(2)
『炎の神が奮い立つ月』に入ったとたん、一気に暑さが増した。毎年この時期になると髪を切ろうかどうしようかと悩んでしまう。
朝起きたときからすでに首周りに汗をかきながら一階に降りたリリーは、朝食の用意をしている母と台所のとまり木にいたクルスに「おはよう」と声をかけた。
「おはよう、リリー。早いわね」
「うん、暑いからか目が覚めちゃって」
水差しからコップへ水をそそぎながら、リリーは母の後ろ姿を眺めた。編んで一つに束ねた髪をとめているのは、翼の形をした髪留めだ。
「それ、お父さんに買ってもらったものだよね?」
「そうよ。お店の人が言ったとおり、しっかりしてるから長持ちしてるわ」
初めて一緒に過ごした降臨祭で父に買ってもらったという髪留めに、母はそっと触れながら微笑んだ。もう二十年以上前のものだというのに、母が大切にしているからか、髪留めは壊れるどころかまだ優しくきらめいている。
母だけではない。父も母に買ってもらった本を研究部屋の本棚に置いている。書物は系統立てて並べている父が、母に買ってもらった数冊だけはひとまとめにして、目につくところに収めているのだ。
「お父さんとお母さんって喧嘩したことないの?」
自分の前では両親はいつも仲がよくて、言い争っているところは一度も見たことがない。母がどんな失敗をしても、父は苦笑しながら助けているのだ。
「そうねえ……気まずくなったことはあるけど、派手な喧嘩はないわね」
「え? どんなことで?」
尋ねるリリーに、母はふふっと笑った。
「私がゲミノールムの二回生だったときだから、本当に昔のことよ。それに、その日のうちに仲直りしたし」
「そんな前のことを今でも覚えてるの?」
「神法学科の野外研修があったから。特別な日のことはけっこう記憶に残るものなのよね。私はお父さんの護衛として参加したんだけど、朝からお父さんの機嫌が悪くて、ほとんど口をきいてくれなくてね」
「想像がつかない……」
自分の知る父はいつも落ち着いていて、感情的に怒ったことなどないのに。
「原因は何だったの?」
そのとき、父が部屋に入ってきた。
「おはよう。リリー、もう起きてたのか」
今朝は出勤が早いらしく、父はもう着替えをすませている。先に父の分だけ食卓に並べる母に近づいた父は、席に着く前に母の髪留めを見て青い瞳を細めた。口元がゆるく上向きに弧を描いている。
「クルスの分はすぐに用意するから、待ってて」
ファイのそばに降り立ったクルスに母が話しかける。ファイからもらう気満々だったらしいクルスは、不満そうに鳴き声を立てた。
話は途中になってしまったが、朝から父の前で喧嘩の理由を聞くのもはばかられたので、リリーも母を手伝っていつもより早めの朝食をとることにした。
時間に余裕ができたので、リリーは髪をくくるかどうかしたいと母に相談した。シータは考え込むようにしばらくリリーを見つめてから、「じゃあ、お母さんの昔の髪型にしてみる?」と提案した。
リリーを椅子に座らせ、シータはくしでリリーの髪をときはじめた。
「本当にリリーの髪はさらさらね」
滑りやすくて結びにくいリリーの髪に、髪専用の糊をつけてから、シータはリリーの髪を後頭部で一つにした。糊のおかげで崩れることなくかたまったリリーの髪に青いリボンをつける。
「はい、できたわ……リリーってお父さん似だと思ってたけど、こうすると若い頃のお母さんそっくりね」
「今日は剣を下げて登校してみる?」と笑う母に、一瞬その気になりかけたものの、やはりいつもどおり青い法衣を身に着けて行くことにする。
「そういえばお母さん、さっきの話の続きだけど」
玄関まで見送りにきた母をリリーがふり返ると、シータは少し嬉しそうに顔をほころばせた。
「あのとき、お父さんは妬いてたみたい」
思いがけない理由に目を丸くしてから、リリーは家を出た。
やはり首の後ろに風が入ると、少し涼しく感じる。明日からもこの髪型にしようかなと思いながら待ち合わせ場所に行ったリリーは、オルトとセピアに髪型をほめられた。
「だいぶ雰囲気が変わるな」
「そうだね、そういうのもすごく似合ってる」
「ありがとう。これだと昔のお母さんそっくりなんだって」
だから今日は剣をさしていこうかという話もしていたのだとリリーが言うと、オルトが困ったような顔をした。
「いや、お前が剣専攻にいたら、俺の気が休まらない」
「危なっかしくて見ていられないとか? オルトは本当に心配症なんだから」
リリーは笑ったが、オルトはますます眉間のしわを深くしただけで答えなかった。
学院の手前で偶然会ったフォルマたち三人にも好評で、特にフォルマは昔のシータの髪型であることに感激していた。これを機にフォルマも髪をのばしてみたらと皆が提案したが、短いほうが何かと楽だからとフォルマはきっぱり断った。
そして六人が学院に着いたとき、正門のそばで流れ作業のように生徒にあいさつしていた風の法担当のニトル・ロードン教官と、先日ヒドリ―教官の代わりとして着任した炎の法担当のレクシス・ホーラー教官が同時にリリーを二度見した。
「あれっ……ああ、なんだ、リリーだったのか」
ロードン教官が驚惑から安堵の容相へ変わる。
「おはようございます。そうですよ、先生」
笑顔で応じるリリーにホーラー教官もあごをさすりながら「これは驚いた」とつぶやいた。
「リリーはファイに似てるとばかり思ってたんだが。実は密かに剣の鍛錬もしているのか?」
「してないです」
苦笑するリリーに「そうか、残念だな。母親似だったら面白かったのに」とホーラー教官もにやりとする。
「面白いって、何がですか?」
今度はリリーが尋ねると、「知らないのか? お前の母親は騒動を起こす天才だったんだ」と返された。
「まず入学式の日に、あのファイに頭突きを食らわせて吹っ飛ばしたんだからな」
「えっ……受付でちょっとぶつかったんじゃないんですか?」
両親から聞いた話と微妙に違う。とまどうリリーに、ホーラー教官は手をぱたぱた振って否定した。
「シータからしたら“ちょっと”かもしれないが、ファイは気絶して治療室送りになったんだぞ。それがまさか後に恋仲になって結婚するなんて、当時は誰も予想してなかった」
セピアやオルトですら初耳だったらしく、呆気にとられた顔つきでいる。またフォルマは「頭突きだけで敵を倒すなんて、さすがシータさん」と瞳をきらきらさせ、「いや、敵じゃないから」とレオンが腹をかかえて笑い、ルテウスは衝撃のあまり言葉を失ったかのようだ。
「たぶんもうシータはみんなの記憶から消したがってると思うよ」
いいかげん勘弁してやりなよとロードン教官がなだめる。
「いやいや、あれは語り継ぐべき伝説だろう」
そしてホーラー教官は、シータが娘に隠していた数々の武勇伝と呼べなくもない出来事を時間の許すかぎり披露し、フォルマの大喜びとレオンの爆笑を引き出すとともにリリーを沈黙へと導いた。
「びっくりしたね。シータさんはすごく活発だったってお父さんたちも言ってたけど」
「本当に素敵。あれくらいでなきゃ、伝説の女性にはなれないんだよ」
「リリーの足がすごく速かったのも納得だね。もしリリーが剣専攻生だったらどうなってたのかな。オルトと代表の座を取り合ってた? それはそれで興味あるな」
セピアとフォルマ、レオンの感想に、リリーは肩をすくめるよりなかった。
「正反対な感じだからこそ逆に新鮮でよかったのかもな。うちはどっちかといえば似た者同士で、若い頃はよく衝突してたそうだから」
オルトの言葉に「そうだね、イオタさんははっきり自己主張しそうだもん」とセピアもうなずく。
「セピアの両親が緩衝材だったって聞いたな……カルタ先生、おはようございます」
中央棟に入ったところで、オルトが自分の専攻担当教官に声をかけた。
「ああ、おは……」
六人をふり返ったカルタ教官が目をみはる。あんぐりと口を開けたままリリーを凝視するカルタ教官に、そう言えば母が膝蹴りで彼を治療室へ――とホーラー教官の話をリリーが思い出したとき、カルタ教官がふらふら歩み寄ってきた。
いきなりがばっと抱きしめられ、リリーは驚きと相手の腕の強さにかたまった。同じく唖然としていた仲間内の中で一番に正気に戻ったオルトが「ちょっ……カルタ先生!」と教官の服をつかんで引っ張る。そこへ急ぎ足というより、もはや駆け足となった靴音が響き、カルタ教官の頭がスパーンッとはたかれた。
「お前は生徒に何をやってるんだ!」
乱暴に割って入って引きはがし、リリーを背中にかばったピュール・ドムス教官が、カルタ教官をにらみつける。よほど痛かったのか、前かがみになって頭のてっぺんを押さえていたカルタ教官が涙目で顔を上げた。
「いや、あんまりシータさんに似ていたから、つい……」
「嫁も子供もいる奴が血迷うな、馬鹿者!」
立場は同じはずなのに、ドムス教官に叱られているカルタ教官は教師と生徒に見える。腕組をしたドムス教官にすごまれて小さくなっているカルタ教官に、ようやく驚惑から立ち直ったリリーは吹き出した。
「びっくりさせて悪かった」と照れ笑いながら、カルタ教官はリリーに頭を下げた。
「シータさんは俺の初恋の人なんだ。出会ったときにはもう、君のお父さんがシータさんをがっちり捕まえてて、俺が入る隙間はなかったんだが」
「しょっぱなから膝蹴りでのされたのに、好きになったんですか?」
いぶかしげなオルトに、「なんで知ってるんだ」とカルタ教官がのけぞる。
危機は去ったと判断したのか、けわしかったドムス教官の顔つきがやわらぐ。中庭に視線を向けるその横顔は、やはりソールとよく似ていた。
「お父さんとお母さん、昔からそんなに仲がよかったんですか?」
「そりゃあもう、人前で膝枕はするわ、腕組んで歩くわ、接吻するわ、ゲミノールム在学中に指輪まで中指に……」
くうっと悔しそうにうなり、カルタ教官がこぶしをにぎる。
「ファイおじさんって、そんなことしてたのか」
なんか想像できないなとオルトがつぶやく。
「意外だね。キュグニー先生って恋愛には淡泊な印象があったけど……今もそんな感じなの?」
レオンの問いかけにリリーはうなずいた。
「さすがに膝枕は見たことないけど、軽い接吻なら出勤前とか寝る前とかにしてるよ」
「指輪を中指にって、ゲミノールム時代にもう婚約してたってこと?」
「意識はしてたそうだけど、『砦の法』をかけた指輪だったから、半分は護身用で、半分は虫よけだったって聞いた」
続けてフォルマの質問に答えたリリーに、カルタ教官が胸を押さえてぐらりとよろめく。その隣でなぜかドムス教官までが空咳をした。
「まあ、そういうわけで」と、カルタ教官がリリーに向けて両手を広げた。
「あの頃は抱きしめるなんてできなかったから、たまにはこうして……」
「却下だ」
「絶対にだめです!」
あらためて抱擁しようとしたカルタ教官を、ドムス教官とオルトがすかさずとめる。
「まったく、そんなんだから、ウォルナット先生が心配していつまでたっても引退できないんだ」
結局カルタ教官は、そのままドムス教官に首根っこをつかまれて連れ去られていった。自分の担当教官が無様に引きずられていくのを、オルトがあきれ顔で見送る。
「キュグニー先生が警戒した虫って、絶対カルタ先生だよね」
レオンがけらけら笑う。もしかしたら朝の話もカルタ教官が絡んでいるのかもしれないと、リリーは思った。
昼休み、風の法専攻生でかたまって歩いていたリリーは、やたらとうなじに触ろうとするキルクルスを押し返していたところで、教官室から出てきたピュール・ドムス教官を見つけた。
「ドムス先生」
キルクルスを振り切って駆け寄ると、ドムス教官はけげんそうに片方の眉をはね上げた。
「あの、朝はありがとうございました」
「ああ」
真顔で答えてからじっと見つめてくるドムス教官に、リリーは緊張した。
「先生?」
「……いや……やはりよく似ていると思ってな」
トルノスが思わず抱きついたのも無理はないなとひとりごちるドムス教官に、リリーは首をかしげた。
「もしかして、先生もぎゅってしたかっ……」
「そんなわけあるか! あいつと一緒にするなっ」
大声でさえぎってから、ドムス教官ははっとしたさまで口を押さえた。その頬がうっすら色づいている。
「そうやってとぼけたことを言うあたり、母親にそっくりだな」
はあ、とため息をつきながらこげ茶色の髪をかくドムス教官に、リリーは笑みをこぼした。
「先生も、ソールと似てます」
顔だけでなく表情とかしぐさとか、とリリーが答えると、ドムス教官は何か思案するかのようにあごに手を添えた。それからリリーを見やる。
「リリーはソールのことをどう思っているんだ?」
「え……」
リリーは目をしばたたき、真っ赤になった。
「あ、あの、その……す、すごいと思います。みんなに気づかいができるし、強いし、料理はおいしいし、笑ったときの目が優しくて、一緒にいると何だか安心するし、格好い……」
思いつくかぎりのことを早口であげていき、逆にほめすぎて不自然だと気づいてあせる。そのままうつむいてもじもじするリリーに、ややあってドムス教官がふっと息を漏らした。
「そうか。リリーはソールが好――」
「やっ……だめです!」
相手が教官なのも忘れて口をふさごうとしたリリーの手を楽にかわし、ドムス教官がにやりとする。背伸びをしても届かないので、教官の服をむんずとつかんで「ソールには絶対に内緒ですよ!」と訴えるリリーに、ドムス教官はついに笑い声を上げた。
その目がつと、リリーの後方をとらえた。
「用事か? それとも心配で見に来ただけか?」
ドムス教官の問いかけにリリーがふり向くと、ソールが近づいてくるところだった。
「泣く子も黙る槍専攻教官が女生徒を叱り飛ばした後、急に親密になったって聞いて」
言われて周囲に目を配ると、確かに生徒たちが遠巻きにこちらを見ていた。槍専攻生は信じられないとばかりに、そろって困惑顔で立ちつくしている。風の法専攻の同期生だけでなくオルトやセピアの姿もあったが、さすがのオルトもドムス教官にはうかつに近づけないらしく、不安そうにしている。
いったい何の話をしていたのかと問いたげなソールに、「何でもないから」とリリーはごまかした。ドムス教官がからかいのまなざしを投げてきたので、口をとがらせて牽制のにらみを飛ばす。笑いをぶり返したドムス教官に、ソールが目を丸くした。
「あっ、そういえば今日セピアたちが『食卓の布』を作ろうって言ってたの。次の冒険の話し合いもしたいから放課後に集合しないかって」
リリーは無理やり話題を変えた。放課後の急な誘いには、基本的にソールは応じられない。ソールの視線が父へ向くと、ドムス教官がうなずいた。
「大丈夫だ。今日は早く帰る予定だから、夕食は俺が作っておく。気にせず行ってこい」
ソールは一瞬申し訳なさそうな表情を浮かべたが、素直に承知した。
「ほら、ソール、行こっ」とリリーがソールの背中を両手でぐいぐい押す。早くこの場を逃げ出したいというのが丸わかりな行動に、ドムス教官が「おう、行け行け」と背中を向けて手をひらひらさせる。その肩が震えているのを見て、「先生、約束ですからね」とリリーが念を押すと、こらえきれなくなったらしいドムス教官が盛大に吹き出した。
神法学院からの送迎馬車を降りたファイは、ざっと周囲を見回してから門を押した。特に日が暮れた後の確認は、クルスが来てから日課のようになっている。
「ただいま」
玄関に入って扉を閉めたファイに、「おかえりなさい」と声がかかる。かえりみたファイは、出迎えた濃紺色の髪の少女に目を見開いた。
「シー……いや、リリーか」
びっくりした、と小さく息をつくファイに、奥からクルスを肩に乗せて現れたシータが作戦成功と言って、リリーと手をあわせて笑った。
「せっかくだから髪を染めてみたの。どう、そっくりでしょ?」
ファイから青い法衣を受け取りながら、シータが得意げに言う。
「こんなに似てるとは思わなかったよ」
リリーの肩をぽんとたたいて苦笑してから、ファイは手を洗って部屋に入った。
「まさか今日は、その髪で行ったのかい?」
すでに皿が並べられている食卓に着いたファイが、同じく着席したリリーを見る。
「うん。髪を染めたのは帰ってきてからだけど」
若い頃のお母さんに似てるって、先生たちが懐かしそうにしてたと、リリーは話した。
「でも、カルタ先生にいきなり抱きつかれたときはどうしようかと思った」
シータの用意した食前酒をぶっと吹き、ファイは眉をひそめた。
「何だって?」
「ドムス先生がすぐに助けてくれたから大丈夫だよ。カルタ先生、お母さんが初恋の人だったって教えてくれたの」
あら、とシータが少し困ったように微笑する。ファイの眉間のしわが深くなったのを見て、リリーはもう少し追及したくなった。
「お母さんが学院生時代にしてた指輪って、虫よけの意味もあったんでしょう? 警戒対象ってカルタ先生だけだったの?」
「いいや」
さらりと答えて食前酒を飲み直すファイに、シータが目をみはった。
「え? 他にもいたの?」
「僕が知る限りでは、少なくとも一人ではなかったよ」
全然気づかなかったとこぼすシータに、ファイが複雑な顔つきになる。
「それでね、お父さんとお母さんが人前で膝枕してたとか、接吻してたとか」
ガシャンガシャンと食器を食卓に落としたのはシータだったが、赤面したのはシータだけではなく、額を押さえてうつむくファイの耳も赤くなっていた。
「……それを全部話したのも彼か」
「うん」
「子供にばらすなんて……明日しばき倒してこようかしら」
「そうしてくれ」
ぶっそうな会話を交わす両親に、リリーは恐ろしいやらおかしいやらで、食事中のクルスと視線をあわせた。
これでホーラー教官から血気盛んだった母の逸話まで拝聴したと知れば、『伝説』がまた一つ追加されることになるかもしれないと。
食後、研究部屋に向かったファイの後を追ったリリーは、本棚から数冊を引き抜いている父を眺めながら言った。
「私、てっきりお母さんのほうが積極的だったのかと思ってた」
誰が見ても行動派なのは母で、父は冷静で慎重という印象だ。でもカルタ教官の話だと、むしろ父のほうが母を離さなかったようだ。
「お母さんは恋愛事にはうとかったから」
リリーを横目にとらえながら、ファイは苦笑した。
こちらが意思表示をしなければ、いつまでたっても気づかないような人間だったのだ。そしてこれまでで一番大変だったのは、シータを捕まえ続けておくことだったと、ファイは当時を思い出すかのように青い瞳をすがめた。
前へ前へと進むシータの近くには、いつもそれを支える誰かがいた。見ているだけでは取られてしまう。自分の存在をシータにも周りにも示さなければ、横からさらわれてしまう。だから早い段階でつなぎとめることにしたと、ファイは少し恥ずかしそうにしながら打ち明けた。
「お母さんは、お父さん一筋だったのに?」
父が初恋の相手で、進学先が分かれてからもずっと父だけを想っていたと以前母から聞いていたので、リリーが首をかしげると、それでもだよとファイは笑った。
人にはいくつもの道がある。どれを選ぶかは本人しだいだが、相手にも選択肢がある以上、確実なものにするためには思い切って動く必要があるのだと。
「いつかリリーにそういう人ができたら、わかるよ」
(そう……なのかな)
この人とずっと肩を並べていきたいと思える人が、自分にもできるのだろうか。
セピアやオルトのように仲良しというだけではない人が――。
ふと脳裏に浮かんだ人物に鼓動がはねる。楽しそうに手をつないで歩く姿を想像し、リリーは顔を赤らめた。
「……リリー、もしかしてもう……」
「あ、私、染料を落としてくるね」
じっと自分の様子を観察していた父が最後まで口にする前に、リリーは部屋を飛び出した。