3
ハイド様がお越しになったのは、日差しが強くなって少し汗ばむくらいの休日の午後。
目の前に座るハイド様は少しそわそわされていて、その眼差しは捨てられた子犬のようです。強く握っている拳も、寄せている眉も全てわたしのせいだと思うと、早く話を進めなくてはと思うのに、マリアンヌは殊更ゆっくりとお茶の用意をしています。
もー、マリアンヌったら。
ドアを開けた状態で応接室にハイド様と二人きりになり、漸く話をすることできます。ですが、いざとなると何から話をしたらいいのか分かりません。
すると、突然ハイド様がテーブルにぶつけるのではないかと思うくらい頭を下げられました。
「本当に申し訳ないことをしました」
「え?」
「アリサの身体に傷を付けてしまい申し訳ありません。何度謝っても許されることではありませんが、どうか婚約の解消だけはしないでください!どうか、お願いします」
わたしはあまりの勢いに、暫くその姿を眺めていることしかできませんでした。
「ハイド様、どうぞお顔を上げて下さい」
「あなたがしないと言って下さるまで、婚約を解消しないと言って下さるまで上げません」
「ハイド様」
「お願いします。どうか、しないと」
「わたしにも言いたいことがございます。全てを有耶無耶にしない為です。顔を上げて下さらないのであれば、わたしは口を噤みましょう」
そう言うと、ハイド様は渋々お顔を上げて下さいました。その目には少し涙が浮かんでいます。
「ハイド様。わたしは、今まで自分はダメな人間だと思っていました」
「そんなことはありません!」
身を乗り出してきたハイド様。わたしは人差し指を立てて口に当て、話を聞いて欲しいと示しました。
「それは、わたしがずっと小さい頃から思い込んで来たことなので、簡単に考えを変えることは出来ません。でも、それではいけないと思うようになったら、人の言葉を素直に聞き入れることが出来るようになり、わたしが思うほど、わたしはダメな人間ではないと思えるようになったのです。そう思えるようになったのはハイド様のお陰です」
「僕の…」
つい声を出してしまって、慌てて口を手で覆い隠したハイド様。わたしはその仕草が可愛らしくて笑ってしまいました。
「わたしもあなたの横に、自信をもって立てるようになりたいと思っています」
「僕の横に?本当に?」
「ダメなわたしでは、あなたの横には立てませんでしょう?」
「そんなことはない。アリサはずっと僕には勿体ないくらい素晴らしい女性で、僕があなたに釣り合うように必死だったんです。僕が絶対にあなたを守ろうと思っていたのに、あんなことをしてしまって…」
ハイド様。
「わたしも、あなたに釣り合う女性になりたいと思っています。ハイド様の横に立っても恥ずかしくないように努力いたしますので、どうか、このまま婚約者として傍においてくださいませ」
わたしがそう言うと、バッと勢いよく顔を上げられたハイド様が涙を流されました。わたしはハイド様が流す涙の美しい様から目を離すことが出来ませんでした。
「あぁ、情けない。あなたに嬉しいことを言われて、我慢が出来なかった」
わたしは立ち上がり涙を拭おうとするハイド様の手を押さえ、横に座ってハンカチを差し出しました。
「これは」
「もう一枚、家紋の刺繍を刺しましたの」
「父には渡しませんよ」
「まぁ、そんなことを仰らないで。わたしはお義父様にも気に入っていただきたいのです」
「お義父様と呼んでくれるのですか」
「もちろんです。わたしは、ハイド様の、つ、妻に、なるのですから…」
「ありがとうございます。でも、父には渡しません」
そう言って涙を拭われると、わたしをギュッと抱きしめられました。
「ハ、ハ、ハイ、ハイドさま、あの…」
「しばらく、このままで。今は顔を見られたくありません」
わたしは頭がクラクラして、呼吸をするのを忘れるくらい心臓が高鳴っていました。気が付けばハイド様の胸に押し付けられたわたしの耳に、わたしと同じくらい大きく速いハイド様の鼓動が聞こえます。
規則正しくて、大きくて速い鼓動。
ずっとその音に集中していると、もっとじっくり聞きたくなって、無意識にわたしの腕をハイド様の背中に回し、ハイド様の胸に耳を押し付けて一番聞こえる位置を確認しようと、ハイド様の胸元に耳を押し付けたままわたしの頭が行ったり来たり。
「ア、アリサ。いや、そんな」
「え?」
そんなことをしていると気が付いていないわたしは、何事かと顔を上げてしまいましたが、ハイド様のお顔が真っ赤です。
「ど、どうされましたか?ハイド様」
「い、いや、積極的なアリサも嬉しいですが、まだ僕には刺激が…」
「…?キャッ」
わたしは慌ててハイド様から離れましたが、間違いなくわたしの顔も真っ赤です。両手で顔を隠しても隠し切れません。
痴女、これは痴女の所業です。
「申し訳ありません」
「いえ、これは役得といいますか、ああ、嬉しいんで良いんですけど、あー、僕はダメダァ」
なにやら、ハイド様も混乱されていますね?
「すみません。僕も慣れていないのでどうしたら良いか分からなくて」
「そんな、ハイド様は女性の扱いに長けていらっしゃいますわ」
「女性の扱い?な、何を」
ハイド様がますますお顔を真っ赤にされています。こんなハイド様なんて見たことがありません。
わたしはハイド様のお顔を見上げるように覗き込みました。
「誤解です。僕は女の子とお付き合いをしたこともないので、アリサがそんな可愛い顔をすると、動悸が」
そう言ってハァハァ言いながら胸を押さえていらっしゃるのですが、大丈夫でしょうか?
会う度に額に口付けをされていたのに、とポツリとわたしが言うとハイド様は慌てて否定なさいました。
「そ、それは、友人が教えてくれたのです」
「ご友人?」
「僕の友人に、少し女性関係に派手な奴がいまして」
「少し?」
「割と」
「割と?」
「かなり」
「かなり?」
「メチャクチャモテる奴がいまして」
ハイド様が何かを諦めたようにガッカリと項垂れています。
「実はそのメチャクチャモテる友人に、色々と教えてもらいまして」
「色々?」
「初めて会った日に、名前で呼び合うようにお願いしろとか、話しながら好きな物を聞き出せとか、まぁ、そんなことを」
「まぁ」
なんだか可愛らしいことを教えってもらっているみたい。
「僕は、その、あまり女の子と接するのに慣れていないので、友人の助言を参考に振舞っていたと言うか」
硬派、とは。ふふ。
「その友人から、女の子はスキンシップを大切にするから、必ず口付けをしないと呆れられてしまうと言われまして」
「まぁ」
わたしも全く経験がありませんから、そのように乙女心が分かっていらっしゃる方が言うなら間違い無いと思います。
「いや、本当は少しおかしいとは思っていました」
「え?」
「毎回口付けなんて、やりすぎではとは思ったんですが。あの、アリサが嫌がらなかったので、なんと言うか、その、下心が」
「し、下心?」
「申し訳ない。アリサが何も言わないのを良いことに、毎回口付けをするなんて、調子に乗ってしまいました」
普通じゃなかった?普通のことではなかったのですね?
廊下から唸り声が聞こえます。マクロ?いえ、お父様?お父様がいらっしゃるの?お母様とお姉さまがキャッキャしている声も聞こえます。
泣きたいくらい恥ずかしい気持ちのまま、二人して真っ赤になって沈黙。
ドアの前で控えていたマリアンヌが、ドアをノックして入ってきてお茶を入れ直してくれました。そしてさりげない助け舟。
「この紅茶にはチョコのクッキーがとても合いますよ。ぜひ、お試しください。旦那様たちにはお部屋にお戻りいただいたので、ご安心ください」
「ありがとう、マリアンヌ!」
わたしはつい大きな声に。さすがは、マリアンヌですわ。少しでも雰囲気を変えようとしてくれているマリアンヌに感謝です。
「ハイド様、是非ご賞味下さい。わたしの大好きなクッキーなんです」
「あ、ああ。ありがとう、頂くよ」
サクッとした触感のクッキーに、大粒で口溶けの良いチョコチップがしっかりと絡まってとても美味しく、甘くなった口の中を香りの高い紅茶で潤すとさっと甘さが消えさっぱりします。
「うん、これは最高の組み合わせだ。いくらでもクッキーが食べられるな」
「ふふ、手が止まりませんね」
やっと、わたしたちは冷静になることが出来ました。ゆっくりとお茶とクッキーを楽しんで、気持ちが落ち着いたのでそろそろ話をしなくてはいけません。
「ハイド様、お聞きしてもよろしいですか?」
「何でも聞いてくれ」
「ジャネットとはどのような関係でしょうか?」
「ジャネット?…前に庭に居たジャネット・ティンバーン令嬢?」
「そうです」
「彼女は、同じ学園の同級生です」
「それだけですか?」
「勿論。彼女とはクラスが違うし、顔見知りと言う程度だ。いや、僕はそのつもりだが、彼女は何か違うようですが」
「どういうことでしょう?」
「うーん、何故か彼女は僕のことを知っているかのように話しかけてきて、いつの間にか僕を名前で呼ぶようになって。何度止めてくれと言っても聞いてくれないから、最近は諦めて放っておいているんです」
「二人は公認の関係では?」
「な、何のことです?僕は彼女のことなんか全く興味もないのに、公認なんて。誰が何の公認をしているのですか?」
「い、いえ、申し訳ありません。わたしが勘違いをしてしまいました。気になさらないでください」
「もしかして、そのことで何かアリサに不快な思いをさせましたか?」
「いいえ、そんなことはございません。でも、ホッとしました。わたしが邪魔者じゃなくて」
「邪魔者?」
「わたしが二人を引き裂く邪魔者だと思っていたのです」
「何故、そんなことを」
「全てはわたしが、前を向こうとしなかったことが原因です」
「では、僕にはあなただけだと信じてくれますか?」
「はい。信じます」
「ありがとうございます」
ハイド様が本当に嬉しそうに笑って下さり、不躾にも可愛いと思ってしまいました。年上の男性に可愛いなんて絶対に言えませんけど。
「…わたし、前に恐ろしい夢を見たのです」
「それは、どんな」
「……」
「アリサ、無理に言わなくてもいいんですよ」
「いえ、夢の話ですから。ですから…」
「ええ、夢の話ですよね」
「はい。…夢の中で、わたしは…」
あんな恐ろしい話をしなくてもいいのに、わたしは何で話し始めてしまったのでしょう。言えばハイド様を苦しめるのは分かっているのに。今なら、止めることが出来る。なのに。
「夢の中で、殺されました」
「それは…」
わたしの唐突な話に、ハイド様が驚いていらっしゃいます。これ以上は言わなくていい、もう止めないと。そう思うのに。
「わたしはハイド様に殺されてしまったのです」
「なんだって!!」
ハイド様が目を見開いて驚いていらっしゃいます。
「そんなこと、僕がするわけがない」
「ええ、分かっています。ハイド様はそのような方ではありません」
「それは夢ですよね?」
「そうです。夢です。ただ、その夢を見たのはハイド様とお会いする前で、わたしはハイド様のことを存じ上げていなかったのに、夢の中のわたしはハイド様のお名前を知っていました」
「どこかで、わたしの名前を聞いたことがあったとか?」
「いいえ」
わたしは首を横に振りました。
「わたしは、この通り身体が弱く滅多に敷地の外に出ることはありません。お友達も、居ませんから、家族の話でしか外のことを知ることは出来ないのです。ですから、申し訳ありませんが、ハイド様のことは存じ上げていなくて」
「そ、そうでしたか」
「それなのに、わたしはハイド様の、多分、妻?だったと思うのですが」
「妻?本当ですか!あ、いや、すみません。つい…」
妻と言う言葉に敏感過ぎますわ。
「多分です」
「はい」
それから、わたしは思い出した夢の話を全てしました。どのように殺されたかは言いませんでした。ハイド様も無理に聞こうとはなさらず。
「ですから、わたしはハイド様とジャネットが恋仲で、わたしが邪魔者なのではと思ったのです」
「予知夢ですか。…断じて在りえない。僕がアリサにそんなことをするなんて」
そう信じたいですが、未来のことは分かりません。今は何も無くても、何のきっかけで二人の距離が縮まるか。いえ、そう言うことはもう考えないと決めたのだわ。
「わたしの世界はとても狭く、人から聞くことが全てで、それも良いことより悪いことの方に心が囚われてしまうのです」
「なら、これからはもっと外に出て世界を拡げましょう。そうすれば、あなたの不安も…」
そう言いかけてハイド様が黙り込んでしまいました。どうしたのでしょう。どこか一点を見ながら、顎に握った拳を当てて思案しているようです。いえ、何か独り言のようにぶつぶつ言っています。
「いや、寧ろ閉じ込めてしまった方が安心ではないか?下手にアリサを人目に晒して、変な輩に目を付けられたらたまったもんじゃない。そうだ、やはり部屋から出さずに囲い込んでしまって、うん、誰の目にも触れなければ、僕だけの…うん、それが良い、やはり…」
「良くありませんよ?!」
わたしの言葉にハッと顔を上げ、一気にハイド様のお顔が赤くなりました。何を仰っているのでしょうか?わたしを、わたしを、か、囲いこむ?
「いや、違います、冗談です。しません、そんなこと!」
わたしの若干引き気味な視線に、居た堪れなそうに俯かれました。少し反省していただいた方がいいと思います。
「わたしは、ジャネットと話をしないといけないと思っています」
「そうですね。彼女は少し変ですから、心配です」
ジャネット。
「彼女とは小さい頃は仲が良かったのです。彼女のお母様が亡くなる前までですけど」
「……」
「わたしに本を読んでくれたり、外の面白い話を聞かせてくれたり、本当に優しかったんです。それが、彼女のお母様が亡くなった頃から、急に態度が変わってしまって、他のお友達もわたしから離れてしまって」
「お母様を亡くしたことが、彼女を変えてしまったのでしょうか?」
「そうかもしれません。ジャネットのお父様はおば様を亡くされてから生活が乱れてしまったようで、ジャネットに見向きもしなくなったと、わたしの母が言っていました。だから、わたしの母はジャネットを自分の娘のように可愛がっていたのです。ジャネットのお母様はわたしの母の親友でしたから」
「そうでしたか」
「それに、ジャネットはわたしの大切なお友達なのです」
「…仲直り出来るといいですね」
「はい」
出来ることなら昔、わたしの手を握ってわたしの歩調に合わせて庭を散歩してくれたあのジャネットに会いたい。もう、無理なお願いでしょうか?
わたしがジャネットを屋敷に呼び出した時、ジャネットは少しビクビクしていて、わたしを見るととても怒っている目で睨み付けてきました。
手紙の返事もないままだったので、来てくれないかと思っていましたのでわたしはホッとしてしまいました。
「何の用?わたしはこの屋敷には来てはいけないのよ」
ドスンとわたしの向かいのソファに座り込むと、腕を組んで相変わらずの態度。
「家族は誰も居ないから、心配しないで」
「ふんっ」
ジャネットの苦々し気な顔を見れば、本当にわたしのことを疎ましく思っているような気もしますが、でも本気で嫌っているわけではないような、変な期待を持ってしまうのです。
「わたしね、あなたとゆっくり話がしたくて」
「わたしはする気なんかないわ。わたしが言いたいのは早く婚約を解消しなさいってことだけよ」
「それは聞けないわ」
「なんですって!」
「わたしはハイド様と婚約を解消する気はないの」
「調子に乗らないで、わたしとハイドは」
「同級生でしょう?」
「違うわ!」
「顔見知り?」
「違うったら!」
ジャネットの目に涙が浮かんできました。あのジャネットが泣くなんて。
「ごめんなさい、ジャネット。わたしが意地悪を言ってしまったわ」
「煩い!あんたなんかに…」
ジャネットは顔を両手で覆い泣いています。あのジャネットがこんな僅かな会話で肩を震わせて泣いています。
「ジャネット…ごめんなさい」
「何もかも上手くいかない」
「え?」
「全然思っていたのと違う」
「ジャネット」
「今度こそハイドと一緒になれると思っていたのに」
「…今度こそ…?」
顔を覆ったままのジャネットが大きく嘆息を吐きました。
「もう、ボロボロよ。一人で頑張って勝手に空回って、全く相手にされないし。あんたはハイドを手に入れるし。…何も変わらないじゃない」
「ジャネット。言っている意味が全然分からないわ」
ジャネットが顔を上げてわたしを睨みながら言いました。
「あんたにわたしの言うことが信じられるわけないわ」
「わたしは信じるわよ」
「ふん、そうやってわたしを信じて良いことがあったの?」
「良いこともあったし嫌なこともあったわ。でも、あなたの存在はわたしの世界のかなりを占めているの。信じるしかないでしょ?」
「…バカな子」
「ふふふ」
ジャネットは息を吐いて、そして少し小さい声で話ポツリと言いました。
「わたしは、2回目の人生を生きているの」
「…え?」
信じる前に理解が出来ませんでした。
「2回目よ。わたしの時間が巻き戻って同じ人生の2回目」
2回目。それなら、もしかしてあれは。心臓の音が大きくなり、血の代わりに不安が体中を駆け巡りました。
「…ねぇ、もしかして、わたしは前の人生でハイド様に、殺された?」
「!!」
ジャネットが吃驚して目を見開いてわたしを見ました。
「あんたも巻き戻ったの?」
「わからないわ、わたしは夢に見ただけだから。わたしが死んだ時のことしか知らないの」
「そう」
「ジャネットは、わたしがなんでハイド様に殺されたのか知っているの?」
「……」
「ジャネット、教えて」
ジャネットの一方の口角が僅かに上がり、でもそれは嗤っているわけでもなく言葉にするのが辛い、そんな気持ちなのではと思わせます。
「あんたがハイドを苦しめたからよ」
「…わたしが?…嘘」
「本当よ。……て言いたいけど、本当に苦しめたのは、わたし」
「……」
何もかも諦めたような疲れ切った顔。何があったの?一体何があなたをそんなにしたの?
「1回目の人生で、ハイドとわたしが初めて会ったのは、あんたに婚約者として紹介された時。優しそうな顔をして、愛おしそうにあんたを見つめるその瞳が、わたしのものになったらわたしは幸せになれると思ったわ」
「その時、あなたは幸せではなかった?」
「どうかしら。まぁ、…今よりはマシだったかもね。…あんたとも友達だったし…」
「今も友達よ」
「…ふん」
ちょっとつっけんどんな感じは変わらないけど、前よりずっと優しく感じる。
「わたしはハイドを好きになってしまったから、あんたの婚約者だろうと関係なかった。わたしがアリサのことで話したいことがあるって言えば、必ず会いに来てくれたし、アリサが喜びそうなことを教えてあげれば喜んで言う通りにして。本当見た目はいい男のクセに、全然女慣れしていないから、わたしの言うことをなんでも真に受けて必死になって」
本当にハイド様は、女性と親密になったことがなかったのね。
「面白かったわよ。アリサには本当は好きな男がいるって言ってやったの。そうしたら真っ蒼になって、動揺しまくってて。わたしは親身になって相談に乗ってあげていたし、わたしのことを信用していたから、ハイドの心を揺さぶるのはすごく簡単だった。わたしが書いた手紙をわざと落として拾わせたわ。アリサへ知らない男からの恋文。彼、泣いちゃうんじゃないかと思うくらい落ち込んでて」
「酷いわね」
「そうよ。わたしは彼に酷いことをしたの。アリサはハイドのことを愛していないと言っても、彼はあんたを愛しているって。あの時は、本当にあんたを殺してやりたかった」
逆恨みじゃないの。
「それでも、あんたたちは結婚したわ。本当に信じられなかった。ハイドは傷付いていたのに、あんたは何も知らずに幸せそうにしていて。そんな、あんたの顔を見たら益々ハイドを奪わなくては気が済まなくなったわ。わたしがあんたに負けるわけがないもの」
「自分勝手」
「煩い」
「わたしに負けるわけがないとか、恋愛は勝負じゃないわ」
「何も知らずに幸せだけを享受しているあんたに分かるわけがないわ。わたしは、どんどん大切なものを失っていったのに、あんたはぬくぬくと守られて、ハイドに愛されて。わたしだって愛されてもいいじゃない」
「それは、ハイド様じゃなきゃダメだったの?」
「…ダメよ、彼だけがわたしを幸せに出来るのよ」
ジャネットのそれは愛なの、それとも執着?わたしにはそれは理解できない。
「ある時期に、密かに出回っている媚薬について聞いたわ。とあるご令嬢がそれを意中の人に飲ませて、既成事実を作ったとか。曖昧で都合のいい話。でも、わたしはそれに飛びついた。必死にその媚薬を探していたら、変なおばあさんに辿り着いて、そのおばあさんに言われたのよ。そんな媚薬は無いって。その代わり、恋人の心を取り戻す薬ならあるって。媚薬の方がよっぽど信憑性があるのに、わたしはその時冷静じゃなかったから、迷わず買ったわ。そしてハイドに飲ませて。…分かるでしょ?そんな薬なんてあるわけがない。そもそも、わたしの恋人でもないし。でも、それを飲むとハイドがわたしに優しいの。アリサってわたしを呼びながら、髪を撫でてくれるの。わたしがどんなに苦しくて幸せだったか分かる?もし、偽りでもわたしの名前を呼んでくれたら、そうしたら…」
ジャネットの大粒の涙が彼女の手の甲を濡らす頃には、わたしのハンカチはわたしの涙で濡れそぼっていました。言葉もありません、ただ、悲しくて苦しくて。
「ハイドがだんだん身体の不調を訴えるようになったわ。頭が痛くて割れそうだって。そういう時、必ずわたしを呼ぶの。いい気分だった、本当に。あんたの絶望に打ちひしがれた顔を見られるんだもの。わたしは彼を落ち着かせる振りをしながらこっそり薬を飲ませたわ。薬を飲むと痛みが治まるの。でもね、アリサには薬を飲んでいることを言ってはダメって口止めをしておいたのよ。アリサに心配を掛けたくないでしょ?って言えば素直に言うことを聞いて。だから、彼は痛くなるとわたしを呼んだの。ふふ、わたしじゃないと彼の苦痛を取り除くことが出来ない。だからあんたは何も言えずに泣いていたわ」
「…ハイド様は、薬物中毒だったのね。どうして、どうしてそこまでハイド様を苦しめたの?愛していたのでしょ?」
「仕方ないじゃない。だって、そうでもしないとわたしを見てくれないんだもの。アリサって呼びながらわたしを抱きしめてくれないのよぉ…」
きっとジャネットは引き返せないところまで行ってしまった。
「分かっていたわ。もう、ハイドがまずいところまで来ているって。それで、おばあさんに他の物が欲しいって言ったら、短剣をくれたの」
「短剣?!…わたしを刺した?」
「…そうよ」
急にわたしの頭にあの残忍な光景が浮かんで身体が震えだしました。
ダメよ。今は恐れている場合ではないの。しっかりしなさい。
「とても貴重な、とか何とか言っていたけど、もう、わたしはどうでも良くなっていたわ。これで殺せばいいのねって思ったら、心も軽くなったし」
「なんてことを言うの」
「は、今更でしょう?もう、ほとんどハイドを殺してしまったようなものじゃない」
「ジャネット」
強気に恐ろしいことを口にしているジャネットの歪んだ顔には、嫌悪や後悔が浮かんでいます。きっと彼女は苦しんでいた。そう言うことなのでしょう。
「おばあさんが言ったわ。短剣と血の契約をし、縁を切りたい人間を短剣で殺せば、契約した人間の時間は巻き戻り、殺された人間とは無関係の人生を送ることが出来るって。本当に馬鹿げた話だけど面白いと思ったわ。だからわたしは短剣に血を吸わせ契約をして、ハイドにアリサを殺させることにしたの。そうすればわたしが巻き戻った時にアリサとハイドの繋がりは無くて、わたしがハイドの横に立てるでしょ?おばあさんの話なんか信じていなかったけど、そんな面白い話があってもいいじゃない。時間なんて巻き戻らなくても、アリサが死んでくれるならそれでよかったし」
「酷いことを言うのね」
「わたしってそういう人間なの」
「…嘘よ、そんなの…」
「頭にお花が咲いているのね、あんた」
「……」
ジャネットが憎まれ口を叩けば叩くほど、彼女が苦しんでいたことが伝わってくる。一生懸命強がって一人でどんどん沼に嵌っていくのに、助けてと叫ぶことが出来ない哀れな人。
「意味なかったけど」
「何故?」
わたしは死んだわ。
「あんたが死んでも何も起きなかった」
「そうよ。わたしは横であなたたちのことを見ていたわ」
「見ていた?あんた、あの場に居たの?死んでいたのに?」
「だって、神様が天に導いてくださらなかったんだもの」
「はははは、可笑しい、見てたんだ?…わたし、ずっと前世の最期の記憶だけなかったの、時間が巻き戻る直前の。でも最近思い出した。あんた、見てたんなら分かったでしょ」
「…ハイド様があなたを殺したから、時間が巻き戻った」
「ハイドが縁を切りたかったのはわたし。わたしは縁を切られて時間が巻き戻った」
長い沈黙の中、わたしの思考は全く場違いな方へ向かっていました。
ハイド様とジャネットの邪魔をしてはいなかったのね。わたしはちゃんと愛せていたかしら?きっと愛していたわ、だって、あの時本当に辛かったわ。死ぬことが?違う、最後のハイド様の顔が笑顔じゃないことが。憎まれていても、最後に見る顔は笑顔が良かったとか。…わたしも大概だわ。彼だから殺されても良いと思っている。
「わたし捕まるの?」
「どうして?」
ジャネットは蒼い顔をして恐る恐る聞きました。
「だって、わたしはハイドに酷いことをしたし、あんたを殺させたわ」
「僕が何だって?」
声のする方を向くと、ドアのところに立っていたのはハイド様。
「ハ、ハイド。聞いていたの?」
「それはね。アリサ一人で君に会わせるわけにはいかないだろ?それで?僕はアリサを殺していないが?」
「で、でも」
「わたしは死んでいないし、ハイド様もとってもお元気よ」
「でも、わたしは前に」
「悪い夢を」
「……」
「悪い夢を見たのね」
「違うわ。それに、お母様を見殺しにした」
ジャネットが巻き戻って来たのはおば様が無くなる二日前。
「お母様が事故に遭う日を知っていたのに。お母様を止めなかった。止めなくても、馬車の車輪を整備させれば事故には遭わなかったはずなのに。わたしは何も言わなかったわ」
「どうして?貴方はおば様が大好きだったでしょ?」
「お母様が、わたしを女学院に入れようとしていたからよ!そうしたらハイドに会えなくなるもの。遠くの伯母様の家に預けられてそこから通うことになるって。我が家ではお母様の言うことは絶対だったから、わたしが嫌って言っても聞いてもらえないもの。だから、…見殺しにしたの」
「馬鹿なことを」
本当に、馬鹿なことを、と繰り返したハイド様の言葉はジャネットにどれだけの傷を与えたでしょうか?人目も憚らず小さな子供のように泣きじゃくり、謝り続けるジャネット。
おば様が亡くなってからティンバーン卿はお酒を飲むようになり、領地運営も疎かになり、ジャネットにも関心を示さなくなりました。
ジャネットにはそうなる未来が分かっていたはずです。
おば様が生きていたら、今とは違う道を進んでいたかもしれないのに、ジャネットは踏み止まって、別の道を行くことを選ばなかった。ただひたすらハイド様と結ばれることだけに執着して、自分を慈しみ大切にしてくれている人を顧みることをしなかった。
後悔と言う言葉だけでは表せないジャネットの悲痛な悲しみが、わたしの胸を強く締め付けていました。
それから、彼女は女学院に転校し彼女の伯母の元で暮らすことになりました。ジャネットは修道院に入ると言っていましたが、彼女は罪を犯したわけでもなく、勿論彼女のお母様のことはありますが彼女が手を下したわけではなく、それに関しては彼女が向き合っていかなくてはならないことでしょう。
堕落してしまったティンバーン卿ですが、ジャネットの説得により少しずつ立ち直ろうとされています。お父様が援助をして下さることになり、おば様がご健在だったころのような素晴らしい領地に再建されることを祈るばかりです。
「ジャネット嬢からの手紙かい?」
「はい、元気にしているようで安心しました」
今日も、ハイド様はわたしの好きなお菓子を持っていらしてくださいました。
わたしは、随分と元気になり、次の秋にはアラベニア高等学園に入学できることになりました。ハイド様はとても喜んで下さり、学園のことをいろいろと教えてくださいますが、時々、変な言葉をポツリと零すことがあります。
アリサを僕以外の男が見るなんて耐えられないとか、変な虫が付くとも限らないし僕は留年しようかと思います、とか。勿論お諫めしていますが、本気ではないかしらと思うことが多々あります。
「ジャネットにも素敵な方が現れたようです。見て下さいませ。手紙の半分以上が、お相手の方がどれだけ素敵かという説明ですわ」
ハイド様に3枚にもなる手紙をお見せしました。
「ははは、それは楽しそうだ」
「本当に安心しました」
「そうだね」
そう言って飲んだミントティはスッと口の中に爽快感を届けてくれました。
「僕は今でも夢のことを考えるよ」
「わたしもです」
殆ど毎日のように夢のことを考えています。
「ジャネット嬢の時間は本当に巻き戻ったのだろうか、とかね」
「変なおばあさんの話、とかですか?」
「ああ、あまりに非現実的だ」
「そうですね。本当に不思議な話です」
「予知夢と言われた方がよほど納得できる」
「もし、それが予知夢でも、ジャネットが苦しめられたことには変わりはありませんわ」
「そうだね。それに、僕がアリサを、殺した、とか。本当に信じられないし、その夢の僕を殴りつけやりたいよ」
ハイド様が拳を握り自分の掌を叩きました。
「ですが、その夢のお陰で恐ろしい未来を迎えずに済んでいるのかもしれません。ハイド様が、迎えたくない未来を教えてくれたのかもしれませんよ」
ハイド様は向かいのソファから立ち上がり、わたしの横に居らっしゃいました。そして、優しくわたしを抱きしめて下さったのです。
「もし、そうなら、やっぱり夢の僕に感謝をしなくちゃいけないのかな。でも、ごめんね、アリサ。君に怖い思いをさせて」
「ふふふ、またそんなことを仰って」
ハイド様は、時折こうしてわたしに謝ります。起こってもいない未来の話に謝る必要も恐れる必要のないのに。でも、ハイド様には何とも言えない苦いものがあるのも分かります。
「そのことならわたしは平気ですわ。わたしは意外と強いことが分かりましたの」
そう言うと、ハイド様はクスリと笑いました。
「知っているよ。君はこんなに儚げなのに、本当はすごく逞しい」
「そうですわ。それに割としぶといんです」
「うん。それも君の魅力だ」
「ふふ、それに、わたし、ハイド様になら殺されてもいいくらいにはあなたを愛していますわ」
わたしがそう言うと、ハイド様が一瞬にしてお顔を真っ赤にされました。
「な、な、な……」
「な?」
ハイド様のお顔を覗き込むと、ハイド様はわたしの目を手で覆い、視界を塞ぎました。
「まぁ、ハイド様。こんなことをされたら、何も見えませんわ」
「それでいいんです」
「いやですわ。お顔をお見せください」
「失礼いたします」
マリアンヌの声がしました。
「お二人共、イチャコライチャコラはその辺にして、お食事の時間ですのでそろそろご準備を」
「そうだったわ」
「ああ、すまない」
二人で顔を見合わせて笑いました。
わたしたちにはジャネットの話が本当に起こったことなのか知る術はありません。知る気もありません。わたしは俯くことを止め、わたしとハイド様の絆が強くなり、ジャネットが別の幸せを見つけるために前を向いています。
それだけで、わたしたちの未来が大きく変わると確信しています。過ぎた時間は戻らないけど、だからこそ、どんな時でも自分に恥じるところなど無いように、二人手を携えて進んでいこうと思うのです。
最後まで読んでくださりありがとうございます。
誤字報告ありがとうございます。とても助かります!