王子の洗礼
ようやく本を読み終えたところで、カケルとサイトの二人は食堂へ向かっていた。
「シャトル、乗らないの?」
「乗らない。というか、しつこい。定期的に中庭に顔を出すなら、乗ってもいいぞ」
「歩くよ。歩けばいいんでしょ」
カケルは2階にある食堂まで、歩くことをサイトに強要した。その目的は言うまでもなく、サイトに一定量の運動をさせること。
サイトは、わざと聞こえるような溜め息をつくと、大げさに項垂れた。このやり取りも既に4年目だ。
2人が横に並ぶと、カークの時とは異なり、今度はカケルの方が頭1つ分大きい。黒のジャケットに白いパーカーといった、体にフィットする服を着こなすカケルとは対照に、サイトは落ち着いた色のシャツ着ている。袖から手が出ていないことから、本人よりもサイズが大きめだ。しかし、これはサイトのこだわりである。本人曰く、服の締め付けが集中を妨げるらしい。
原始的な階段を何層も下ると、フロア全体を占める大きな食堂が見えてきた。外の壁は一面ガラス張りで、空間全体には心地良い日差しが差し込んでいる。また、リラクゼーション目的なのか、等間隔で設置されたガラスディスプレイの中には、手入れされた木々が植えられていた。
カケルは食堂に入ると、空いている席を探した。快適で過ごしやすい食堂は、生徒たちに人気があり、ピーク時には席を待たされることもよくある。
「遅れて正解だったか。あの席にしよう――って、あれ? サイト?」
ちょうど良い席を見つけたカケルは、後ろを振り返った。しかし、居るべきはずのサイトの姿が見当たらない。慌てて辺りを見渡すと、入口付近で見知らぬ女性に声を掛けられているサイトを見つけた。
「やばい……!」
その光景を目にしたカケルは、顔から血の気が引いた。そして、確保していた席を捨て、慌ててサイトの元へと走り出した。
「そ、そこ。通して、欲しいんだけど……」
サイトはカケルの後ろを歩いていたはずだった。しかし、いつの間にこんな状況に陥ってしまったのか。目の前には見知らぬ女性、しかも、大人しく道を譲ってくれる気はなさそうだ。
あんな場所、しかも大音量で「もふもふ大集合100連発!」を放送している方が悪い……!
サイトは頭を抱えながら、数回横に振った。それもこれも、全てはサイト自身が、動物番組に気を取られてしまったことが原因なのだから。
「サイト・クロイワさん、ですよね? 実は私、ずっと貴方のことを尊敬していて……。在学中にウィズワードの製品起用実績を残されたことには、感銘を受けました!」
女性はサイトを前に、ふんわりとした長い髪を揺らしながら、興奮した様子で口元に手を当てている。控えめに言って容姿端麗。おそらくそこに、頭脳明晰という言葉もつくのだろう。
ちなみに、女性の言うウィズワードとは、カケルたちが利用しているPMCの翻訳アプリ――「HeyJohn」の開発を手掛ける、アメリカ圏を代表する大手企業のことだ。
「よろしければ、私の書いた論文にアドバイスをいただけないでしょうか? 私も言語文化学を専攻しているんです」
「あ、あの、僕……」
サイトは予期せぬ状況に困惑しているのか、片手で自身の腕を掴みながら、その目をしきりに泳がせている。傍から見るとその様子は、見知らぬ美人に声を掛けられ、照れている男子さながらだ。
そんなサイトの様子を見て、女性はあと一押しだと思ったのだろう。話しかける勢いを止めるどころか、次の一手として、笑みを浮かべながら、大胆にもサイトの腕に手を伸ばした。
「ひっ! ぼ、僕に触らないで、この――」
女性の手が触れた瞬間、サイトはその体を異常に震わせた。大きな目をさらに開き、まるでおぞましいものでも見るような視線を向けている。
「はい、ストーップ! 君はもっと後ろに下がってくれるかな? サイトも少し落ち着こうか?」
しかし、そのスキンシップは長くは続かなかった。二人の間に、すかさずカケルが割って入ったからだ。
カケルは全身を使ってサイトを後ろに押し出すと、2人に一定の距離を取らせた。
今、サイトが周りから、どのように見えているかはわからない。
1つ言えるのは、カケルにはサイトの姿が、まるで毛が逆立った猫のように見えているということ。そして、「この」と呟かれた言葉の後に何が続くかも、カケルには大体の想像がついていた。
「ごめんね。俺たちはこれから昼食なんだ」
「そうなんですね! だったら私も同席したいな……なんて、無理なお願いですよね?」
おぉっと、見かけによらず、頑固と来たか。
予想外の返答に、カケルは顔を引きつらせた。女性は一見大人しそうに見えるが、中身は相当な自信家なのだろう。
シチヨウが名門大学であるからこそ、我の強い性格を持つ者は珍しくはない。かく言うカケルたちも、世間一般から見ると、気性やプライドは強い部類に入るだろう。
「無理」と一刀両断したい気持ちは山々だが、周りから注目が集まり始めている。どのようにして穏便に断るか、カケルが言葉を選んでいると、背後から予期せぬ言葉が掛けられた。
「見せて。論文」
「待っ……サイト!」
カケルの後ろから顔を覗かせたサイトは、指で手首を叩く仕草を見せた。PMCにデータを送れという意味なのだろう。
それを見た女性は、嬉しそうに顔を輝かせると、すぐさまローカル通信を使い、論文データをサイトへと送信し始めていた。
「遅かったか……」
カケルの静止も虚しく、とんとん拍子で進んでしまった状況に、もはや成す術はない。
この時、2人に挟まれたカケルは、その表情を曇らせていた。それは、この先に起きるであろう、悲惨な結末を予期したからだった――。
「読み終わった」
それは、サイトが論文を読み始めて、およそ5分足らずのことだった。
2万程の文字数に対する読解速度もさながら。その時間の大半は、主に感想をまとめることに使われていたのは、本人のみぞ知る。
「テーマは至極一般的な音員構成。でも君は、そこに宇宙生物相対理論を加えた。その根底にあるのは、シュバルツ博士の思想?」
今もなお、視線は手元のPMCに向けたまま、サイトはぽつぽつと感想を述べ始めた。
シュバルツ博士とは、シチヨウに通う生徒であれば誰もが知る、有名な言語学者――シュバルツ・マイスターのことだろう。『地球初の言語』『アフリカ大陸の解読』といった著書をはじめとし、HeyJohnでも数々の翻訳を手掛けている。まさに世界規模で貢献している言語学の権威者だ。
この論文は女性が手掛けたものなので、シュバルツ博士に関する直接的な記載はないはずだ。しかし、限られた思考傾向の中から、サイトはそれを読み解いたというわけだ。
「論文を読んだだけで、そこまでのことが? 凄い! やっぱりサイトさんは私の想像を遥かに超えています! 私はシュバルツ博士の過去に至るまでの研究を――」
「これじゃあ、シュバルツ博士に失礼だ」
女性が興奮して語り出した内容に興味は無いのか、話を遮るようにしてサイトが話を続けた。その言葉は、場を静めるには十分すぎた。
「一言でいうと浅い。それにズレてる。論文としては致命的な欠陥だ。この4ページ目の第2節、『統計したデータに基づいて――』と記載されているけど、ざっと計算しただけでも約17万通りも想定が不足してる。残りは何? 主観でも入れた? 大体、読んでいて気付いたけど、『ティグレの進化論』は? 『遺伝子相違説』は? 読んですらいないよね? 今挙げたものは、シュバルツ博士の礎ともなっている、過去の偉人による記録だ。君はシュバルツ博士の論文を、半分も理解出来ていない。読むことと本質を理解することは、全くの別物だよ。論文は理解を補助するための資料であるのに、どうしたらこうなるのか。むしろ、僕には君の頭の中が理解できない。要するに、この論文を調整していくより、言語文化学に長けている人に任せるべきだ。早く気付けたのは幸いだったね。君は他の適正学科を探した方が――」
『サイトっ!!』
すると突如――。
サイトの名前を呼ぶ、カケルの大きな声が食堂中に轟いた。
「もう、そのくらいにしておけ」
流暢に語られていくサイトの評価。しかし、話の途中ではあったが、それはカケルの鋭い一声によって中断されてしまう。
「え? あ……」
サイトが視線を上げると、そこには顔を俯かせ、拳を強く握りしめている女性が居た。怒っているのか、泣いているかまでは見えないが、髪の隙間から覗かせた耳は、真っ赤に染まっている。
女性は二人にしか聞きとれないような小声で、「用事を思い出したので、これで失礼します」と呟くと、長い髪をひるがえし食堂から立ち去っていった。おそらく彼女は金輪際、サイトに近付くことはないだろう。
ほら、言わんこっちゃない……。
二人のやり取りを隣で見ていたカケルは、その言葉を口にこそ出さないが、やれやれと額に手を当てていた。もはや、後の祭りである。
事態が落ち着いたところで、周りからは「王子の洗礼」という言葉がちらほら聞こえてくる。好奇の視線を向ける者、震え上がる者――反応は人それぞれだが、ここがシチヨウだからこそ、優秀者に対し、一定の敬意が払われているのは唯一の救いだ。
「だって、あの人が急に触ってきたから……つい」
つい。で、見知らぬ女性を完膚なきまで論破するサイトは、自分だけではなく他人にも厳しい。これがカケルが例えていた、サイトの隠し持った牙のことである。
サイトはスキンシップを極端に嫌う。女性といった特定の何かではなく、全般的に苦手なのだ。もちろん、家族や幼馴染に対しては幾分かマシだが、そこには長い年月があるからともいえる。
ちなみに、本人曰く、動物だけは全く問題ないらしい。
「そのうち誰かに刺されるぞ? まぁ、今回はお互い様だけどな」
名声に目が眩んだ、もしくは承認欲求か。女性が何か下心があってサイトに近付いたのは、客観的に見ても明らかだった。
有名だからこそ、こうしてサイトに近づこうとする者は後を立たない。特に新入生が入学した時期は要注意だ。彼らはサイトについて何も知らないのだから。
「やっぱり自習室から出たくない。外に出ると、ろくなことが無い」
サイトが自らが望んだわけではない。しかし、わざとではないとはいえ、他人を傷つけていいことにもならない。
「とりあえず、席に行こうぜ『王子』?」
「その呼び方やめて! 理不尽だ。相手の希望通りに対応しただけなのに……」
食堂に漂う妙な空気。周りからの気まずい視線を向けられるが、既にこの2人は慣れっ子だった。
カケルはあえて周りの視線をスルーすると、窓際のテーブル席へと座った。
「ねばねば蕎麦」
「ブレないねぇ。せめて期間限定のメニューくらい、見てみない?」
席に座るや否や、サイトが毎日恒例のメニューを口にする。
ねばねば蕎麦――その名の通り、この世のあらゆるねばねば食材が、1つの皿に混ぜ込まれた一品だ。蕎麦と合わることにより、主食とおかずを一度に胃に流し込むことができる。このメニューが、一部の間では「天才の脳を作る!」と妄信され、売れ行きがぐっと上がっていることを、サイト本人は知らない。
「俺は日替わりラーメンセットにしよーっと」
カケルはPMCを使って注文を済ませると、テーブルに備え付けられたホログラムを操作し始めた。いくつかチャンネルを切り替えていると、この地球上のどこかに設置された、とあるライブ映像が映し出された。
サイトが映像に注視する。そこには、1匹のインパラが呑気に草を食べていた。ある一点を見つめながら、ひたすら顎を動かしている光景は、とてもシュールだ。
「この映像にするの?」
「ん? だってサイト、動物好きだろ?」
動物は好きけど、もっと他に選択肢はないの?
言葉に出さずとも、眉をひそめたサイトの表情がそれを物語っていた。
カケルは気が利くが、稀にこういった感じで外してくることがある。それが素か、狙っているのかは、周りから天才と呼ばれるサイトですら読めない。
「お待たせしました。ご注文の品、2点になります」
機械音声が聞こえると同時に、テーブルの中央部分の窪みが開き、そこから料理が自動で運ばれてきた。注文したのが麺類だからか、二人の予想を遥かに上回る提供速度だ。
この食堂のすぐ下には、調理場や配膳用のレーンが設置されるフロアが設けられている。学生が立ち入ることは出来ないが、大勢の事務員がそこで働いているという噂だ。
「あ。こいつ危ない」
カケルの声に釣られて、サイトが再び映像に目を向けた。先ほど寸分変わらず草を食べ続けているインパラ。よく見ると、数メートル離れた草陰に、インパラを狙う肉食動物らしき姿が映っている。
「ねぇ。チャンネル変えない?」
「え? なんで? インパラ好きじゃなかったか?」
そういう意味ではない。
胸の内でそう思いながら、サイトは手元のねばねば蕎麦を箸でかき回す。心なしか、いつもよりネバつきが強く感じる気がしなくもない。
――僕が食事を終えるまで、どうか悲劇が始まりませんように。
サイトは慌てた様子で蕎麦をすすり始めた。