官も瞠目した。
「たいしたものだな。お前、飛び級できるぞ」
「でも、一つしかまともに命中してないです」
残る二つは底がうっすら色づいているだけなので、ほぼ外れたと言っていいくらいだ。
「たとえ一つでも中心に当てたんだ。もっと得意になっていいぞ」
「先生みたいにですか?」
ホーラー教官は笑ってレオンの頭をわしゃわしゃなでた。
「少し休め。薬は持ってきてるな?」
こそりと耳元でささやかれる。やはりホーラー教官は自分の病気のことを把握しているのだ。
「はい、すみません」とレオンは答え、皆より先に休憩を取ることにした。
歩いているときに、進度が遅れ気味の生徒にコツを聞かれたので、一度術の発動を見せてもらってから改善策を教える。
「やった、できたっ。ありがとう、レオン」
やっと成功した相手からの感謝に「どういたしまして」と笑顔を返すと、他にもうまくいかない数人に泣きつかれ、結局一息つけるまでけっこうな時間がかかってしまった。
置いていたかばんの中から発作を抑える薬を取り出す。すでに頭痛と動悸がしていて、かなり危険な状況だった。
ふたを開けて一気に飲むと、徐々に体が楽になってきた。あと少し遅ければ発作が起きていたかもしれない。
ほっと安堵の息をついて薬瓶を袋にしまっていると、ドゥーダとジュワン、その仲間が近づいてきた。
「レオンってさあ、術の発動は早いけど威力はいまいちだよな」
水筒を手にしながらドゥーダが言う。口調にとげを感じて、レオンはドゥーダを見た。
「もしかして本気出してないのか?」
「そんなことあるか? 仮にも一回生代表だぞ。なあ?」
レオンに確認するジュワンはにやついている。彼らからにじむ敵対心をいぶかったレオンが口を開きかけたとき、チュリブが小走りに寄ってきた。
「ねえ、レオン。どうしてもうまくいかないの。もう一回やって見せてくれない?」
自分と同じ最小の球体に挑戦していたチュリブが、レオンの腕に触れる。ドゥーダたちの顔がひくつくのを目にして、レオンは理由を理解した。
「僕は休憩中だから、ホーラー先生に頼みなよ」
「ホーラー先生は他の人を指導してるもの。お願い、レオン」
チュリブの声に甘さが増せば増すほど、ドゥーダたちの表情がけわしくなる。レオンは内心で舌打ちした。
チュリブを突っぱねたほうが早いかとも思ったが、それはそれでチュリブに対する態度が悪いと彼らになじられそうだ。
「集中して疲れたから実践はしない。見るだけだよ」
「いいよー。どこがよくないか教えてね」
どうやっても雰囲気が悪くなるなら、この場から去ろう。嬉しそうにはしゃぐチュリブを連れ、レオンは歩きだした。
背中に刺さるドゥーダたちの視線が、たまらなく不快だった。
翌日の放課後、レオンはルテウスとフォルマを伴ってリリーの家を訪ねた。薬を預けたのは昨日なのに、キュグニー教官はもう分析を終え、新しいものを用意するからすぐ取りに来るようにとリリーを通して伝言が届いたのだ。
「さすがキュグニー先生。仕事が早いね」
「それは当然だ。でも先生が新しい薬を作ったのなら、今まで飲んでいたやつはやっぱり問題があったってことじゃないか?」
気を紛らわせようとあえて論点をずらしたのに、ルテウスにずばりと指摘され、レオンは黙った。
診断されたときからずっと飲み続けていた薬は何の効き目もなかったのか。だからなかなか治らなかったのか。
しかし発作はおさまっていた。間違いがあったとすれば、ヘルツクロブフェン病の薬のほうだけだろう。それは処方した薬司の責任であって、薬屋のせいではない。
いつも体調を気づかいながら渡してくれる壮年の店主の顔を思い出し、レオンはうつむき唇をかんだ。
リリーはすでに家にいて、シータとともに三人を出迎えた。キュグニー教官はいつも通りの時間に帰れそうだと風の神の使いが知らせてきたので、三人はリリーの部屋でクルスを相手に時間をつぶし、キュグニー教官の帰宅の音を聞いて階下へ下りた。
「待たせたね」
帽子を取ったキュグニー教官はレオンを見て、「先に夕食にしよう」と声をかけた。
説明が長くなるのだろうと察し、レオンは質問攻めにしたいのを我慢してうなずいた。
食事の間はやはりフォルマはシータと盛り上がり、ルテウスはキュグニー教官と専門用語を飛ばし合っていた。レオンははじめ結果が気になって食が進まなかったが、リリーの食欲とたわいのない話につられ、気がつけば満腹感を得られるまで料理を口にしていた。
レオンが食べ終わったところで、キュグニー教官が腰を上げた。
「では、行こうか」
「キュグニー先生、私たちも一緒に話を聞いてもいいですか?」
ずっとシータにへばりつくものとばかり思っていたが、フォルマはレオンを選んだ。それが嬉しく、また一人で話を聞くのは怖かったので、「僕からもお願いします」とレオンも頼んだ。
「……いいよ。ただし、口外はしないように」
キュグニー教官の忠告に、レオンだけでなくフォルマとルテウス、リリーまでがこわばった。
想像以上にまずい事態が起きているのかもしれない。レオンは心配げなシータに「ごちそうさまでした。とてもおいしかったです」と礼を言って、教官の後を追った。
案内された研究部屋はそれほど広くはなかった。三人で押しかけたのはやはり悪かったかなと少し申し訳ない気持ちになったレオンに、キュグニー教官は適当に座るよう勧めた。そしてレオンが言われたとおり薬を飲んでいないことを確認してから、キュグニー教官は小瓶を手渡した。
「飲んで、話をしている間にもし異常があれば教えてくれ。問題なければ、明日また用意しておこう」
初めての薬にためらいはあったが、レオンは意を決して飲み干した。
とたん、これまでずっと感じていた熱っぽさが鎮まり、レオンは目をみはった。
「体が軽くなった……」
「二日間薬をやめていたから、変化がよくわかるのかもしれないね。リリーからだいたいの体型を聞いているけど、できるだけ正確に体重にあわせて作ったほうがいい」
「今まで僕が飲んできた薬はあわなかったということですか?」
レオンの質問にキュグニー教官は沈黙した。
「君を診断した薬司と購入していた薬屋、薬の値段を教えてくれるかい?」
すぐに答えない教官に不安が募る。両隣のフォルマとルテウスも緊張した面持ちになる中、レオンが告げた情報を書き取ったキュグニー教官は、改めてレオンを正面から見据えた。
「分析の結果、発作を抑える薬には問題がなかったから、これからも服用して大丈夫だ。でもヘルツクロブフェン病の薬は、表示された成分は正しくてもかなり粗悪な材料が使われていた」
「それって、偽物だったってことですか?」
「不純物が多くて、薬効を消してしまっているんだ。つまり薬は何の効果もないどころか……体内によくないものを蓄積している」
レオンは言葉を失った。フォルマとルテウスも呆然としている。
「実は少し前に、別の病気の診断を受けた子供が薬を飲みはじめて一月で亡くなったんだ。処方箋を見るかぎりではおかしな点はなかったんだが、やはり薬の中身はひどかった。すぐに警兵が取り調べたんだが、薬屋には在庫がなくてね。置かれていた他の薬はきちんとしたものだった。どうやら先に両親が怒鳴り込んだことで、訴えられるのを警戒して証拠を隠滅したらしい」
「その薬屋は僕が通っていたところだったんですか?」
「いや、別の店だ。だから関連があるかわからないが、悪質な薬を高額で売っている薬屋が何軒かあるのは間違いないようだ」
発作用の薬に効き目があったのは、患者を死なせないようにするためだったのだろうとキュグニー教官は言った。
「それでも、その子のように命を落とす場合もある。君が生き続けられたのは幸いだった」
幸い――だったのだろうか。確かに死ぬことはなかったけれど、治らないだけでなくよけいなものを体にため込んでいたなんて。
自分をだましていたのは薬司ではなく、薬屋のほうだったのか。それとも共謀していたのか。
親身になって対応してくれる優しい店主だと感謝していたのに。
「……僕は、これからどうしたら……」
「君から得た情報をもとに警庁が捜査を進める。君には次の購入日に、いつもどおり薬を受け取ってほしい。それを僕が分析し、やはり粗悪品であれば逮捕することになる。薬の代金は警庁から預かっているので心配いらないよ。その後は僕と付き合いのある薬屋を紹介するから、そこに処方箋を持っていくといい」
まだ実感がわかない。明かされた真実の深刻さに黙り込むレオンを横目に、フォルマが口を開いた。
「先生に直接レオンの薬を作ってもらうことはできませんか?」
レオンははっとした。ルテウスも唖然とした顔でフォルマを見ている。
「お忙しい先生に無理を言っているのはわかっています。でもこの状況では、たとえ先生の知り合いの店であっても怖いです」
自分の気持ちを代弁してくれたフォルマに、レオンは泣きそうになった。
キュグニー教官を信用していないわけではない。彼ならちゃんとした薬屋を薦めてくれるだろうから。でも――それでも、どうしても薬屋に対する疑いが消せない。
「もちろん代金は支払います。今より値段が上がってもかまいません。先生だけが頼りなんです。どうかお願いします」
フォルマが頭を下げる。キュグニー教官はフォルマからレオンへと視線を移した。
青い瞳がじっとレオンを見つめる。理知的な光が不意に揺らいだ。
「君とリリーが仲間になったのなら、僕の役目は君を助けることなんだろう。いいよ、引き受けよう」
ぱっとフォルマが笑顔になる。キュグニー教官は机の上に置いていた紙にペンを走らせ、レオンに渡した。
「一本分の金額はこれで。今日の分は試飲を兼ねているから無料だよ」
「こんなに安くていいんですか?」
今まで買っていた薬の半額であることにレオンは驚惑した。
「材料費を全部あわせればそれくらいだよ。薬屋を介すると儲けを考えるからどうしても高くなるんだ」
「でも先生に負担をかけるのに……」
「さっきも言ったけど、たぶんそれが僕の役割だ。君のやるべきことは、無事に試練を乗り越えることだよ」
似たような言葉をどこかで聞いた気がする。誰だったか――そのとき、扉の外で羽音がした。キュグニー教官が開けると、クルスが入ってきてとまり木に着地した。
そうか、キルクルスだとレオンは思い出した。虹の森へ向かっている自分たちは、一人一人の前にそびえる壁があり、みんなの力を借りて突き崩していかなければならない。
(あれ……?)
「先生ってもしかして……」
レオンの追及をキュグニー教官はさえぎった。
「発作用の薬は使用してもかまわないが、心理的に嫌だというならそれもこちらで用意しようか」
「あ、はい。そうしてもらえると助かります」
「では、明日の放課後までに三日分の薬を作っておこう。それから先は七日分ずつ渡すから、僕がいなくてもシータかリリーに出してもらってくれ」
「わかりました。ありがとうございます、先生。これからよろしくお願いします」
丁寧に一礼し、フォルマとルテウスを連れて退出しかけたレオンは、キュグニー教官に呼びとめられた。
「君の体にたまったものを取り除く方法も調べておく。必ず治るから大丈夫だよ」
「……はい」
レオンは顔をほころばせ、部屋を出た。
「よかったね、レオン。キュグニー先生が作ってくれるなら安心だわ」
「うん、フォルマが頼んでくれたおかげだよ」
最初に話を聞いたときは衝撃のあまり絶望すらしかけたが、これ以上はないほど頼もしい人の力を借りられることになったのは本当に嬉しい。
そしてレオンは隣でずっと黙り込んでいるルテウスを見やった。双子そろって厚かましいと腹を立てているのかと思ったが、ルテウスはどこか遠くを眺める目つきをしていた。
「俺も昔、キュグニー先生に言われたんだ。『もう大丈夫だよ』って」
爆発事件の際にキュグニー教官に救われたルテウスは、過去に交わした会話を記憶から呼び起こしていたらしく、レオンに向けて微笑した。
「キュグニー先生が大丈夫と言ったら大丈夫なんだ。ヘルツクロブフェン病も体内に積もった不純物のかたまりも、絶対に改善する」
「……うん」
励ましてくれる幼馴染に感激しかけたレオンは、続くルテウスの言葉にがっくりした。
「でもお前ら、キュグニー先生にあんなに強引に頼み込むなんて、図々しいにも程があるぞ」
「だいたいお前らは……」と、くどくど説教を始めるルテウスに、レオンとフォルマは視線をあわせて肩をすくめた。
そしてレオンは先ほどのキュグニー教官の言葉を反芻した。
もしかすると教官もまた、仲間とともに虹の森を目指したことがあったのかもしれないと――。