「共感できない」という価値
昨今のエンタメ作品は、受け手の共感を掻き立てる事を第一義としている事が多いようです。主人公はなるべくいい奴で等身大のキャラクターにして、導入で冷蔵庫に恋人の死体を詰め込んだり、可愛い妹を人質に取らせたりして同情を誘うのです。後は起承転結で盛り上げていけば、受け手は主人公と一緒に一喜一憂し物語に引き込まれていきます。こういった手法はなろうでは特に有効なようで、ランキングに乗るような作品の大半が、受け手の共感に向かって様々な切り口で五体投地しています。
私はこういった共感に偏重した作品ばかりが持て囃される風潮は良くないと思っています。「私」と「他者」を分け隔てているのは、「私」が「他者」の気持ちを直に理解できないという本質にこそあるからです。「Aさん」が苦しんでいる時、「私」は同情する事は出来ますが、「Aさん」の苦しみそのものを理解する事はできません。「Aさん」と「私」は違う主体だからです。「私」が「Aさん」の気持ちを本当に分かると主張する事は、「Aさん」は「私」の一部であると主張していると言っても過言ではありません。「Aさん」という主体を否定して、「私」の中に取り込んでしまっている訳です。これはある種の侮辱ではないか、という事です。
例えは悪いかも知れませんが……男性が生理痛を軽々しく「分かるよー辛いよねー」と言ってしまえば女性は「は? お前に分かる訳ねえだろ?」となると思いますし、男性がタマを打った時の苦しみを女性が「分かるよー辛いよねー」と言ってしまえば男性もやはり「は? お前に分かる訳ねえだろ?」となると思います。究極的には分かり合えない事が本質なのに、その本質を無視して過剰にすり寄るのは欺瞞でしょう。
誰もが分かり合えると言ったら聞こえはいいですが、結局は分かり合えないという事です。と言っても、私は何も疑心暗鬼の悲観主義に陥っている訳ではありません。共感や同情は無意味だと言っている訳でもありません。他者を他者として認め、究極は分かり合えない事を認め、その上で相手の心の存在を「信じる」。その信仰に気付く事によってはじめて、人は真に他者と対話したり、対決したり、寄り添ったりする事が出来るのではないでしょうか。そもそも本当に他者の心が分かってしまえば某補完計画のように人類は一個の生命体になってしまい、他者は消え果て、残るのは孤独だけです。分かり合えない他者の存在を認める事によって生まれる価値もある筈です。
そういう訳で私は共感に偏重した作品より別の切り口が物語の軸となっている作品にこそ価値があると思っています。最近のエンタメ作品で言うと「進撃の巨人」「チェンソーマン」「メイドインアビス」あたりがそんな感じでしょうか。これらの作品は主人公の言動に違和感を覚える事が多く、思わず首をかしげたくなる場面も多いのですが、そういった違和感すらも作劇上のギミックとしてうまく消化されており、作品の魅力を損なうどころか寧ろ引き立てているのです。
エンタメを外れると、私はニーチェの著書に凄まじいまでの他者性を感じます。ニーチェの思想は難解ですし、表面的には理解できても共感出来ない部分も多いです。「永遠回帰」にニーチェは恐怖を抱いているようですが、私はそんなに怖くないです。永遠に同じことが繰り返されたとしても、繰り返しそのものは認識できないからです。「神は死んだ」という言葉に潜む狂気も、本質的にはどうも理解が及びません。まあ無理もないことでしょう。ニーチェは牧師の家庭に育ち、私は東洋の殆ど無宗教の家庭に育ちました。あまりにも環境が違いすぎるのです。
しかし共感出来なくとも彼の主張は清々しいまでに合理的な誠実に一貫しており、接していて振り落とされそうになる程の凄みを内包しています。そんな鋭い視線から繰り出される言葉の一つ一つが、私の輪郭をハッキリと浮き立たせてくれるのです。当たり前だと思っていた常識の不可思議が照らし出され、気付きもしなかった自分の信仰や思想を突き付けられ、身一つにされていきます。時には苦虫を噛む潰した顔で首を傾げ、時には驚きと共に深い感動に沈み、そうやって真に他者と向き合う経験は中々に得難いものです。他にもシオランや中島義道の著書は他者性に満ち満ちており、驚く程鋭い視点で私に刃を向けて来ます。こういった他者性を臆面もなく振りかざす表現にこそ、私は心地よさを感じるのです。他者の存在を信じ、自己の存在に気付き、本来の意味で孤独を抜け出せる気がするのです。
もちろん、適当にキーボードをガチャガチャ打った文章は誰も共感できませんが、共感できなければいいというものではありません。表現は合理的で首尾一貫した軸に基づいていなければ表現足りえません。そもそも欠片も「他者と分かり合えない」と思っているなら表現に意味などありません。表現者は表現したい事があるから表現しているのであり、受け手は理解したい事があるから表現を受け取ろうとするのです。肝心なのは表現との適切な距離を取り、共感ばかり求めるのではなく他者性を上手く消化し、自己を忘れるのではなく身をもって表現者と向き合う事でしょう。