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それからは、週に一度ハイド様が会いに来てくださいました。


身体に負担が掛からないようにと、出かけることはありませんでしたが、いつも何か手土産を持ってきてくださり、学園のこと、ご友人のこと、ハイド様ご自身のことをお話をしてくださいました。

わたしは家庭教師のこと、ダンスが苦手なこと、刺繍のことなど話しました。わたしは面白い話など出来ませんが、ハイド様はニコニコしながらわたしの話を聞いてくださいました。


「いつか、アリサが刺繍を刺したハンカチを僕に下さいませんか?」

「え?貰って下さるのですか?」

「もちろんです。そうしたら僕は友人に自慢します」

「そ、そんなことなさらないでください」

「何故です?実は皆しているのですよ。僕はそれが羨ましくて」

「そうなのですか?」

「はい、イアンなんて毎日僕に見せつけてきます。ですから、僕も見せつけてやりたいのです」

「まぁ」


ハイド様は、とても凛々しくて素敵なのにそんな可愛らしいことを言って下さいます。


「わたしのでよろしければ沢山刺しますわ」

「ぜひ、お願いします」

「ふふふ、頑張りますわ」

「あ、無理はしないで下さいね」

「ええ、大丈夫です。じ、実は、もう何枚か刺してあるのです」

「え?本当ですか?」

「あの、貰って下さいます?」

「勿論です!」


ハイド様の満面の笑顔を見ると、わたしまで嬉しくなってしまいます。


ハイド様にハンカチをお渡しした翌日、ジャネットが目を吊り上げてわたしの部屋へやってきました。

マリアンヌの制止も聞かず、ノックもせずドアを開けたジャネットのその顔は、間違いなくわたしを罵るために来たことを教えてくれます。


「一体どういうつもり?」

「ジャネット、いきなり入ってこないでとお願いしているでしょう?」

「黙りなさい!あんた、なんでハイドと婚約を解消しないのよ!」

「ジャネット様、なんてことを仰るのですか!」


ジャネットの言葉にマリアンヌは蒼い顔をして、わたしの前に立ちはだかりました。


「何よあんた、わたしにそんな態度取っていいと思っているの?」

「わたしはこの家のアリサ様の侍女です。旦那様にアリサ様を最優先でお守りするように仰せつかっております。主を守るのがわたしの役目です」

「ハッ!わたしはおば様から娘のように扱われているのよ。あんた、それを分かっているの?」

「関係ありません。わたしの主人は旦那様でありアリサ様です。もし、奥様がわたしの態度を責めるのなら、奥様は旦那様に責められるでしょう。まず、奥様がそのようなことをなさるはずがありませんが」

「生意気なことを言うんじゃないわ!」


ジャネットが手を振り上げようとした時、わたしは慌ててマリアンヌを庇い前に出ました。


「やめてジャネット!」

「お嬢様?!」

「何?あんたが代わりに叩かれる?」

「そんなことをすればお父様が許さないわよ」

「…フン」


少し考えてジャネットは手を下ろしました。わたしは、恐ろしくて震えていましたが、マリアンヌを守れたことだけは、ホッとしました。


「何をしに来たの?」


わたしの言葉に再び鋭い目で睨み付けたジャネットを見て、聞かなければよかったと後悔をしました。本当にあの目は怖くて身体の奥の方から震えてきます。


「あんた、ハイドに刺繍のハンカチを渡したわね」

「え、ええ?」


ジャネットが知っているなんて、本当にハイド様はご友人に見せたと言うことかしら?


ジャネットが恐ろしい顔をしているのに、わたしはそんなことを考えて少し心が温かくなってしまいました。


「わたし、言ったわよね。婚約を解消しなさいと」

「…何故あなたはそんなことを言うの?」

「わたしがハイドと結婚するからよ」

「ハイド様はそう仰っているの?」

「知らないの?わたしとハイドの関係」

「…知らないわ」


ハイド様は何も仰っていないもの。


「わたしたちは皆が認める仲よ。公認なの。あんたなんか、はっきり言ってわたしたちの邪魔をする悪役よ」

「…嘘」

「本当よ。分かったら、さっさとおじ様に婚約解消をお願いしなさい。いいわね。あんたみたいな愚図が、ハイドの横に立とうだなんて図々しいのよ。なんなのよ、あんたたちは()()()()()のに」


ジャネットはそう言い放って帰って行きました。

わたしは、呆然として混乱して、涙が止まりませんでした。


「お嬢様、絶対に何かの間違いです。ヴァルデス様が、お嬢様を裏切るはずがございません」

「ええ、そうよ、そうよね…」


言葉ではそう言っても、わたしには信じられるものなんて何もありません。


ご友人の話の中にジャネットは出てきませんでしたが、ただの友人ではなく2人がそれ以上の関係だとしたら?

ジャネットは男爵令嬢ですから、家格的にハイド様とは釣り合いが取れず、秘密の恋人だとしたら?

そして秘密の恋人であることが公認だとしたら?


もう、何が何だか分からないわ。 


「大体あの方はおかしいのです。こうやって威張り散らす時は決まって、旦那様や奥様がいない時。わたしたち使用人を自分のもののように扱って。お二方が居れば、大人しく優しいふりをして。本当にわたしたちは腹が立っているし嫌いなのです」


マリアンヌは、一気に捲し立てて息切れをしています。ずっと、怒りを我慢していたのが爆発してしまったのでしょう。


「お嬢様も言っていいのですよ。旦那様や奥様にだって言いたいことを言っていいのです」

「でも、そんなことを言ってお母様を悲しませたくないのよ」

「何を仰っているのですか!お嬢様を虐めることの方がよほど奥様を悲しませます。絶対にお嬢様をお叱りになることはありませんよ」


マリアンヌの言葉はわたしの勇気になりますが、それでもわたしには心の内を言うことは出来ません。だって、ジャネットはわたしのお友達なのですもの。


それからもハイド様は週に一回、わたしに会いに来てくださいました。そして同じようにジャネットも。


ハイド様がいらっしゃる日は、必ずお父様とお母様とお姉さまが屋敷にいらっしゃいました。ジャネットが来る日は、お父様もお母様もお姉さまも居ない日で、いつものように文句を言って帰っていきます。


そしていつも言っている「切れている」「切ったのに」。意味が分からないのはわたしが世間知らずだからなのだと思います。


今日は休日でハイド様がいらっしゃる日です。お父様とお母様とお姉様は、お姉様の婚約者のお屋敷に呼ばれ急遽お出掛けをすることになりました。


いつものように、ハイド様がわたしの大好きなお店のクッキーを手にして、ニコニコしながら挨拶をして下さいました。


そして私の額に口付けを1回。


いつも俯いてしまうわたしが、少しでもハイド様に慣れるようにと、ハイド様が会う度に1回の口付けを提案されました。


そんなことされたら、ますます恥ずかしくて俯いてしまいます、と言うと、それはそれで可愛くていいですね、と笑って躱されてしまいました。勿論、マリアンヌは見ないフリ。


わたしはいつも恥ずかしいのに、ハイド様は慣れていらっしゃるのね。ジャネットにもこんなことするのかしら?ついそんなことを考えると、気持ちが沈んでしまいます。


嬉しくて苦しくて、寂しくて幸せで、わたしの心は忙しくて。


「今日は久しぶりに庭に行きませんか?」


最近少し気温が下がっていたため、ハイド様がいらした時は部屋の中でお話をしていましたが、今日は久しぶりに暖かく、お庭をお散歩するにはぴったりの日です。


それに、わたしの一番好きなお花で、庭師が丹精込めて育ててくれたガーベラが見頃を迎えているので、ぜひハイド様にもご覧いただきたいと思っていました。


「いいですね。折角なので庭でクッキーを食べましょう」


ハイド様が手に持っていたクッキーを持ち上げました。マリアンヌが心得たように庭の準備に向かいました。


「そうそう、そう言えば前に頂いた家紋の入ったハンカチを、父が大変気に入ってしまいまして」

「まぁ」

「くれと言われたので、断っておきました」

「ま、そんな。わたし、よろしければもう一枚刺しますわ」

「いえ、その必要はありません。父にあげるなんて勿体ない。僕が自慢するだけで十分です」

「まぁ」


ハイド様はわたしを喜ばせる天才です。でも一応一枚刺しておこうかしら。ふふ、ハイド様はなんて言うかしら。


わたしがニコニコしているとハイド様がわたしの顔を覗き込んで、ニコッとします。


「何を考えているか当てましょうか」

「お分かりになりますの?」

「今日もハイド様は素敵だわ」

「ま、まぁ、そんな」


確かに今日も素敵ですけれど!


わたしは真っ赤になって俯いてしまいました。

ハイド様の軽快な笑い声を聞きながら庭に向かうと、何が悲鳴のようなものが聞こえます。


「なに?」


わたしは少し急ぎ足に庭に向かいました。庭に出た時、ハイド様がわたしを手で制しました。


そこに居たのは、ジャネットとマクロ。

マクロがジャネットに牙を剥いて唸り声をあげ、ジャネットが大きな声で叫んでいます。


「あっちへ行きなさい!この野良犬!」

「マ…」


わたしがマクロを呼ぶより先にハイド様が飛び出し、ジャネットを背にしてマクロと向き合いました。そして、花壇の添木を引き抜きマクロの前で振り回したのです。


「や、やめて…」


わたしは、驚いて声がうまく出ません。


「ハイド!わたし怖いわ」

「いいから君は離れて!」

「早く、この野良犬をやっつけて」


ジャネットが凄い剣幕で、ハイド様の後ろから叫んでいます。


「だ、だめ。ハイド様、止めて…」


わたしの声などハイド様には聞こえません。とうとうハイド様が振り回した添木が、マクロの鼻先に当たってしまいました。


キャン!!


マクロの高い悲鳴のような鳴き声が聞こえ、わたしは夢中で飛び出しハイド様を背にマクロを抱きしめました。その時、再び振り下ろした添木がわたしの肩を強か叩いたのです。


「ああっ!」

「アリサ!!」


ハイド様の叫び声が聞こえましたが、わたしは痛みとマクロを守ることに必死で、ハイド様が何を言っているのか分かりません。ジャネットも何か叫んでいます。


「何をなさっているのですか!!」


マリアンヌが走ってきて私とハイド様の間に立ちました。


「どいてくれ、マリアンヌ。アリサが!」

「その野良犬がわたしに牙を剝いたのよ!その犬を殺して!」

「落ち着いてください!」


マリアンヌの声に、ハイド様とジャネットが口を噤みました。


「お嬢様、大丈夫ですか?」

「マ、マリアンヌ。マクロが…」


わたしは痛みで冷汗をかいているのが分かりました。


「マクロのことはお任せください。お嬢様はお部屋に」

「マリアンヌ。それなら僕が連れていく。僕が!」

「ハイド、わたし怖かったのよ!」

「ハイド様」


わたしが顔を上げると、ハイド様は真っ蒼な顔をして今にも泣きそうです。


「すまない、アリサ。ワザとじゃないんだ」

「分かっております。ですが、今日はもう、お帰り下さい」

「そんな、アリサ」

「ジャネットも、帰って」

「当たり前よ。こんなところ居たくないわ。ハイド、行きましょ」


ジャネットがハイド様の腕を引っ張っています。


「やめてくれ、僕は帰らない」

「何言っているのよ、アリサが帰れって言っているじゃない」

「アリサ!僕は」


縋るようにわたしを見るハイド様。わたしは、マリアンヌに支えられながら、出来る限りの笑顔でゆっくりと言いました。


「今日は、もうお帰り下さい。わたしのことは、ご心配なさらずに」

「アリサ…」


わたしは痛みで肩で息をしながら、ハイド様が見えなくなるまでお見送りをしようと背筋を伸ばしました。

ハイド様は執事のヨハンに促されるようにノロノロと振り返りながら馬車の方に向かい、ジャネットはニコニコしながらハイド様の腕に自分の腕を回しています。そして、わたしを見て嗤いました。


そう嗤ったのです。


あの顔を見た瞬間、わたしはわたしの知らない何かを思い出しました。

それは、前に見たあの恐ろしい夢。わたしがハイド様に喉を刺され、殺されたあの夢。ジャネットがハイド様の肩を抱き嬉しそうに嗤ったあの夢。


わたしはそれを思い出した瞬間、体中の血が全て地面に吸い込まれるようなそんな恐怖を感じて、そのまま気を失いました。遠くでわたしの名前を呼ぶハイド様の声が聞こえたような気が致しました。





わたしはそのまま2日間意識を失ったままでした。目が覚めた時には、泣きはらしたお母様とマリアンヌがいて、少しするとお父様がわたしの部屋に駆け込んできました。お父様の目にも涙が浮かんでいます。


「良かった、本当に良かった」


お父様はそう繰り返し、お姉様も学園から急いでお帰りになり我が家は大騒ぎでした。


わたしは、しばらくは何も考えられずに、ただ事の成り行きを聞いていただけでしたが、ふと、夢で見たことを思い出してしまいました。


ハイド様の恐ろしい目、ジャネットの嗤った顔、血を流したわたしの姿。あまりの恐怖に身体が震え、涙が止まらず、夜には喘息の発作を起こし二週間ベッドに寝たきりになってしまったのです。


その間、毎日ハイド様から手紙と花束やお菓子が贈られてきましたが、恐ろしくて手紙を読むことも出来ないまま箱に仕舞い込み、花もお菓子もマリアンヌにあげてしまいました。

そんなことをしてしまう自分のことが本当に嫌なのに、前を向くことが出来ません。


もし、あの夢がこれから起こることなら、わたしはハイド様に殺されてしまうの?ジャネットはわたしが死んだら嬉しいの?わたしはどうしたらいいの?


わたしが恐れているのは全部夢の話。あぁ、なんてわたしは弱いんでしょう。全てはただの夢なのに。こんなに恐れて、嬉しいはずのハイド様の手紙さえ恐ろしくて読むことも出来ない。


「マリアンヌ」

「はい、お嬢様」

「マクロは?」

「心配いりませんよ。バシェット先生に診てもらいましたし、今は厩舎で馬と一緒に過ごしています。なんだか厩舎が気に入ったみたいで。怪我も随分良くなって、ご飯も沢山食べていますし、一生懸命匂いを嗅いでいましたから、きっと鼻も悪くなってはいないと思います」

「そう、よかった」


ハイド様に叩かれた時のあの鳴き声と、跳び上がった姿は本当に恐ろしかったし、二度と見たくない光景です。


「ハイド様は」

「旦那様が仰っていた通りです。暫くはご遠慮して頂くことになりましたし、今後、婚約についても考え直されるかもしれません」

「そう…」


これでよかったのです。幸いにも、肩は打ち身と擦り傷だけで、骨が折れることもありませんでした。時間が経てば治ります。ハイド様に責任を取れと、迫る必要もありません。


わたしは、ハイド様には不釣り合いでしたし、ハイド様とジャネットの仲をこれ以上邪魔しないようにしなくてはならなかったのですから。


「ジャネットは、何故、庭に居たのかしら?」

「…本人はただ遊びに来たと言っていましたが、お嬢様以外に屋敷に誰も居ない上に、ヴァルデス様がいらっしゃることを知っていたからかもしれません。マクロと偶然鉢合わせをしてしまい、あのようなことになったのだと。マクロは賢い犬ですから、あの方を不審者だと思ったのでしょう」

「そう」

「それから、お嬢様。旦那様がお怒りになって、ジャネット様は屋敷を出入り禁止になりました」

「え?」

「お嬢様がこんな大変なことになっているのに、あのような態度。わたしたちは絶対に許せませんから。ヨハンさんが全てをご報告しました。勿論、今までのことも全てです。それをお聞きになった旦那様と奥様がお怒りになって、一生涯この敷地に足を踏み入れることを禁止しました」

「一生涯…」

「これで、お嬢様を苦しめる者はいませんよ」


わたしはマリアンヌの言葉にホッとしてしまいました。二人との縁が切れれば、わたしはあの夢のような恐怖を体験することはないはずです。

(いず)れわたしとの婚約が解消されれば、晴れてハイド様とジャネットが結ばれ、幸せになるでしょう。わたしが邪魔をしなければすべてが上手くいくのです。


もしかしたらわたしが見たのは予知夢で、あの恐ろしい夢を現実にしないために神様がわたしに教えて下さったのかも。


「お嬢様?」


わたしはいつの間にか涙を流していました。マリアンヌが慌ててハンカチで押さえてくれましたが、涙を止める術はありません。


わたしは声を殺してずっと泣き続けていました。やっと涙が止まった時には、目の周りは真っ赤になっていました。マリアンヌが冷たいタオルを持ってきてくれて、わたしはベッドに横になり、目に冷たいタオルを載せました。


もう、何も考えたくない。


「……お嬢様」

「なぁに?」

「今からわたしが言うことは、もしかしたらお嬢様は聞きたくないことだと思いますので、辛くなったら言って下さい、すぐに止めます」

「わたし、今辛い話は聞きたくないわ」

「では、止めます」

「……やっぱり聞きたい」

「……無理はしないで、すぐに言って下さい」

「分かったわ」


わたしは、瞼に冷たいタオルを載せたままマリアンヌの声に耳を傾けました。


「お嬢様が庭でお倒れになった時、ヴァルデス様がすぐに駆け付けて下さいました。お嬢様をわたしの手からひったくり、抱きかかえられたのです」

「ひったくり…」

「ちょっと悪く言ってやりました」

「ふふ、気にしないわ」

「ジャネット様が、お嬢様を悪く言いながら喚いていたのを、ヴァルデス様が一喝され、恐ろしい顔をしてジャネット様を睨み付けていらっしゃいました。おかげでジャネット様は大人しくなられ、ヨハンさんが引きずるようにして追い出したのです。ヴァルデス様はお嬢様をお部屋にお運びになって、バシェット先生がいらっしゃるまで、お嬢様の手をずっと握っておられました。ずっと謝り続けて、ずっと泣いていらっしゃいました」

「ハイド様が?」


思わず顔をマリアンヌの方に向けてしまい、タオルが落ちてしまいました。


「そうです。あの方は泣きながら、お嬢様に謝っておいででした」

「ハイド様…」

「本当はお部屋を出て行って欲しかったのですよ。お嬢様の肩の様子を見たかったですし、ドレスも着替えさせてあげたかったですし。…ヴァルデス様は、お嬢様が死んでしまうと思ったのかもしれません。ずっと、目を開けて、と繰り返されていましたから。すぐにバシェット先生がいらっしゃったので追い出されてしまいましたけど」

「ハイド様はその後…」

「旦那様がお帰りになるまでお待ちになっていて、旦那様と奥様に床に手を突いて謝っておられました」

「そんな…!」


床に手を突いて?


「なんてことを…。それでお父様は」

「ワザとではないにしても、お嬢様の身体に傷を付けるなんてありえませんから、ハイド様のことをお許しになっていません」

「酷い、そんなの。わたし、お父様に言いに行くわ」

「お嬢様」


わたしは、ベッドから降りようと身体を起こしましたが、マリアンヌに止められました。


「どうして邪魔をするの?」

「お嬢様は添木で叩かれ意識を失い、さらに喘息の発作で寝込んでおられたのです。旦那様がそう簡単にお許しになるはずがありません」

「でも、ワザとじゃないのよ」

「それは、分かっています。ですから、まだ全てが保留なのです」

「保留?」

「今は、ゆっくり休んで心を落ち着けて下さい。そして、ヴァルデス様と今後どうなりたいのかを考えて欲しいのです。このまま、お会いせずに婚約を解消なさりますか?」

「そんなの嫌だわ」

「では、ヴァルデス様と向き合うお覚悟が?」

「…今は、まだ」

「でしたら、少し我慢しましょう。まずは、手紙を読んでみませんか?それから、頂いたお菓子を食べましょう。お花もまだ元気に咲いているのもありますからお部屋に飾れますよ」


今後のことを考える。わたしはどうしたいのか。


「…手紙は明日にするわ。今日は何も考えたくないの。でもお菓子は頂くわ、お花も飾って欲しいの」

「畏まりました。すぐにご用意いたしますね」

「ありがとう」






お父様の部屋を訪れたのは、わたしがハイド様から頂いた手紙を読み、お返事を書いてマリアンヌに届けるようにお願いをした後でした。


「アリサ、もう身体は大丈夫かい?」

「はい、お父様。もうすっかり元気になりましたわ」


お父様は少し険しいお顔をされていましたが、わたしが笑うとホッと安心したようです。


「それで、話と言うのはヴァルデス伯爵の馬鹿息子のことか」

「まぁ、お父様。そのような呼び方はお止めください」

「何がだ。本当なら奴の話など一切したくないくらいだ」


お父様がこんなにお怒りになるなんて。


「お父様。わたしはハイド様との婚約を解消する気はございません」

「何を言っているのだ。わたしは、あんな奴にアリサを渡す気なんて無いぞ!!」

「お父様。わたしはハイド様を、お、お慕いしています。わたしが、ハイド様と一緒になりたいと思っているのです」

「うぅ…」


お父様は何か言いたそうですが、わたしが先に話を始めました。


「未だにハイド様との婚約が解消されていないのは、お父様がわたしの気持ちを尊重しようとして下さっているからではありませんか?」

「それは、当たり前だ。お前は立派な大人だ。自分で考え、決める権利がある」

「ですから、わたしは決めました」

「それが奴との婚約の続行か」

「そうです。今わたしがこの状況から逃げ、婚約を解消すれば、ハイド様は婚約者に傷を負わせた責任も取らずに逃げ出した卑怯者と言われるでしょう。それはわたしの望むことではありません。それに、わたしは自分に自信がないばかりに、全てを悪い方に捉えていました。わたしは、愚図でのろまで頭が悪くて可愛くない。ずっとそう思っていたのです」

「それはジャネットのせいか」


お父様は忌々し気な顔をしておられます。


「確かにジャネットにずっと言われてきました。でも一番悪いのは、全てを悪い方に捉え。前を向こうとしなかったわたしです。逃げて、全てを穏便に済まそうとしていたのです」

「それは仕方のないことだ。ずっと酷いことを言われ続ければ人は本当にそうなってしまう。それに、お前の状況に気が付かなかったわたしにも問題がある」

「そんなことありません。それに、わたしは運よく、家族にとても愛されて今日まで来ました。毎日可愛いと言って下さり、刺繍の出来を褒めて下さりました。わたし、ずっと聞いていたのに、本当に心からその言葉を受け入れていなかったんだって気が付いて、少し考え方を変えることが出来たのです」

「そうか、どのように変えたんだい?」


お父様のお顔が幾分優し気になりました。


「わたしはお姉様やお母様に似ているから、割と可愛いのではないかしら、とか。刺繍はマリアンヌより早く刺せるからそんなにのろまではないのでは、とか。家庭教師の先生が、わたしは既に高等学校の勉強をしていると言っていたので、頭はそんなに悪くないのでは、とか」

「うんうん、そうだ。その通りだよ」


お父様、ニコニコなさっていますね。


「ハイド様が一生傍に居たいと言って下さったのを信じてもいいのでは、とか」

「…チッ」

「舌打ちなさいました?お父様」

「いや」

「なさいましたね?」

「何も、奴のことなんか言わなくてもいいではないか」

「奴ではありません、お父様。わたしの大切な婚約者です」

「もし、奴の気が変わったらどうするのだ。婚約の解消を申し出てくるかもしれんぞ」

「…その時は、ハイド様を説得します」

「説得だと?」


少し険しくなっていたお父様のお顔が更に歪んでいます。


「はい。わたしもハイド様を沢山傷つけたと思います。謝って、縋ります」

「なんだとー!お前がそんなことをする必要はない!!」


お父様のお顔が真っ赤になってしまいました。


「お父様、わたしの一生に一度の恋かもしれません。少しくらいみっともなく追いかけてもいいではありませんか」

「いいわけない!貴族令嬢がそんなこと」

「ハイド様は、床に手を突いて謝ったと聞きました」

「それは…」

「貴族のしかも伯爵家を継ぐ嫡男であらせられる方が、床に手を突いて謝ったのです。わたしが縋るくらいなんだというのですか」

「それは、奴が悪いのだ」

「お父様、どうか今回だけは目を瞑り、わたしのしたいようにさせてくださいませ。そして、もしハイド様の気が変わり、上手くいかなかったら婚約を解消してください。今なら、わたしの身体が弱すぎたという言い訳も立つでしょう」

「……」

「お父様」

「……ハァ、わかった」

「ありがとうございます、お父様」


わたしがお父様に抱き付いたのは本当に久しぶりのことでした。






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