癒しと勝利を求めて
ある冬の日。その日一日の仕事を終えた翠は、職場から足取り軽く自宅へと向かった。
(暑い季節に食べるアイスは美味しくて当然だけど、寒い季節に暖かい部屋で食べる冷たいアイスは、それとはまた違った至福の喜びだよね~。さあってと。今日も一日頑張った、私へのご褒美~。大人の時間のお・と・も、さぁ~ん)
少々変なテンションのまま、翠は自宅最寄りのコンビニに入る。
(色々あるけど、今日はやっぱりあれかな~? 口触りが柔らかくて、口に入れた瞬間、バニラとチョコレートが混然一体となって溶ける、あのチョコアイスバー。口に入れた時にパリッでもなく、もにゅっでもなく、あのはむっとしか言いようのない歯ごたえがなんとも言えない……)
何を買うかを吟味しながら彼女は店内を進み、アイスが入っている冷凍ボックスを上から覗き込んだ。しかし予想外の事態に、思わず驚愕の声を上げる。
「はぁあっ!?」
次の瞬間、予想以上に大きな声を出してしまった事に気づいた翠は、周囲の目を気にして慌てて口を閉ざした。そしてまだ幾分動揺しながら、冷凍ボックスの中を呆然と見下ろす。
(え? どうしてあれが、一個も置いてないの? 売り切れ? 嘘でしょ? いつもは必ず何個かは置いてあるのに! まさかこのコンビニ、取り扱い自体を止めたんじゃ!? いえ、値札がちゃんとボックスの縁に付いているって事は、売ってはいるのよ。あ、そうだ! 個包装がなくても、箱買いすればいいじゃない!)
壁一面に設置されている冷凍ケースに、同じ商品の箱入り商品が並べられているのを思い出した翠は、急いで冷凍ボックスを回り込んで向こう側のケースに向かった。しかし翠は、更なる予想外の事態に遭遇する。
「なんで!?」
(どうして六本入り箱まで、在庫が一つもないのよ!? 生産や流通が滞っているとか!? それともこの近所の住人が、買い占めとかしてるわけ!?)
普通ではどう考えてもあり得ない事態に、翠は思わず目的の物が入っている筈の扉の取っ手を握りながら、怨嗟の呻きを漏らす。
「……そうだったら許せない。どうしてやろうかしら」
「あの……、お客様。どうかされましたか?」
「あ、いえ、なんでもありません。ええと……、あの、これをいただきます」
傍から見ると不審人物にしか見えない翠に対し、店員の一人が恐る恐るといった感じで声をかけてきた。それで瞬時に我に返った翠は、慌てて向かい側にある冷凍ボックスに手を突っ込む。そして一つ掴んだアイスを買って、逃げるように帰宅したのだった。
「……それで?」
翌朝、更衣室で顔を合わせた同僚の彩花に、翠は思わず前日の顛末を愚痴っぽく語った。すると彩花が呆れ気味の表情で続きを促してきた為、どんよりした空気を醸し出しながら結論を述べる。
「そこで咄嗟に手にした、モナカアイスを買って帰って食べた」
「美味しかった?」
「まあ、それなりに。サクッとしたモナカとパキッとするチョコレートと、ムニュッとするバニラアイスの食感のバランスはなかなかだし、隅々まで食べつくせる満足感も得られて、それなりに充実した時間を過ごしたわ」
「それなら良かったわね」
「でも……、あの時、私が求めていたものとは違う……」
ブツブツとまだ不満めいた呟きを漏らしている翠を、彩花は溜め息を吐いてから宥めた。
「はいはい、分かりました。それじゃあ今日も一日、帰りのご褒美を楽しみに頑張ろうね」
「うん。今日は絶対、ゲットして帰る。どこのどいつかは知らないけど、昨日あれだけ箱買いして行ったなら、連日買う筈がないもの」
その意見に、彩花も(確かにそうよね)と納得し、二人は勤務中はアイスの事などすっかり忘れて業務に集中していた。
「おはよう……、って、何よ、その覇気の無い顔。まさか、昨日も例のチョコアイスバーを変えなかったとか言わないよね?」
はっきりと不機嫌だと分かる気配を漂わせている翠と更衣室で顔を合わせた瞬間、彩花は慌てて問い質した。しかしそれに、予想外の返事がくる。
「……買えなかった」
「どうして!?」
「昨日は入荷していないのか、店員に聞いてみたの。そうしたら某アイドル歌手が、自分のFacebookにあのアイスをいかにも美味しそうに食べている写真をアップしたそうよ。それで彼のファンの子達が、入荷するといつの間にか複数人現れて、根こそぎ買っていくって……。教えて貰った、その写真がこれよ」
「うわ……、本当だ。恐るべし、SNSの影響力……」
翠が携帯電話を操作して、該当するFacebookの画像を検索する。それを見せられた彩花は、唖然としつつも納得した呟きを漏らした。しかし怒りが治まらない翠は、お世辞にも広いとは言えない更衣室内で、憤然と叫ぶ。
「全く! この若造が!! アイドルならアイドルらしく、すまし顔で一個千円レベルのアイスを優雅に食べている画像をアップしなさいよ!! 庶民のささやかな癒しを奪うな、このボケーッ!!」
その心からの叫びを聞いた彩花は、半ばうんざりしながら翠を宥めた。
「翠……。私達が彼より年上なのは確かだけどさ……、若造呼ばわりは止めようよ。私達はまだ一応二十代なのに、急に年を取った感じがして少し切ない……。それで結局、昨日はアイスは買わずに帰ったのね? ファンの子が買い漁っているなら、他のコンビニも同様でしょうし」
「……買った」
「あ、そうなの? 何を?」
「表面にナッツがコーティングされている、あれ」
その表現だけで、彩花は今現在CMが結構流れているあれかと、見当をつけた。
「ああ……、あれね。あれもなかなか美味しいよね」
「うん。ザクザクとした歯ごたえと、チョコのビターな味わいがなんとも言えないけど……。でも、それとも違う……」
項垂れてぼそぼそ呟く翠を、彩花は少々持て余し気味に宥める。
「分かった分かった。どうせそのうち、ファンの子達も飽きるって。すぐに買えるようになるわよ」
「そうよね。それに今日は夜勤だし。夜勤明けの帰り道で買えば、時間帯がずれて若い子達は買っていない筈よ。今日、いえ、明日こそは手に入れて見せるわ!」
「だから……、若い子達云々は止めて……」
今日にやる気になって、翠は顔を上げて宣言してきた。対する彩花は深い溜め息を吐きながらも、(まあ、やる気になっているから良いか)と自分を納得させて、着替えを再開したのだった。
翠が夜勤をこなし、1日休んだ更に翌日。
お互い日勤の二人が更衣室で顔を合わせた瞬間、彩花は相手の暗い表情に、思わず床にうずくまりたくなってしまった。
「おは……、ちょっと、翠。あんた、まさかとは思うけど、まだ例の物を買えていないの!?」
「…………この前は、コーンカップアイスを買った」
「そう……。取り敢えず、仕事はちゃんとしようね?」
「……大丈夫」
「とてもそうは見えないんだけど……」
この状態がいつまで続くのかと、彩花は本気で心配になった。しかし幸いな事に、その日、事態が動いた。
仕事帰りに翠は例によって例の如く、近所のコンビニに立ち寄り、最近は夢にまで出てきてしまっているアイスを探した。
(今日もこっちはないか……。なんだか永遠に、巡り合えない気がしてきたな。運気も尽きたかも……)
冷凍ボックスを覗き込み、落ち込んだ気持ちのまま、翠は壁面の冷凍ケースに目を向けた。しかしその日は、これまでとは事情が異なっていた。
(あ、あれ? あったぁあぁぁぁぁっ!!)
この数日在庫が一つもなかった所定の位置に、赤地にチョコアイスバーの絵が浮かび上がっている箱が存在していたのである。
(よし! 一週間ぶりゲット!! 神様、ありがとう!!)
翠は内心の喜びを抑え込みつつ、足早に冷凍ボックスを左から回り込み、右手を冷凍ケースの取っ手に伸ばした。そしてそれを掴んだ瞬間、誰かの手が重なる。
「え?」
「あ……、す、すみません! 失礼しました!!」
「いえ、大丈夫です」
目指すアイスだけ見ていた翠は全く気がつかなかったが、彼女とは反対側の右側からやって来た同年配の男性が、殆ど同じタイミングで取っ手に手をかけたのだった。だが手が重なったのは一瞬だけで、彼が慌てて翠の手から自分の手を離す。動揺している男性に軽く会釈してから、翠はケースのガラス戸を開けて目的の物を取り出した。
(うわぁあぁぁぁ~ん! 夢にまで見た箱、漸くゲット! しかも在庫がこれだけだから、余計に嬉しい!! 今日一日、仕事を頑張った甲斐があったぁ~!!)
ホクホクしながら籠にアイスを入れ、翠はまっすぐレジに向かった。
「これをお願いします」
「はい」
そこで会計をしていると、自分の後ろを通り過ぎていく人に気がつく。
(あれ? あの人、何も買わないの?)
先程、ケースの前で出くわした男性が、何も買わずに出て行くらしい後ろ姿を見て、翠は不思議に思った。
「ありがとうございました!」
(ひょっとして、あの人もこれを買うつもりだったとか? 多分、そうだよね?)
二人が手を伸ばした冷凍ケースの中で、他に在庫が切れていた商品など無かったのを思い返しながら、翠は反射的に店の外に出て、先程の男性を追いかけた。
「あの……、すみません」
「え? あの……、どうかしましたか?」
それほど先を歩いていなかった男性に追いついた翠は、控え目に声をかけてみた。すると立ち止まって振り返った彼が、怪訝な顔で問い返してくる。どう言ったものかと、翠は若干考えが纏まらないまま、質問を繰り出した。
「いえ、その……、先程、冷蔵ケースでアイスを買うつもりでしたよね?」
「ええ。さっきはすみません。考え事をしながら手を伸ばしたので、うっかり手を触ってしまいまして」
「それは良いんです。買おうとしたのって、私が買った物ですよね?」
「はい。なんでも最近、アイドルが贔屓にしている商品だとかで女の子たちが買いあさって品切れが続いているとか。久しぶりに見つけて嬉しくなって、買って帰ろうかと思ったので。あ、でもまたこの次買いますから、気にしないでください」
苦笑気味にそんな事を告げられた翠は、そこで激しく同意した。
「本当に腹が立ちますよね! ただ贔屓にしているアイドルが食べているから買うって、アイスにも失礼ですよ!」
「でも、それがきっかけで手に取った若い子達が、この良さに気づいてくれてリピーターになってくれたら嬉しいですよね。値段設定が類似の物より高めですから、良いアピールの機会になったんじゃないですか?」
(ああ、なるほど。そういう考え方もできるんだ……。私と同年代なのに、大人なんだなぁ……。よし、決めた!)
穏やかな口調で宥められ、翠は感心すると同時に気持ちが落ち着いた。それで思いついた事を、その場で実行する。
「あの、ちょっと待っていてください!」
「はぁ、構いませんが……」
再び怪訝な顔になった彼をよそに、翠はビニール袋からアイスの箱を取り出し、少々乱暴に開封した。次いで、中に入っている一本を取り出し、強引に彼の手に押し付ける。
「はい、どうぞ! お裾分けです!」
「え? あの……」
翠の勢いに押されてた彼は、咄嗟にアイスバーを受け取ってしまった。そして溶けないよう律儀に棒の方に持ち直している彼に、翠が満面の笑みで伝える。
「さっき『久しぶりに見つけて嬉しくなった』って言ってましたよね? 正に私もそうだったんです! ですからその喜びを、分かち合いたいんです! 味わってください!」
「いえ、でも、せっかく買ったのに、さすがに悪いのでは」
「気になるなら、今度会った時にお返ししてください。それじゃあお疲れさまでした! 溶ける前に、食べてくださいね!」
「あ、え、その、ちょっと!」
(あの人なら、きっと味わって食べてくれるよね! 良い事をした後は、本当に気持ちが良いわ!)
箱をビニール袋に入れ直した翠は、一刻も早くアイスを食べるため、当惑している彼を放置し、自宅に向かって上機嫌で駆け出して行った。
翌日。昨夜、コンビニであった一部始終を昼休憩の最中に聞かされた彩花は、頭痛を堪えながら問い返した。
「……それで?」
「紅茶と一緒に1本食べて、残りは冷凍庫に入ってる」
平然とそう述べた翠を、彩花は思わず叱りつける。
「違う! あんた本当に見ず知らずの男に、いきなりアイスを1本押し付けて逃げたわけ!?」
「変な物とか仕込んでないわよ? 目の前で箱を開けて、そのまま1本渡したんだから。それに逃げたんじゃなくて、普通に部屋に帰ったんだけど」
「私が言いたいのは、そういう事じゃない……」
会話の噛み合わなさに彩花はがっくりと肩を落とし、翠は何を気にしているのかと不思議に思いながら、平然と昼食を食べ進めたのだった。
問題のチョコアイスバーの流通と在庫は半月ほどで正常化し、翠がその争奪戦の事も忘れかけていた頃、いつものように帰宅途中でコンビニに寄った。そして会計を済ませて外に出た瞬間、店の中から追いすがって来る人物がいた。
「あ、あの! すみません!」
「はい? 私ですか? あ、あの時の……」
彼が以前、勢いでチョコアイスバーを押し付けた男性だと気づいた翠は、少々驚きながら足を止めた。すると彼は、満面の笑みで礼を述べてくる。
「はい! あの時、チョコアイスバーを一本頂いた、滝口と言います。先日は、どうもありがとうございました。大変、美味しく頂きました!」
「ご丁寧に、ありがとうございます。美味しく食べて貰って、私も嬉しいです」
(こっちはもう忘れていたのに、大人な上に律儀な人だなぁ。本当に味わって食べてくれたみたいだし、あの時、思い切って分けてあげて良かった)
翠がしみじみと考えを巡らせながら自分の行為に満足していると、彼がいつかの翠のように、手早くビニール袋の中の箱を開け、チョコアイスバーを一つ差し出してくる。
「あの、それで! 今、買いましたので、お返しにどうぞ!」
「あ……、ええと、そこまで気を遣っていただかなくても、大丈夫ですよ?」
(どうしよう……。確かにあの時、気安く受け取って貰えるように『この次買った時は分けてください』なんて言っちゃったけど、本気じゃなかったのよね。真面目な人なんだわ。口は災いの元、今後気をつけないと)
困ってしまった翠は、どう言って納得してもらおうかと思いながら、口を開いた。
「あのですね」
「実は以前から、あなたの事はこのコンビニで、時々お見かけしていました。ずっとあなたの事が気になっていて……。それでできれば、連絡先を交換してください! お願いします!!」
「……………………え?」
自分の台詞を大声で遮りつつ、チョコアイスバーを差し出したまま深々と頭を下げて懇願してきた相手に、翠は本気で固まった。悪い事に、その時二人はコンビニの出入り口を塞ぐ形で向き合っていたため、出入りする複数の客に囲まれて迷惑そうな顔をされてしまった。それで翠は慌てて彼の手を引っ張り、場所を移動する羽目になったのだった。
※※※
「今まで言ったことはなかったけど、これがお父さんとの馴れ初めなのよね」
母娘でアイスを食べていた時、ひょんなことから語られた内容を聞いた縁は、小学生には似合わない少々冷めた目を母親に向けた。
「……お母さん、チョコアイスバー1本で釣られたの? それってどうなのよ?」
「釣られたというか……、先に1本渡したのは私だけど?」
「それはそれで、お父さんがチョロ過ぎると思う」
縁の正直すぎる感想に、翠は思わず苦笑いした。
「さっきも言ったけど、前々から見覚えはあったって言ってたし、要は出会いの切っ掛けなんて、どこに転がっているか分からないものよ」
「で、お父さんったら、前々から気になってた女性に藪から棒にアイスを貰って、呆然として固まっているうちに逃げられて、奮起しちゃったわけだ。じゃあ私って、このアイスのおかげで生まれたと言っても過言ではないわけね。これから、ありがたくいただきます」
「食べるたびに拝まないでよ? 恥ずかしいから」
縁は食べていたアイスの棒を器用に両手で掴み、拝むような真似をした。それを見た翠が苦笑を深める。
「それにしても……。そうなるとこれって、私が生まれる前から売られているんだよね? 流行り廃りがあるのが常なのに、そう考えてみると凄いよね?」
手元のアイスをしげしげと眺めながら、縁が口にした。それに翠が深く頷く。
「確かにロングセラーと言えるわね。それだけ固定ファンがいるのと、味が認められているってことでしょう?」
「うん、納得。時々、無性に食べたくなるよね」
そう言って手にしたアイスにかぶりついている娘を見ながら、翠は穏やかに微笑んでいた。