ヒサトの失態
時は遡ること、数日前――。
「伝えていた通り、今日はサークルのお手伝いで遅くなるから。また帰るときに連絡するね」
「承知しました。気を付けて行ってらっしゃいませ」
「うん。行ってきます」
アリアは、運転手であるヒサトに挨拶を済ませると、お気に入りの通学用鞄を手に持ち、シチヨウの敷地内へと入っていった。
いつもと変わらないやり取り。しかし、いつもにしては随分と早い、早朝の出来事だった。
この日、アリアは所属していたテニスサークルが、大事な大会前ということもあり、後輩の手伝いをする予定になっていた。この日のように早朝から夜遅くまでの登校は、アリアがサークルを卒業してからは随分と久しいことである。
ヒサトは、アリアの姿が見えなくなるまで律義に見届けると、いつも通り日中の仕事をこなすべく車を発進させた。
「A-TEC本社に向かってくれ」
「了解です。行先を『A-TEC本社』に設定します」
車内では、自動運転機能との簡素なやり取りが行われた後、ヒサトは本日予定されている、来客の資料に目を通し始めた。
社長専属秘書であるヒサトは、アリアが大学に居る間は、普通の社員らしくA-TECで仕事をこなしている。無論、それはアキラの予定次第であり、その活動拠点はアキラの家や外出先など、臨機応変に変わることも多い。
この日は午前から午後にかけて、アキラの活動拠点はA-TEC本社だった。来客が数件、夕方には取引先への訪問が予定されている。おそらくアキラを先方に送り届けた後は、そのまま会食となるため、今日の仕事はそこまでだろうとヒサトは予測した。
いつも通り寸分の狂いも無く、アキラのスケジュールは予定通り進んで行った。
「ここで大丈夫だ。帰りはこちらで手配するので、後はアリアの方を頼む」
「かしこまりました」
ヒサトは、取引先の入口までアキラをエスコートすると、綺麗なお辞儀でその姿を見送った。
「……。社長の家に向かってくれ」
「了解です。行先を『社長宅』に設定します」
まだ早い時間帯だったため、ヒサトは再度A-TECに戻るべきか考えた。しかし、遅くなるとはいえ、アリアからの連絡が何時来るかは分からない。特に急ぎの案件も無かったため、ヒサトはアキラの自宅に戻ることにした。
アキラの家に戻ったヒサトは、あてがわれている部屋へと戻った。そして、アリアから連絡が来るまでの間、書類業務をこなすことにした。
ヒサトの業務内容は、主にアキラのスケジュール管理である。A-TEC社長であるアキラの元には、毎日数十件ものアポイントメント依頼が届く。それらの内容は、まず初めにヒサトが確認し、その後、必要に応じてアキラが目を通し、最終判断を下しているのだ。
もちろん、これだけがヒサトの業務ではない。ヒサトが不在時や、出張先など、社長秘書を勤める者は複数名存在している。その者たちの業務管理は、全てヒサトが行っているのだ。
誰も見ていない私室でも、普段と何一つ変わらない動きをしているヒサト。この姿からも、アキラが信頼するに値する人物と評価するのには納得がいく。
「……? 既に20時過ぎか」
余程集中していたのか、気付いた時には既に時刻は夜となり、あっという間に時間が過ぎていた。
ヒサトはこりきった首を回すと、前髪をかき上げた。そして、まず始めに確認したのは、アリアが所持しているGPSだった。それは万が一に備え、アリアが普段から利用する所持品に外付けで付けられている。もちろん、このGPSに関してはアリア自身も知っているものだ。
PMCに表示されたアリアの位置を示すアイコンは、今もシチヨウの敷地内に存在していた。その動きに大きな変化はなく、限られた範囲で速度を保ちながら左右に動いている。
「問題は無い、か。あと少しだけ、アリア様の連絡を待ってみるか」
さらに1時間程待ってみたが、アリアからの連絡は一向に来なかった。再びGPSを確認してみるが、先ほどと大きな変化は見当たらない。ヒサトは念のため、アリアにメッセージを送ってみることにした。
「返事が無いな」
メッセージを送ってから、15分ほど経ったところでヒサトは立ち上がった。その行先はシチヨウである。すぐに車を向かわせたヒサトは、15分も経たないうちにシチヨウへと到着した。今朝とは違い、車から降りたヒサトは、その足で迷わずシチヨウの敷地内へと踏み込んだ。ヒサトのPMCには保護者用のIDが登録されているので、校内に入ることは可能なのである。
過去にも、サークルで帰宅時間が遅くなることはあった。そのため、ヒサトとしては、この時点ではあまり気に留めていなかった。
「アリア様の位置は、ここから北西だな」
ヒサトはPMCでアリアの位置情報を確認しながら、そのアイコンが示す場所へと向かう。
「ここは……学生寮?」
ようやく目的地にたどり着いた時、ヒサトは目の前に広がる建物を見て、珍しくもその眉をひそめた。
なぜなら、ヒサトが辿り着いた場所は、テニスサークルが活動しているであろうグラウンドではなく、シチヨウ生徒たちが利用する学生寮だったからだ。
中に入ると、すぐに目に入って飛び込んできたのは、1Fの大広間で集まる生徒たちの姿だった。そこは談話室になっているのか、学業を終えた女子生徒たちが、遊びや会話などを楽しむ声が聞こえてくる。
すぐにこの施設が、女子生徒用の学生寮である事を理解したヒサトは、まずは入口で手続きを済ませることにした。
「アリア・シラヌイの保護者になります。彼女が此処に居るようなので、迎えに来ました」
「まずはIDを確認しますね……。はい、問題なく確認できました。お嬢さんはどの辺りに居るか、わかりますか?」
ヒサトの要件は、ヒューマノイドでは対応不可と判断されたのか、すぐに奥から初老の女性が姿を現した。そして、女性が同伴の元、再びGPSを頼りに、建物内からアリアの姿を探し出すことになった。
「GPSによると、この大広間の何処かにいるようなのですが……」
ヒサトが辺りを見渡してみるが、アリアらしき姿は見当たらない。しかし、GPSはこの付近を確かに示しているのだ。
この時点で、既にヒサトは嫌な予感がしていた。そして再度、GPSが示す方向を確認してみると、とある女子生徒の腰に、見慣れた白猫のキーホルダーが付いていることに気が付いた。
「すみません。その腰のキーホルダーはアリア様の物ですよね? ご説明いただけますか?」
言葉遣いは丁寧だが、ヒサトの顔に一切の笑みは無かった。
周りに居た女子生徒たちは「イケメン!?」と黄色い声ではやし立てているが、ヒサトに直接睨まれている女子生徒はそれどころではない。向けられる威圧に、ヒサトの容姿を確認している余裕はなかった。
「あっ……その、これはですね。実は――すみませんっ!」
女子生徒はすぐに状況を察したのか、気まずそうに目を泳がせるている。そして、何故か勢いよくその頭をヒサトに下げたのだ――。
女子生徒の説明はこうだった。アリア本人から、今日1日このキーホルダーを身に着けて、学校生活を過ごすように頼まれたこと。キーホルダー自体がGPSであることや、いずれ異変に気付いたヒサトがこうして訪問してくることについても、事前に聞かされていたようだ。
その証拠に、ヒサトは女子生徒からキーホルダーだけではなく、アリアの手書きのメモも渡された。そこには、簡潔に「ごめんなさい」とだけ書かれていた。
つまり、この計画はアリア自身によって仕組まれたことであり、前もって考えられていた計画であったことを、ヒサトはすぐに理解した。
それが分かった以上、これ以上、シチヨウに居ても無駄だと判断したヒサトは、巻き込まれた女子生徒を解放すると、すぐに別の行動に移した。
「最悪の状況だ。アリア様は、何故このようなことを……」
車に戻ったヒサトはすぐにPMCを起動すると、ある人物に連絡をした。
「もひもーひ。なによぉ、珍しいじゃない。アンタからの連絡だなんて――」
通信先から聞こえてきたのは、気だるげな女性の声だった。しかも酔っているのか、呂律が回っていない。
「ミラさん、緊急事態です。至急、アリア様のご本人の位置情報を調べてください」
「はぁ~? 今日は代休なんだけどぉ~」
ヒサトが連絡を取った相手は、あのミラだった。どうやらミラには、先ほどのGPSとは他に、アリアの位置を知る術があるようだ。
「アリア様が故意に居なくなりました。このままでは、社長案件になるのも時間の問題です」
「ちょっと……! そんな面倒なことに、アタシを巻き込まないでくれるっ!?」
ヒサトの口からアキラの名前が出てきた途端、ようやくミラは事態の深刻さを理解したようだ。
「それでは、よろしくお願いします。何か分かれば、すぐに折り返し連絡を」
「はぁっ!? アンタ、私よりも――」
通話相手のミラは、まだ会話の途中だったが、ヒサトは容赦なくPMCの回線を切った。そして、待っている間に自身が打てる策を考え始める。
「カケルくんはこの件に関わっているのか? ……PMCは繋がらないな」
次にヒサトが連絡を取ったのは、カケルだった。しかし、こういう時に限って相手に繋がらない。
ヒサトの考えとしては、カケルが知っていて、このような状況を発生させたことは疑わしかった。しかし、今の状況下では、むしろカケルが知っている方がヒサトにとっては有難い。
「カケルくんの自宅……いや、サイトくんの家からだ」
週末である今日は、例の集まりの日だ。そのため、カケルがサイトの家に居るとヒサトは考えた。それに、2人がいつも通りゲームをしていれば、PMCの受信に気付かない可能性も大いにある。
ヒサトはハンドルを両手で握ると、いつもの仕草には似つかわしくない、荒い手さばきで車を飛ばした。自動運転よりも、手動に切り替えた方が速度を出せるからである。
激しく揺れる助手席では、今やその役目を果たしていない、白猫のキーホルダーが転がっていた。
「おやまぁ、ヒサトさんじゃないか。どうしたんだい?」
サイトの家のインターホンを鳴らすと、出迎えたのはウメだった。急いでここに来たヒサトとは対照的に、その様子はいつも通り落ち着いている。
「夜分遅くに失礼します。こちらに、カケルくんはいらっしゃいますか?」
「今日は来ていないよ」
カケルがここに居ない。またもや予想が外れてしまったことに、ヒサトの鼓動はここに来てようやく焦りを見せ始めた。
「もしかして、聞いていないのかい?」
「何をですか?」
「あの子たち、旅行の急に予定が変わったとかで、今朝からあの場所に行ったんだよ。ほら、最近テレビでよくやってるあの場所だよ」
ウメの言葉は曖昧だったが、ヒサトはそれに関連する話を、ちょうどアキラから耳にしていた。しかし、それは最悪の展開であり、もしこれが的中してしまえば、事はヒサトの予想を遥かに超える一大事となってしまう。
ヒサトが固唾を飲む。そして、やっとの思いで、その重い一言を口にした。
「もしかして、フロントラリーのことですか?」
「そう! それそれ。この歳になると新しいものを覚えるのが大変でねぇ――」
しかし、こういう時に限って、嫌な予感は的中してしまうものだ。
ウメは、ヒサトが言いたいことを当ててくれたのが嬉しかったのか、詳しい情報について質問せずとも話し始めてくれた。
それどころではないヒサトは、そんなウメの話が耳に入ってくるわけもなく無く――。ヒサトの頭の中では、アキラから聞いていた情報とは違う点や、アリアと連絡が繋がらない可能性がぐるぐると駆け巡る。
その後は、どのようにしてウメと別れ、車まで戻ったのかも分からないくらい、ヒサトに呆然と立ち尽くしていた。すると、ちょうどといえるタイミングで、ヒサトのPMCが着信を受信した。それは、先ほどのミラからの折り返し連絡だ。
「はい……」
「アンタねぇ! 仕事押し付けるわ、一方的に通信は切るわ……って、まぁ今はいいわ。それよりも、あのお嬢さんのことなんだけど、PMCの受信反応が無いのよ」
それは、全ての仮説を肯定する情報だった。
ミラは、アリアのPMCに直接アクセスする術を持っている。それは、アリア本人も知らず、アキラやヒサトなど一部の人物にしか知らされていない。そのPMCの通信が届かないということは、やはりアリアは他星であるフロントラリーに居るということだ。
「ちょっと聞いてる? アンタ、大丈夫なの? このことって……」
「とにかくミラさん。申し訳ないですが、今から本社に来てください。私もすぐに向かいます」
「…………ったく、しょうがないわね。せめて、アタシよりも早く着きなさいよ!」
流石にミラもヒサトの状況を理解したのか、渋々ではあったが、急な要請に応じてくれるようだ。
ヒサトはミラとの通信を切ると、ゆっくりと空を見上げた。ヒサトの監視対象は、ほんの一瞬の隙に、手の届かない場所へと羽ばたいてしまったのだ。
「アリア様を見誤っていた……。完全に、俺の失態だ」
ヒサトは真っ暗な空に言葉を吐き捨てると、急いで車へと乗り込んだ。
それからヒサトは、A-TEC本社に戻ってきた。それは、報告すべき対象であるアキラが、此処に居るとわかったからだ。
通信で報告することも出来た。しかし、今回に関しては、直接報告しなければならないというヒサトの誠実さが、その足をA-TECに向かわせていた。無論、その足取りは重い。ここまでの失態は、ヒサトの人生においても経験したことのないレベルだ。
「社長、失礼します。私です」
「ヒサト……?」
社長室を訪れた人物の姿を見て、アキラはすぐ眉間に皺を寄せた。
「急ぎご報告したいことが。アリア様が行方不明に。第三者の関与ではなく、ご本人の意志で居なくなったようです」
「何?」
「そして、足取りを調べたところ……。おそらく、かなりの高確率でフロントラリーに向かったかと……」
その瞬間、アキラの顔が凍り付いた。
内容が内容だ。あのアキラですら驚くのも無理はない。しかし、それはヒサトが予想していたよりも、アキラ自身が取り乱しているようにも伺えた。
「……アリアが、1人で?」
「いえ、カケルくんや大学のご友人が一緒の可能性が高いです。サイトくんの御婆様の話によると、何らかの理由で、予定が大幅に前倒しになったようです」
一通りの報告を終えたところで、ヒサトは最後に大きく頭を下げると、自身の失態についての詫びる言葉を述べようとした。しかし――。
「申し訳ございません。今回の失態は、全て私の――」
「謝罪は、今は不要だ。それよりもすぐに出来る限りの対策を」
謝罪の言葉を述べる前に、アキラの静止が入ってしまう。もちろん、対策優先なのはアキラの言う通りなのだが、その言葉にはいつもの覇気が感じられなかった。
そのアキラの様子を見て、ヒサトは自身の不甲斐なさに、一層怒りを感じた。拳を握りしめ、怒りで震える体をなんとか抑えて、頭を回転させた。
ヒサトはアキラに一礼すると、すぐに打てる手を講じるべく、社長室を後にした。
「なんてことだ……。よりにもよって、どうして今日なんだ……」
頭を抱え机に俯くアキラの姿は、本当にらしくなかった。
そんなアキラの脳裏に浮かぶのは、アリアではなかった。先週、何一つ変わらない様子で、旅行の件について報告をしてきた、あのカケルの姿だった。




