あの日の出来事④
一方、最下層では――。
カケルが助けを呼びに行ってから、既に30分以上経過していた。
サイトは浮輪に体を預けながら、静かに状況を分析していた。
結論から言うと、状況はあまり芳しくない。
カケルが投げた浮輪のお陰で、体力の消耗は軽減させることが出来た。しかし、サイトは他に気になっていることがあった。
まずいな、おそらく10度もない。日当たりが影響しているのかも……。
それは、海水の温度。今の季節は春。アジア圏の海水であれば、10度を優に超えているのが一般的だ。しかし、この場所が人工プレートの下であることがまずかった。つまり、海面に太陽が当たっていないのだ。
サイトの脳裏に浮かぶのは、低体温症の危険性。仮に海水が10度だとした場合、人が意識不明に陥るまでの時間は、1時間程だと言われている。しかも、それは大人を基準にしたデータだ。
既に、サイトの体は震えが止まらず、手先の感覚が徐々に失われ始めていた。このペースでは、あと30分も持たないだろう。
サイトは、浮輪の向かい側にいるアリアの様子を伺った。アリアの顔は、顔色の悪さはおろか、唇も紫に変色している。
「アリア……。大丈夫?」
会話は、余計な体力を消耗してしまうリスクがあった。しかし、何もしないと、それこそ意識を飛ばしてしまいそうだ。
「サイト。私、最低だ……」
しかし、アリアの口から出てきたのは、寒い、辛いなどの類ではなかった。先ほどから泣きそうな顔をしていたのには、どうやら別の要因がありそうだ。
「私、カケルの手を必死に掴もうと……。それが、カケルの身を危険に晒すなんて、考えもしなかった」
どうやらアリアは、先ほどの行動をずっと後悔していたようだ。結果的にカケルは無事だったが、アリアは自身が起こした、軽率な行動を許せずにいた。
この期に及んで、他人への配慮。その心の純粋さに、サイトは心から感服した。
「わた……ぅくっ、……ごほッ!」
「アリア!」
言葉の途中で、アリアが激しくむせ込む。
サイトよりも、長く水中に居たアリア。その肺には今もなお、多くの海水が残っている可能性は高い。
「けほっ。うぅ……。海、おいしくないね」
「辛すぎ。体が悪くなる塩分濃度だよ」
咳を繰り返しながらも、冗談を言うアリアに、サイトは少し安堵する。
「海に落ちた時ね……。自分がどこに居るのか、どこに進めばいいのか……わからなかった」
すると、アリアがおもむろに、落ちた時のことを語り始めた。
そんなアリアの話を聞きながら、サイトは自身のことも振り返った。サイトは偶然にも、浅い位置に留まることができた。恐らくそれは、海面に当たる体の面積が、広かったからだろう。その分、体への衝撃は強く、痛かった印象が強い。
「でも、海の中でカケルの声が聞こえたの。真っ暗で、何も見えなくて怖かったけど、頑張ろうって……。もう一度、カケルに会いたかったから」
どうやら、アリアが無事に顔を出せたのは、カケルの声が届いたからだ。
寒さで表情筋が強張っていようとも、ぎこちない笑顔を浮かべるアリアに、サイトは胸が暖かくなった。
カケルがこの場に居たら、顔を真っ赤にしているに違いない。それに、偏屈な言葉でも叫んでいただろう。そんな光景を思い浮かべながら、サイトは笑みを零した。
「こんなことになって、ごめんね……。私が、無理なお願いをしたから」
「アリア、それは違う……」
それを言うならば、全て僕の責任だ。この場所への提案や誘導は、僕が行ったことなのに。
サイトはアリアの言葉を否定しようとした。しかし、アリアはまだ言いたいことがあるのか、サイトの発言を待つ前に、その言葉を紡いだ。
「今日は、本当に楽しかったぁ……。ありがとう、サイト」
サイトの目が大きく見開いた。
違う、お礼を言いたいのは、むしろ僕の方だ。
この一言に、サイトがどれだけ救われたか。きっと、アリア本人が知ることはないだろう。
「僕は――アリア?」
静かになったアリア対し、サイトは考え抜いた言葉を伝えようとした。しかし、ふと、異変に気付いた。
先ほどまで開いていた瞳は閉じ、アリアの手が少しずつ浮輪から離れ始めていたのだ。
「まさか……!」
ここに来て、ようやくサイトは気付いた。先ほどからアリアが妙に饒舌だったのは、既に低体温症による、意識障害が始まっていたからだ。
サイトは、慌ててアリアの手を掴もうと、腕を伸ばした。しかし、弱り切ったその体は、腕は動かすだけでもやっとだ。
「ひっ!?」
やっとの思いで、サイトがアリアの手に触れる。しかし、あまりの冷たさに、サイトは思わず悲鳴を上げてしまった。サイト自身も体温は下がってきている。それでもなお、サイトが冷たいと感じるほど、アリアの体温は低かったのだ。
「だめだよ……。ねぇ、お願い、目を開けて……起きてよ、アリアっ!」
しかし、サイトの願いも届かず、アリアの手は浮輪から離れ、その体はゆっくりと海に沈み始めてしまう。
サイトは、アリアが沈むのを止めようと、必死に抵抗をした。しかし、手先や四肢の感覚すら残っていないサイトに、それが叶うはずもなかった。
どれだけサイトが支えても、まるで重しが付いたかのように、アリアのその体は海の中に引きずり込まれてしまう。そしてついに、アリアの口、そして鼻までもが海水へと浸かってしまった。
「いやだ……。いやだ、いやだよっ……!」
しかし、その想いとは裏腹に、サイトには、もはやどうすることも出来なかった。
「お願い……誰か、アリアを助けてっ……カケルっ……!」
次第に、サイトも意識が朦朧とし始める。最後にサイトの頭に思い浮かんだのは、助けを呼びに行った、カケルの後ろ姿だった。
「サイト! アリア! 助けを呼んできたっ!!」
カケルが、再び最下層に戻ってくるまでに、費やした時間は約1時間。既に、サイトとアリアが海に落ちてから、1時間半は経過していた。
カケルと共に駆け付けたのは、作業員の男、そして1体のヒューマノイド。もう1体は、救助の誘導役として地上――地下通路への入口前に置いて来た。
「……サイト!? おい、返事をしろっ! サイトっ!!」
カケルは、水面でぐったりと浮輪に体を預ける、サイトの姿を目にした。その頭は俯き気味でぐったりとしており、返事どころか、反応もない。もはや、一刻の猶予もなかった。
「思っていたよりも、まずい状況だ。今から私が中に入って、あの子の体を支えよう。カケルくんは、ここで救助の誘導を――」
「待って! もう1人いるんだ! アリアの姿が見当たらない!!」
男はカケルの発言を聞いて、その顔を青く染めた。それは、今目にしているよりも悪い状況、最悪すらも予測される。
「おじさんは、サイトをお願い! 俺はアリアを助け出す!」
「待つんだ! 危険すぎる。救援が来るまで――カケルくん!?」
バシャン! 男が喋り終える前に、カケルは海に飛び込んでいた。
通報は既に終えている。外部との連携は、ヒューマノイドが1体居れば十分だと、カケルは判断した。今は、姿の見えないアリアが最優先だ。
「サイト、もう大丈夫だから。よく頑張ったな」
海へ飛び込んだカケルは、意識のないサイトの頬に触れる。
まるで氷菓子にでも触れたような、ひんやりとしたサイトの頬。しかし、肌の弾力は感じられる。それに、浅くはあるが、胸がゆっくりと上下に動き、呼吸が続けられていた。
サイトが無事だと確認すると、カケルは大きく口を開け、ありったけの酸素を肺に吸い込んだ。
「っ!」
そして、カケルは海の中に潜った。
幸いにも、海水の透明度は高く、視界は悪くない。
辺りを見渡してみるが、アリアの姿は見つからない。カケルはさらに深く潜るため、手足を駆使して、体全体を逆さまに傾ける。
深くなるにつれて、海の青みは濃さを増し、徐々に暗くなっていく。しかし、カケルは迷わず海底へと進む。それは、ある1つの考えがあったからだ。
(……見つけた!)
すると、暗がりの中、ふよふよと漂う金色の糸が目に入る――アリアの髪だ。
アリアは水中のある一点で、沈むことなく佇んでいた。その肌は地上で見るときよりも白く、目と口は固く閉ざされている。まるで蝋人形のような、異質な美しさを漂わせていた。
よく見ると、アリアの体は何かに引っかかっていた。それは、透明の見渡す限りの大きな板。サイトが話していた、海洋生物を防止するために設けられたアクリル板だ。
カケルはすぐさま、アリアの両脇に手を差し込むと、そのまま全身を抱え込む。そして、今度は頭上に顔を向けると、力の限り、アクリル板を強く蹴り上げた。
「…………ぶはッ!!」
カケルが海面に顔を出す。その腕にはしっかりと、アリアが抱きかかえられていた。
「カケルくん、無事だったか!」
男もあの後すぐに、海に飛び込んだようだ。彼はサイトが沈まないよう、自身の体と浮輪で挟み込み、その冷えた体をしっかりと支えていた。
『救助の者です! 大丈夫ですか!? すぐに引き上げ用のロープを下ろします!』
そして、ついに救助部隊も到着したようだ。カケルたちの頭上では、何人もの足音が、盛大に足場を揺らしていた。
「良かった、助けが到着したぞ!……カケルくん?」
無事に救出作業が始まったことに、男はホッと胸をなでおろした。そして、今し方もう1人を救出したカケルへと視線を向ける。
しかし、カケルは顔を上げるどころか、返事すら返さない。
「アリア……。アリア?」
カケルはアリアの頬を、何度か強めに叩いた。しかし、アリアは固く閉ざされた目が開くことは無い。
カケルは無表情で、ただじっとアリアの顔を見つめていた。そして――。
「どうしよう……。アリアが、息していない……」
カケルは泣きそうな顔を男に向けると、消え入りそうな声でその事実を告げた。
「とまぁ、そんなわけで――」
「ええ!? まさか、ここで話が終わるの!? サイトくんとアリアちゃんの安否は!? その後、どうなったのさ!?」
気になるタイミングで、あえて話を切り上げたカケルに対し、マシューがすかさず抗議の声を上げた。
その反応も想定内なのか、カケルは楽しそうにニヤニヤと、意地の悪い笑みを浮かべている。
「続きも何も、『今』をよーく考えてみろ」
今?
そのカケルの言葉に、マシューは目を丸くして、瞬きを何度も繰り返している。
「今、いま、イマ…………あ、そっかぁ!」
マシューはようやく理解したのか、顔の前で両手をポンと叩いた。気が付かぬ間に、過去と現実の見境が付かなくなっていたのだ。冷静になって考えれば、マシューの周りには、サイト。そしてアリアが、友人として健在している。
「ちなみに、俺のこの白い髪だが――」
すると、おもむろにカケルは前髪をかき上げた。額、そして、白い部分だけが剥き出しになる。
「実は染めているんじゃなくて、白髪なの」
カケルの唐突なカミングアウトに、場がシーンと静まり返った。
「……うわぁ! シャルロットー!!」
先ほどから言葉を失っていたシャルロット。度重なる衝撃の内容に、今度はふらりと失神しかけていた。マシューが叫び声を上げながら、慌ててシャルロットの肩を支える。カークだけはその事実も知ってたのか、落ち着いた様子で、くるくるとボールを回し続けていた。
「てっきりブリーチしているのかと。カケルくんまめだなぁ、大変そうだなーって思ってた」
「いやいや。黒が全く見えない頻度とか、流石におかしいだろ」
カケルのこの髪色は、大学に入学してからずっと保たれている。現に、カケルとマシューのファーストコンタクトも、この髪についてだった。
――その白染めとっても綺麗だね! お店? それとも自分で? 今度、僕にも教えてよ!
入学当初から、マシューは人懐っこい性格だったと、カケルは思い返していた。
「この髪みたいにトラウマってのは、時間差で現れることもあるらしい。『かなづち』もそう。気が付いた時には、泳げなくなってたってわけ」
カケルは自身の白い髪を指で摘みながら、「見事に抜けたよな」など、あっけらかんと呟いている。
すると、突然マシューが勢いよく顔を上げた。そして、カケルに飛びつき、その両手を強く握り締める。
「もしかして、お風呂にも入れないの!? 温泉は!? そうだとしたら、日本人なのに大変だ!!」
マシューのすぐ後ろでは、反応を上手く返せず、狼狽えるシャルロットの姿があった。
しかし、マシューは遠慮するどころか、カケルを質問攻めだ。
「お前のそういうところ。俺、好きだわー」
その姿を見て、カケルは笑みを零した。気まずい雰囲気になるより、こうして気軽に話掛けられる方がカケルも気が楽だ。
気になることがたくさんあるのか、興奮で目を輝かせるマシュー。現にそれは、この場の空気を和ませていた。こういった表裏のない性格は、マシューが学年、男女問わず人気がある秘訣だ。
あとは勉学を真面目に取り組んでくれれば、言うことはないんだが――。
カケルが一瞬、残念な視線を向けたことに、マシュー本人は気付いていない。
「風呂も温泉も平気だ。俺自身が『溺れる!』って認識してしまうことが駄目なんだ。だから、プールや池なんかはアウトだな」
そして、「深いのも勘弁」と付け加えるカケル。長年、このトラウマと付き合って来たカケルは、どういった状況下でパニックが起きるか、ある程度は把握していた。溺れるという認識――この条件さえ回避すれば、生活に必要不可欠な水と、上手く付き合っていくことは可能だ。
「多少不便ではあるが、俺はこのトラウマがあって良かったと思うよ。なんせ、アイツらを危険にさらした責任が――」
「だから、『それは違う』って、何度も言ってるのに!」
すると、カケルの発言を遮るようにして、凛と透き通る声が響き渡った。
その聞き覚えの声に、カケルは振り返らずとも、それが「誰の声」であるかを理解した。