一難去ってまた一難
それから何分経っただろう。一刻も早く目を逸らしたい、しかし、逸らした瞬間に何かが終わる。そんな錯覚も感じられた。
カケルは経験したことのない恐怖、そして緊迫感に襲われる中、その終わりは唐突に訪れた。不意に何者かが、カケルの肩を叩いたのだ。
「っ!?」
まるでグラスいっぱいに溢れた水が、溢れた瞬間だった。カケルは体を激しく揺らし、必死の形相で後ろを振り返った。
「カケル? どうかした?」
しかし、そこに立っていたのは見慣れた幼馴染の姿。アリアは様子がおかしいカケルを心配するように、顔を覗き込んできた。
「アリ……ア?」
「カケル、大丈夫? 汗びっしょりだよ。どこか痛む?」
アリアは、先ほどのエントランスでの出来事が影響していると思ったのか、どこか怪我をしていないかカケルの体を調べ始めた。
よほど酷い顔だったのか、合流したヒサトですら、カケルのことを心配そうに見つめている。
「だ、大丈夫だ。今になって怖くなったみたいでさ……。はは、カッコ悪いな」
カケルは咄嗟に、今し方体験したことについては触れないことにした。
「カケルはカッコ悪くないよ。恐怖を感じるのは普通だし、勇敢だったよ」
励ましてくれるアリアに対し、カケルは感謝の言葉を返した。それには、先ほどの緊張をほぐしてくれたことについても込めてられている。
カケルは会話の隙を見て、もう一度先ほどの場所を振り返ってみた。しかし、既にあの場所に人影はなかった。
帰りはヒサトが用意した車により、カケルも家まで送ってもらった。
道中、カケルの頭の中は、先ほどの出来事でいっぱいだった。銃撃事件も凄かったが、まるで昨日のことのように上書きされてしまっている。
「カケルくん、家に着きましたよ」
ヒサトの声に、ぼんやりと考えに耽っていたカケルは、その意識を取り戻した。
「ありがとうございます。アリア、ヒサトさんに聞きたいことがあるんだ。少し借りても良いか?」
どうしても気掛かりだったカケルは、ヒサトならば。と思い、先ほどのことを聞いてみることにした。
「うん、気にしないで。私はここで待っているから。今日はありがとうカケル、またね」
アリアはカケルの意図を汲んでくれたのか、素直に要望に応じてくれた。今のカケルにとって、このアリアの気遣いは本当に有難かった。
「私に聞きたいこととは、何でしょうか?」
車から降りたヒサトは、カケルの自宅前まで歩いたところで、用件を伺うように振り返った。
「さっきヒサトさんたちを待っていた時、ビル前で気掛かりな事があったのですが――」
カケルは、先ほどのこと鮮明に思い出しながら、目にした特徴をヒサトに伝え始めた。
「白いコートに巨体。そして、仮面ですか?」
「似ているのは、あの有名な祭り……そう、ヴェネツィアのカーニバル! あの仮面にそっくりでした」
カケルは思い出したかのように両手を叩くと、わかりやすい例えを口にした。それは、ヨーロッパ圏の歴史ある伝統のお祭り。誰もが1度は耳にしたことがあるものだ。
カケルの話を聞いて、ヒサトは「なるほど」と呟くと、何か心当たりがあるように大きく頷いた。
「憶測にはなりますが、カケルくんが目にしたのは、恐らく『グリストバース人』だと思います」
すると、ヒサトはある1つの推測を口にした。
グリストバース人。その予想も出来なかった回答に、カケルは無意識にその言葉を復唱した。
グリストバース人という言葉は、授業はもちろん、ニュースなどで何度も耳にしたことはある。しかし、その実態はUTEによっても厳しく情報制限されており、一般人にはその言葉以外の情報は無いに等しい。
「私自身も、彼らと直接やりとりしたことはありません。ですが、UTEと業務提携を結ぶ弊社の場合、間接的に彼らと関わりがあるのは確かです」
社長の専属秘書であるヒサトですら、その姿を目にしたことはないとう。ならば、なぜその考えに至ったのか。
「稀にではありますが、社長は彼らと接触する機会があります。業務目的ですので、公にはされておりませんが、関り自体は特に機密というわけでもありません」
間接的にはなるが、ヒサトはグリストバース人について、多少の知識があるようだ。
社長であるアキラとグリストバース人との関係性。ヒサトが話すように、UTEの仕事も請負うA-TECでは、何ら不思議なことではなかった。
「教えていただき、ありがとうございました。胸に支えていたモヤモヤが、スッキリした感じです」
「お役に立てて良かったです。それではアリア様を待たせておりますので、私はこれで」
カケルの質問が終わったとわかると、ヒサトはアリアが待つ車へと戻っていった。
「ヒサトさんに聞いて良かったな。それにしても、グリストバース人をお目にかかれたのは、何気に凄いことなんじゃないか?」
正直言うと、心底不気味で気持ち悪くはあった。しかし、相手の正体がわかれば、その不快感もかなり薄れつつある。
アリアたちの車を見送った所で、カケルは家に入るべくその玄関ドアに手をかざそうとした、その時――。
「ん、電話か。マシューから?」
カケルのPMCに、マシューからの着信が入った。
その内容に心当たりのないカケルは、すかさず通信を承諾する。すると、画面にマシューの可愛らしい顔が映し出された。休日にもかかわらず、その容姿はばっちり決まっている。
「良かった、繋がった! お休み中のところ、急に連絡してごめんね!」
「それは気にしなくて良いが、どうした?」
映し出された画面の中で、マシューは顔の前で両手を合わせ、しきりに謝罪するポーズを繰り返し始めた。
「実は、例の卒業旅行。フロントラリーに行く件なんだけど……」
今度はもじもじと、体を仕切りに揺らし始めるマシュー。
何かを言い辛そうにしているマシューの姿を見て、カケルは、中止にでもなったか? と予想した。
「ウチのパパ、再来週のVIP枠で招待されていたんだけど、仕事の都合で行けなくなっちゃってさ。僕たちが予定していたチケットと交換して欲しいって相談を受けちゃって……」
さらりと話すマシューに、VIP枠のチケットもあったのかと。カケルは心の中で突っ込みを入れた。
「みんなの都合が良ければ、予定を再来週に前倒ししたいんだけど。どうかな?」
「……は?」
マシューの提案に、カケルは素っ頓狂な声を出してしまう。本来年明けの予定であった旅行が、再来週になる。それはもはや前倒しという枠を、はるかに超えていた。
「いや、再来週って……はぁ!?」
「みんな僕より成績優秀だし、バイトとかしている面子もいないよね。大丈夫だって、信じているからね!」
「確かに予定は問題ないが、準備とか――」
「詳しい話は、来週学校で話すから! それじゃ!」
「マシュー? おい、マシュー! うわっ。アイツ、切りやがった……」
マシューは用件を伝え終えると、すかさず通信を切断した。完全に言い逃げである。
約6ヶ月もの前倒し。そして、他星という人生級の長距離旅が、まさか数日後に来るとは誰が予測できただろうか。
「えぇーっと。とりあえず、急いで準備をしないとな。連絡に買出し……あ。サイトの様子も見ておかないとな」
しかし、カケルは招待される身だ。我が儘を言える立場ではない。
一難去ってまた一難。来週は準備や、当日の擦り合わせで忙しくなるだろう。怒涛となりそうなスケジュールに、カケルは頭を掻きながら、家の中に入っていった。
ヒサトが運転する車は、一般宅の何倍もの広さがある豪邸に到着した。
家の中は、ホワイトカラーの大理石とダークブラウンの木材で統一された内装で包まれている。高級感を保ちつつも、落ち着きある品の良さは、アキラの好みなのだろう。
「お帰りなさいませ。アリアお嬢様」
アリアが家に入るや否や、数名のメイドがアリアを出迎えた。
夕食にはまだ早い時間のため、アリアは一度自室に戻ることを伝えると、メイドたちはお辞儀を返し、元の業務へと戻っていった。
アリアの自室は2階に位置している。そのため、玄関ホールに設置された階段を、アリアが上ろうとした時、後ろからヒサトに声をかけられた。
「アリア様、社長から伝言を預かっております」
「お父さんから?」
今日は、既に何度もアキラと会話を交わしている。その際に話せなかった内容なのかと、アリアは不思議そうに首を傾げた。
「ちょうど1ヶ月後、社長のスケジュールに空きがあります。その際、改めてミラさんの管理する生物部門の紹介をさせてほしいと。いつものような個人的な訪問ではなく、就職を前提にした見学会を行いたいと仰っていました」
その伝言を聞いて、アリアは口に手を当て、目を大きく輝かせた。
生物部門はアリアの第一志望ではない。しかし、こうしてアキラ自ら、アリアの進路に関して口を出すのは、これが初めてだ。
「それ、本当にお父さんが言っていたの?」
「はい。午後の打ち合わせの際に、社長自ら進言されておりました」
未だ信じられないという顔をしているアリアに対し、ヒサトは珍しくも、その顔に穏やかな笑みを浮かべながら、アリアを安心させるように言い聞かせた。
「ヒサト、お父さんに『わかった』と伝えておいてくれる?」
「かしこまりました。社長もお喜びになりますよ」
「そう、かな?」
すっかりご機嫌になったアリアは、ニヤけそうになる顔を必死に抑えながら、いつもよりも浮かれた様子で階段を上っていった。
パタン――。
自室の扉を閉めた所で、ようやく1人になれたアリアは、天井のついた華やかな照明を見上げた。
「もしも、経営を学びたいって話をしたら、聞いてもらえるかな?」
過去の話でも、話題に上がっているのは生物部門だけだ。ミラがアキラに深く信頼されているということは、長年近くで見てきたアリアも理解はしていた。それに、他部門と比べると、女性が管理し、活躍しやすい部署であることも大きいだろう。
「今日は、いろいろあったなぁ…」
アリアは一気に体の力抜けたように、大きなベッドにぽすりと倒れ込んだ。長い金色の三つ編みが、布団の上に広がっている。
健康診断に研究開発部門の見学、それにトラブルにも巻き込まれた。しかし今、アリアの頭の中を埋め尽くしているのは、あの時カケルが咄嗟に護ってくれた出来事だった。
「抱き締められるなんて、いつ振りだろう?」
思い出すのは、あの時のカケルの温もり。幼馴染であるアリアたちにとって、初めてのことではないが、幼い頃の話である。
アリアを落ち着かせるとはいえ、あのようにカケル自ら触れてきたことは、記憶の中を辿ってみても10年ぶりくらい思えた。
「……カケル、かっこよかったなぁ」
アリアはワンピースの裾がめくれ上がった状態で、両足を交互に上げていた。しかし、その動きがピタリと止まる。
アリアは自身が零した呟きを振り返り、数秒ほど思考が停止した。
「ううん! カケルがかっこいいのは、いつものことだよね!」
まるで自問自答するかのように、アリアは枕を抱え込むと、その首を勢いよくと横に振った。枕の隙から覗かせた頬は、少し赤くなっている。
ピロン――!
「うひゃぁっ!?」
すると、突如電子音が部屋に鳴り響いた。アリアがPMCに視線を向けると、そこには着信を受信したことが記されている。
アリアは慌てて相手を確認すると、すぐに承諾をした。
「もしもし、アリアです」
「アリア? 僕だよ、マシュー。あとフィオナも呼んでいるんだけど」
「2人とも、昨日ぶりねぇ~」
通話回線はマシュー、そしてフィオナと繋がっていた。
「実は、フロントラリーの件で急ぎ知らせたいことがあってさ――」
話題の内容は、つい数分前にカケルも耳にしたばかりの内容と同じだった。先程と同様に、マシューは旅行の予定が大幅に変更になった理由、そして、その概要を2人に伝えた。
「驚いた……。随分と急な話だね」
「本当にごめんねぇぇ! 今のところ、無理そうなメンバーはいないんだけど。アリアは行けそう? その、いろいろ準備があるでしょ?」
マシューはメンバーの中でも、特にアリアには念入りに予定を確認した。
しかし、これでは話の辻褄が合わない。なぜなら、アリアはこの旅行には不参加となっていたはずだ。
「平気。予定していたことを、全て前倒しにすればいいだけの話だから。フィオナも大丈夫だよね?」
「私は問題ないわ〜。さっそくこの後、詳細を詰めていきましょうか」
やはり、この話の流れだと、アリアも旅行に参加するようだ。だとすると、このことはマシューとフィオナしか知らない秘密になってくる。
「あのさ、アリア。本当にカケルに言わなくていいの?」
やはり、カケルはアリアの件を知らないようだ。普段の2人の仲を知っているからこそ、マシューは改めてその意志をアリアには確認した。
しかし、マシューの問いかけに対し、アリアはその顔を一気に硬らせた。
「サイトならまだしも、カケルだけは絶対に駄目。こういうのに関しては、カケルはお父さん並みに厳しいから……」
異常なまでに否定の意志を示すアリアに、マシューは慌てて発言の訂正をした。
「そっか。当日何か言われたら、僕を矢面に出してくれて構わないからね。じゃあ、フィオナと流れを決めたら僕にも教えてね」
「わかった。マシュー、今回の件を協力してくれて本当にありがとう」
マシューは最後に「頑張ってね」と2人の作戦を応援すると、その通信をオフにした。
「私だって、もう子供じゃないんだから……」
普段のアリアからは想像できないような呟きは、通信に残ったフィオナ、そして静かな部屋に響いて消えていった。




