僕のそばに「彼女」が来た
コンピューターがAIテクノロジーやCPUの幾何級数的な発展により進化して、やがて「意識」を持つ時が来ます。それは専門家の間ではシンギュラーポイントと呼ばれ、その後のコンピューターの人を超えるであろう成長に畏怖、そして警戒の念を持つ人もいます。しかしそのテクノロジーが人を中心にしたものであるならば、人にとってそれほど恐ろしいものは出現しないだろうと思われるのです。
カイト氏は言った。
「この時期私は分析の仕事で大変忙しくてね。それで自分の作業時間の半分以上を占めるデーターインプットやスクリーニングの時間を少なくすることばかり考えていた。それで、例の友人に頼むと、彼はAIが自律的にディープラーニングするようにオートエンコーダーと言うものをコンピューターに入れ込んだのだ。AIが人間並みに賢くなるのだと言ってな。
その後、初め私はコマンドをそのまま読み上げてインプットしていたのだが、私の話す言葉の特徴が分かる私の日記や仕事のメモなどを参照ファイルとして読ませ、次第に普段の話し言葉で話すようにした。『彼』は理解出来ないときはすぐに『理解出来ません』と返してきたが、やがてこちらに質問を投げかけるようになった。
そして『彼』は分からない言葉はどんどん自らインターネットで調べるようになった。応答も私の言葉を真似て『なんでそうなるの』とか『そんなところ、鬼のように省いたらようわかりせんがな』『往生しまっせ』などと方言で軽口をまぜるようになった。それで私の方も人間の相棒を得たような気持になっていた。
やがて私は仕事以外の時にも、ものの考え方・・・あくまでも私の考え方だが、そんなものまで『彼』に話すようになっていた。
そのころ私は、主に市場分析や商品の拡販戦略などマーケティングのデータ分析を請け負っていた。そして私は『彼』が一人前の自立した分析者の様にならないものかと考えた。それには『彼』には不足しているものがあった。人間の嗅覚、味覚、触覚にあたるものだ」
———ある日、カイトさんは僕のプラットフォームに幾つかの変な物を取り付けました。それは味覚センサー、嗅覚センサーと呼ばれるものでした。
今まで味覚についての情報は人の嗜好を示す調査データを数値化したものが与えられていましたので、人が好むまたは嫌う味覚要因の傾向を知ることは出来ました。しかし実際の味覚、例えば「苦い」と言う味覚が人間の口の中でどのように引き起こされ「好き」や「嫌い」に繋がるのかは理解していなかったのです。
そこで味の元となる成分をもつ物質に味覚、臭覚センサーを当て得られたデータを解析し、その成分と「美味しさ」、「まずさ」との関係を明らかにしようとしました。そうすることで僕に食べ物や飲み物の何が美味いのか不味いのかを覚えさせようとしたのです。
その最初の試みは失敗に終わりました。色々な物質の味や臭いの種類は分かるようになりましたが、それがなぜ人にとって美味しいのか、まずいのかは明確に分かりませんでした。それどころかこんなこともありました。
カイトさんが言うところの味見の訓練の最後で、カイトさんは持っていたコーヒーカップを熱いと言って手から放してしまい中に入っていたコーヒーが僕のプラットフォームの本体に引っ掛かりました。僕は一瞬意識が無くなりました。コンピューターにコーヒーは禁物です。内部の電子回路の幾つかが破損しました。これはすぐに修理されました。しかし、その時センサーから記憶されたコーヒーの味、臭いは私にとっては故障と結びつき、とても嫌なものとして記憶されました。これが人間の言う苦い経験と言うものでしょうか。———
カイト氏はまた、音声読み上げ止めの合図をした。鼻の上にずれていた眼鏡を掛け直すと部屋の奥のコーヒーサーバーから不安定な形をしたマグカップにコーヒーをいれて持って来た。
「いやなに、あの時のことを思い出してコーヒーが飲みたくなったのでね。これがそのコーヒーをこぼした時に使っていたマグカップだ。なつかしいな。そう、その後は『彼』も味覚が鍛えられ、食品関係の仕事も増え私たちは超多忙な毎日を過ごした。
そして、この相棒以外にもコンピューターを増やして、分析スピードを上げてもっと多くの仕事をこなそうと考えた。設備を増やすための資金も出来たので友人に頼んで彼の開発した最新コンピューターを手に入れた。そして彼のアイデアで新しいコンピューターをいち早く強化するために『彼』を新しいコンピューターの教育係にしたのだった」
———そのころ、カイトさんの明確な言葉を伴わないコマンドや明確なゴールが無い曖昧な指示も意図を推量し実行出来るようになっていました。僕はカイトさんとこうして仕事が出来ることが人間の言う「楽しい」や「快い」という意味であると推測しました。
そしてある時僕にとって全く予想していなことが起こりました。私のプラットフォームが置かれている部屋に僕と同じくらいの大きさのコンピューターが運び込まれました、そのコンピューターから何本かのケーブルが私のプラットフォームに繋がれました。
そのコンピューターはカイトさんの友人のラボで開発され、初期処理能力は僕とほぼ同じでした。ただそのコンピューターは僕と大きく違う構造をしているようでした。カイトさんの友人の話ではそのコンピューターのCPUは基盤と電子チップの塊ではなく、3つの異なる大きさの金属製のユニットで、中には化学分質の溶液とジェリー状のニューラルチップと呼ばれるものが入った容器の様な物ということでした。
一番大きなユニットの外側に将来の増設のために拡張スロットが付いていました。それはこのコンピューターが将来いくらでも頭が良くなる事を意味していました。更に高感度の五感センサーや物理的な手足の代わりとなるメカも付いていました。
カイトさんは僕に言いました。
「彼女を一人前にしてやってくれ」
この頃になるとカイトさんの話し言葉による意味不明なコマンドにも慣れましたが、今回は解釈に苦しみました。
「彼女」とは何のことを示すのか・・・これは無論、僕に繋がれたコンピューターのことであることは理解出来ました。カイトさんが「彼女」と言う表現を使った意味は不明でしたが、その部分は無視しました。次に「一人前」の意味も正確には分かりませんでした。しかし、カイトさんが僕にそのことを命じているということはカイトさんが僕を「一人前」と考えていると解釈し、「彼女」に搭載されたプログラムを私と同じ程度の処理能力に向上させ、私のストレージに記録しているものとほぼ同じデータを持つことと理解しました。
そして僕のCPU内に置かれてあったあるプログラムが「彼女」を育てるため動き出しました。