歴史にifはないという定説
光男さんが、急ぎスマホを取り出し、「Just☆HeyAn館」の入場記念で撮影した写真を見て貰う。
「鬼婆というのは、このような人相でしたか?」
「ええ、まさに。忘れるなんて、決してありません」
係員を装っていた魔女が、この時代にも現れて、同じような悪事を働いていることが判明した。
「わたくしは、千年よりも長く、時の流れを下らされ、平成という御代に、辿り着きましたの。ところは、近江の国でしたわ」
光男さんが「滋賀県だね」と囁き、オチャコが「うん」と答える。
紫式部さんは、気にすることなく事件の続きを話す。
「京の都よりも、ずっと華やかで賑やかなところ、牛に引かれることなく自ずと動く車なぞを見まして、たいそう驚きましたのよ。わたくしは、多くの文書を納めてある、珍しい館の中へ入ります。そこで茶子姫、つまり昔のあなたと出会い、楽しく話しました。文書を見て回り、枕草子の諸本を見つけます。そればかりか、清少納言さんについての論文まであります。わたくしは悔しくてならず、この時代に帰り着いてから、物語を書くことにしました。清少納言さんよりも、ずっと高名になろうと決意しましてよ」
「それが、源氏物語の生まれることになる経緯でしょうか?」
「ええ、仰る通りよ」
「とても驚きました」
光男さんは、思わず身震いする。千年もの昔に起きていた、歴史の真相を知らされたのだから、これは無理もないこと。
「ねえ茶子姫。あなた、源氏物語をお読みになって?」
「半分くらいは読んでいます。現代語に翻訳されたものですけれど」
「翻訳されたもの?」
「はい。昔の文章は、そのままで読むのは難しいから、分かる人が、あたしたちの使っている現代語に書き直してくれるのです」
「あ、そうでしたわ。平成にある書物の多くは、わたくしにしてみますと、たいそう読み辛かったもの。言の葉も、歳月を経ると、移ろいゆくものよね」
平安時代の人が、現代語の本を読めたのも大きな驚きである。それだけ高度な言語能力を紫式部さんが持っているのだと、光男さんは理解に至った。
「近江の君の出ております巻はどうかしら」
「読みました。双六好きの少女でしょ?」
「そうそう。かの姫君は、あなたのことを真似て書きましたのよ」
「えーっ!!」
大いに驚愕するオチャコ。世界的ロングセラーの恋愛小説に、たとい脇役でも、自分の分身のような少女が出ていることを誇りに思う。
「あなたに読んで貰うことができて、とても嬉しいわ。それにつけても、わたくしの名は、後世に残っていませんのね……」
陽気に話していた紫式部さんが、急に顔を曇らせる。
ここに光男さんが口を挟んでくる。
「大丈夫ですよ」
「あら、どういうことかしら?」
「きっと歴史が変わります。源氏物語の真相を知った僕たちが令和へ戻れば、歴史の断片として、しっかり刻まれているはずですから」
「そうなればよいですわ」
少しばかり明るい表情を見せる紫式部さん。
一方、オチャコは、難しい顔をして訴え掛ける。
「光男さん、訳が分からないわ」
「歴史の絡繰りだよ」
「なにそれ??」
「つまり、僕たちが歴史として認識していることは、これが絶対の真相だと唯一に定まっているのでなく、全世界の人々が、どういう形で共有するかによって、いくらでも変わり得るものなのだよ」
「ええっ、そうだったの!?」
「うん。僕は確信したよ。歴史は同時代の人同士で共有するだけでなく、こうして僕たちが体験しているように、時を越えて共有することもできる。七年前に、もしも紫式部さんが平成へ飛ばされなければ、源氏物語は生まれていなかった。歴史にもしもはあるのだよ!」
これが事実だったなら、偉大な発見に違いない。少なくとも二十一世紀の世界では、「歴史にifはない」というのが、定説のようになっているけれど、それを覆すのだから、極めて驚くべきこと。