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短編のつもりが長くなってしまいました。少しの間、お付き合いください。
ご都合主義が至る所に散らばっていますが、サラッと流してくださるとありがたいです。
最初に、残酷な描写がありますのでご注意ください。
「アリサ……」
恐ろしい形相をしたハイドが、短剣を振り上げてわたしの喉に突き刺した。迷いもなく真っすぐとわたしの喉に。
ハイドが乱暴にわたしの肩を掴み、指が喰い込んで痛かった。ハイドの血走った目が恐ろしかった。ハイドが何を言っているのか理解出来なかった。
だからわたしはただ震えて竦むだけで、叫ぶことも出来ずにその短剣を喉に突き立てられた。
痛くて苦しくて、ヒューヒューと空気が抜けてまともに息が吸えなくて。わたしを押さえつけていたハイドもわたしと一緒に倒れ込んだ。短剣から手を放すこともなく。
倒れた勢いで更に深く短剣は刺し込まれ、声を発することもなくわたしは苦しみながら死んだ。
その死んだ姿を眺めているわたし。魂が身体から抜けたのに、天には昇れなかったみたい。地縛霊と言うやつかしら?それとも怨霊?
少し離れた所で、短剣を握ったまま動かないハイドと、ピクリとも動かない血まみれの塊肉を見ていたら、自分が死んでしまったことをようやく理解出来た。
それなのに、今のわたしは冷静で胸に沸き起こる感情もない。さっきは恐怖で声も出なかったのに。とても冷めた気持ちで、何かをどうにかしたいわけでもなく。
寝室のドアが開いて入ってきたのはジャネット。何故彼女が?ジャネットは小走りにハイドに駆け寄り彼の肩を抱いた。
「ハイド」
「ジャネット。俺はこれで…」
「そうよ、よく頑張ったわね。これで大丈夫よ」
「やっと、悪夢から、俺は」
「ええ、切れたのよ、アリサと。辛かったわね」
「…俺は、アリサを…してる。おれは、…ない」
「あなたを苦しめていたあの子は、もういないのよ。次は幸せになりましょ」
子供をあやすように彼に囁くジャネット。
なに?一体を何を言っているの?
何時からかハイドがわたしを睨むようになった。屋敷の庭師と私が庭で話をしているのを見て、凄い勢いでやってきて、庭師を投げるように突き飛ばしたわね。アレからだったわ。あなたがだんだん、わたしに苦しそうな顔を向けるようになったのは。
わたしが男性と話をすることを嫌がり、屋敷の使用人は全て女性になった。あなたはわたしが外に出ることを許さず、監禁するかのように屋敷に閉じ込めたのは、わたしが本屋のおじいさんと話しているのを見てしまったから。
頭が痛いと言って苦しんでいた時に、呼んだ名前はジャネットだった。わたしが傍にいるのにあなたはジャネットを探した。
わたしは絶望という暗闇に嫌と言うほど堕とされたけど、本当に絶望していたのはあなただったのね。やっぱりわたしがあなたたちの邪魔をしたんだわ。
ハイドはわたしを幸せで包んでくれたのに、わたしはあなたを苦しめることしか出来なかったのね。
彼の顔が見たくてわたしはしゃがみ込んだ。
もう、彼には会えなくなるのかしら?
そう思うと、一目だけでも見ておきたかった。泣いている顔でもいい。さっきのあの恐ろしい顔じゃなくて、あの憎しみと蔑みを宿した冷たい目じゃなくて。最後にあなたの顔を見たい。そう思って覗き込んだ時に、横目に見えた笑顔のジャネットにわたしはゾワリとした。
何故、あなたは嗤っているの?ジャネット。邪魔者がいなくなって嬉しいのね。彼を抱きしめてあげるのはわたしの役目ではないのね。
しゃがんで彼を目の前にして、初めてハイドの身体が震えているのが分かったわ。目をギュッと瞑って涙が止め処なく零れている。
そんなあなたを見るのは初めてね。わたしはあなたに何をしたのかしら。分からないわ、でもごめんなさい。きっとわたしが悪いのね。ごめんなさい。二人の邪魔をしてごめんなさい。
「違う…!」
そう言うと突然、ハイドが持っていた短剣をわたしの首から引き抜き、次の瞬間ジャネットの首から血しぶきが上がった。
「ハ、ハイド、どうし…」
ジャネットがスローモーションのように倒れていった。
「はう…ッ!!」
わたしが目を覚ました時、嫌な夢のせいで息切れをしていました。汗が滴り枕もシーツも濡れています。
「…あれ?夢?…」
何かとても恐ろしい夢を見たようです。僅かに残る記憶にはジャネット。
一生懸命夢の内容を思い出そうとしたけれど、あまり思い出せません。一番思い出さなくてはいけないところが黒い影に隠れてしまって。そして、どんどん夢の記憶が薄れていきました。
「なんだったんだろう」
気がつけば、腕には鳥肌が立ち指先は冷え切っていました。
ドアをノックする音が聞こえました。そして入ってきたのはマリアンヌ。
「おはようございます、お嬢様。今日は早起きですね」
「おはよう、マリアンヌ」
「今日も気持ちのいい朝ですよ」
マリアンヌはそう言ってカーテンをさっと開けました。先ほどまでの鬱々とした気持ちが晴れるような美しい朝。
わたしはアリサ・トーランス。伯爵家の次女で14歳。
身体が弱く喘息持ちのため、学校には通わず家庭教師に勉強を教わっています。ダンスは喘息の発作の心配もあって、あまり練習をしていないので苦手。
その代わり刺繍は大好きで、我が家のテーブルクロスはわたしの最近の自信作。
わたしの朝は冷たい水で顔を洗うことから始まります。きゅっと顔が引き締まるようで気持ちがいいし、すっきり目が覚めます。
マリアンヌは慣れた手つきでわたしの身支度を整えました。髪の毛は真ん中から右側と左側で編み込みをして後ろで纏め、残った髪の毛は下ろしたまま。
「今日はいつもの三つ編みじゃないの?」
「ええ、お嬢様。今日はちょっと違う髪型にしましょう」
「わたしは三つ編みがいいわ」
「お嬢様の美しい銀髪は、三つ編みだけでは勿体ないですわ。ほら見て下さい」
マリアンヌが掬い上げたわたしの髪の毛が艶やかに光っています。
「美しゅうございましょう?こんなに美しいんですから、偶にはいつもと違った髪型も楽しみませんと」
マリアンヌにそう言われれば、そんな気持ちになって来るから不思議ね。
「分かったわ。今日はこのままで」
わたしが笑うとマリアンヌも嬉しそうににっこりしてくれました。
「さ、お嬢様、朝食の準備が出来ていますよ」
マリアンヌがそう言ってドアを開けてくれました。
食堂には既にお父様もお母様もお姉様もいらっしゃっていました。
「おはよう、お寝坊のアリサ」
お姉様はいつもそう言ってわたしを揶揄うけれど、本当はすごく優しいの。
「おはようございます、お姉様」
「おはよう、アリサ。今日はいつもとちょっと違うな」
「髪の毛を下ろしているのね。すごく可愛いわ」
お母様がニコニコとして、髪型を褒めて下さったわ。
「ありがとうございます、お母様」
「アリサ、わたしも可愛いと思っているぞ」
「まぁ、ありがとうございます。お父様」
わたしは恥ずかしくて少し俯いてしまいました。
わたしは大好きなフルーツをいつも一番後に食べます。今日は苺とキウイ。フルーツランキングで同率一位を数年独占しているわたしの大好物。どちらを先に食べようかとじっと見比べて悩んで手が付けられません。
「アリサ」
「はい、お父様」
漸く苺を先に食べようと決めた時にお父様から呼ばれました。
「実はお前に縁談が来ている」
「え?」
「あら」
「お相手はヴァルデス伯爵の嫡男で、ハイド様だ」
「まぁ、素敵じゃない。ハイド様ならあなたにぴったりよ」
突然のお言葉にわたしは固まってしまいました。お姉様の言葉もわたしには理解出来ません。
「わ、わたしにですか?」
「そうだ」
「お姉様じゃなくて?」
「なんでリリアなんだ。リリアにはもう婚約者がいるだろう」
「そ、そうですけれど。何故、わたしなのですか?」
「アリサ、何を言っているのだ」
「だって、わたしはお姉様みたいに可愛くないし、頭だってよくないし愚図でのろまだから…」
「なんだって!誰がそのようなことを言うんだ」
「そうよ。アリサちゃんは可愛いわよ。それに、全然のろまじゃないわよ」
「でも…」
「わたしとそっくりのアリサがなんで可愛くないのよ。それじゃわたしもブスなの?」
「そんなことないわ。お姉様はとても可愛くて綺麗よ」
「ならアリサも可愛くて綺麗よ」
「そんなことは…」
お姉様は、わたしと同じ銀髪に淡い紫の瞳でピンクの唇は可愛らしく、誰もが振り返る美しい女性です。とてもお優しく自信に溢れていて内面の美しさと相まって、いつも輝いていらっしゃいます。でも、わたしはそうではありません。
皆が否定してくれたけど、それは家族だからだわ。だっていつもジャネットが言うもの。あんたは本当に愚図でのろまねって。
「とにかく先方が本人も連れて、これからお見えになるから、そのつもりでいなさい」
「え?今日?」
「そうだ。顔合わせをしてみて、お互いが良いと思えば婚約の手続きをする予定だ」
「ふふ、アリサちゃんはこんなに可愛いんですもの。相手のご子息も絶対にあなたに夢中になるわよ」
「ハイド様って言ったら、とても格好良くて優秀で憧れている子が沢山いるのに、女の子を全然寄せ付けない硬派で通っているのよ。何人も婚約の申し込みを断られているって聞いたことがあるわ」
「そんな方が、わたしを?無理ですわ、わたしなんてとても…」
「無理なもんか。こんな器量良しの美しい娘を、欲しがらない方がおかしいんだ」
「そうよ、それにまだ婚約しているわけじゃないの。嫌なら断れるんだから心配する必要はないわよ」
「断るなんて!」
わたしはお姉様の言葉に吃驚してしまいました。そんなことわたしには出来ません。
「断るなんてとんでもない話だな。ヴァルデス伯爵のご子息なら婚約者として申し分ない。無理にとは言わんが、わたしとしてはこの話はありがたく受けたいところだ」
お父様が思いっ切り本音を漏らしているわ。はぁ、どうしましょう。
ヴァルデス伯爵がいらっしゃったのはお昼を過ぎた頃でした。立派な馬車から降りてこられたヴァルデス伯爵は、長身に黒髪と蒼い瞳が美しい惚れ惚れする美丈夫です。次に降りてこられたのがハイド様。伯爵に似てスラッとして背が高く、黒髪に蒼い瞳で伯爵より目元が優しく見えます。
わたしは一目で心を奪われてしまいました。それと同時に、こんな素敵な方がわたしを選ぶはずがない、と確信致しました。だって、本当に素敵で、絶対に女性に人気があることが分かりますもの。
わたしなんて選ばなくても、美しく賢い女性は沢山います。きっと間違われたのだわ。わたしはなんだか気が重くなって俯いてしまいました。
「ようこそおいで下さいました」
お父様が近づいて挨拶をしました。
「突然の訪問を快くお受け下さりありがとうございます」
「なんの。このような素晴らしいお話ならいつでも大歓迎です。ははは」
そう言ってお父様はお二人を屋敷の中に案内しました。わたしは俯いたままチラッと顔を上げると、横にハイド様がいらっしゃいました。
「あ…」
ハイド様と目が合うと、優しく、本当に優しく微笑んでくださいました。
「ハイド・ヴァルデスです。今日はお時間を下さりありがとうございます」
「は、はい。こちらこそ、いえ、アリサ・トーランスです。よ、よろしくお願いします」
わたしは恥ずかしくて再び俯いたまま、顔を上げることが出来ませんでした。
お父様とヴァルデス伯爵が話をしている間、わたしはハイド様と二人で中庭を散策することになりました。
わたしは、緊張のあまり心臓がどきどきして、顔が赤くなっているのが分かりました。恥ずかしいので俯いて、ハイド様の少し後ろを歩いています。
「トーランス令嬢」
「は、はい!」
「はは、そんなに緊張しないでください」
「え、あ、すみません、ヴァルデス様」
「よろしければ、僕のことはハイドと呼んでください」
「は、はい」
心の中では既に呼んでいます。
「そ、それでしたら」
顔を上げてハイド様を見ると、また顔が赤くなるのを感じました。
「わたしのことはアリサと」
「ありがとうございます。アリサ」
アリサ。ハイド様がわたしのことをアリサと呼んでくださったわ。
「こちらの庭はとても美しいですね」
「ありがとうございます。い、今は早咲きのチューリップがとても可愛らしく咲いているのです」
わたしは目を合わせることも出来ずに、一気に話しました。そんなわたしを見てハイド様はクスクス笑っています。
「アリサ、僕といると落ち着かないみたいですね」
ハイド様に指摘されて、わたしはどうしたらいいか分からなくなりました。
「申し訳ありません。わたし…!」
情けなくて涙が出てきましたが、絶対零さないように必死に耐えました。
「あ、アリサ。すみません。決して責めているわけではないのです」
ハイド様は慌ててわたしの手を取りました。
「え?」
わたしは吃驚して、涙も悲しみも一気に引っ込みました。顔を上げると目の前に困った顔のハイド様。
「僕が焦り過ぎましたね。ゆっくりでいいのです。少しでも僕に興味を持ってもらえればと思って、僕が急いでしまったのが悪かった」
「そんなことありません。わたしがこんなんだから」
「そんなことを言わないでください。僕はあなたが心を開いてくれるまで待てますので。いつまでも待てますので」
とても穏やかでお優しい方だわ。それに、とても女性の扱いに慣れていらっしゃるような?どこら辺が硬派なのかしら?
その後、わたしたちは婚約をしました。わたしにお断りする勇気はありませんし、ハイド様ははっきりと婚約したいと仰って下さいました。
わたしは全く自信のないダメな人間です。いつか、ハイド様がわたしの本当の姿に気が付き失望された時には、すぐにわたしから婚約の解消をお願いしよう。それが一番いい方法だとわたしは思いました。
翌日、お姉様が学園から帰ってくるなり、わたしの部屋に飛び込んでいらっしゃいました。
「アリサ、ただいま」
「まぁ、お姉様、お帰りなさいませ」
「アリサ、良いこと聞いてきたわ」
「まぁ、何でしょう?」
「ふふふ、ハイド様のことよ」
「ハイド様の?」
お姉様はアラベニア高等学園に通われています。お姉様は2回生。そして、ハイド様は1回生でわたしより2歳年上です。
「実はね」
お姉様がちょっとニヤニヤしながら勿体付けて話し始めました。
「ええ」
「ハイド様は」
「はい」
「あなたに一目ぼれしたんですって!」
「え?」
「ひ・と・め・ぼ・れ」
「嘘!」
「本当よ」
だって、わたしはハイド様とお会いしたことなんてありません。
「先週の学園祭よ」
「学園祭?」
「アリサはお父様とお母様と来たでしょ?」
「あ」
先週のアラベニア高等学園の学園祭、一般公開の日。確かにわたしはお父様とお母様と一緒に、アラベニア高等学園に行きました。一般公開と言っても、招待された人しか行くことの出来ない特別な日です。
わたしはもう少し体力が付けば高等学園に通えるかもしれないと言うこともあり、下見も兼ねて見においでとお姉様から招待状を頂いたのです。
人が沢山いる場所にはあまり行ったことがなかったので、学園に着いた時には圧倒されてしまいました。皆様、キラキラと輝いていて眩しく、青春を謳歌されているのだと思うと羨ましくなりました。
お姉様のクラスは詩集を展示されていました。素晴らしい詩を拝読させて頂くと、皆様の教養の高さが窺えます。他にも、楽器の演奏会や武術大会なども開かれていて、本当に素晴らしい学園祭でした。
「ハイド様はあなたを見掛けて、一目でお心を奪われてしまったそうよ。わたしと話をしているあなたを見て、わたしの妹だと知ったんですって」
わたしはお姉様のお話を聞いて、顔が真っ赤になってしまいました。ハイド様がわたしに一目ぼれ?
「でも、何故そんなお話をお聞きになったの?」
「ふふふ、食堂でハイド様の周りが盛り上がっていたのよ。婚約者が決まったって」
え?普通はそんなこと大きい声で言うものなのかしら?
「噂だからはっきりは分からないけど、ハイド様が一日中ニヤニヤされているから、ご友人方に理由をしつこく聞かれたらしいわ」
「まぁ」
「今日は学園中その話でもちきりよ。わたしのところにも何人も聞きに来たわ」
「何を?」
「あなたのことよ」
「わたし?」
「そうよ。実は学園祭の後大変だったの。特に男性陣からあなたのことを聞かれて」
「な、なんでわたしのことなんか聞くの?」
「当たり前でしょ。突然妖精のような可憐な少女が現れたら、誰だって知りたくなるわ」
「ま、まぁ、お姉様ったら何を仰っているの?」
「ふふ、わたしの妹は本当に可愛い。自慢の妹よ」
「お姉様ったら。そう言うのを欲目って言うのですわ」
「本当なんだけどな」
「ふふふ、ありがとうございます。お姉様」
「それでね、学園祭からまだ1週間しか経ってないでしょ?」
そうだわ。たった1週間しか経っていない。
「ハイド様は焦ったんだわ。他にも求婚してくる人がいるかもと思って。それで、昨日急遽いらっしゃったのよ」
そうなのかしら?もしそうだとしたらとても嬉しいけれど。
「絶対そうよ。だって、最近お父様が叫んでいたもの。また来た!って」
「また来た?」
「釣り書き」
「そうなのですか?」
「わたしに来るわけないんだから、絶対あなたに来ているのよ」
わたしみたいな地味な子に、そんな有難いお話が本当にあるのかしら?でも、お父様には何も言われなかったから、お姉様の勘違いかもしれないわね。
しばらくお姉様と楽しくお話をしていると、突然勢いよくドアが開きました。
「キャ」
そこにいたのは、肩までで切りそろえられた濃いオレンジの髪に、茶色い瞳の可愛らしい容姿をしたジャネット。
「な、何?」
「どういうこと?」
「どうしたの?ジャネット」
「どういうことよ!」
「ジャネット。あなた勝手に人の部屋に入ってきて何しているのよ」
わたししかいないと思っていた部屋にお姉様がいたことで、ジャネットは驚いて少し冷静になったようです。
「リリア、いたの」
「ジャネット、何度も言うけどここはあなたの家じゃないの。呼ばれてもいないのに勝手に入ってこないで」
「わたしはアリサに用があるのよ」
ジャネットがわたしを睨み付けました。
「わたしに?何かあったの?」
「あんた、ハイドと婚約したの?」
「え?ええ」
「どういうつもり?」
「どういうつもりって何のことよ」
お姉様にも訳が分からないようです。
「リリアは黙ってて」
「何ですって?」
「わたしはアリサと話をしているのよ」
「はぁ?」
お姉様、ダメよ。そんな品のない言葉を使っては。
「ハイドはわたしと結婚するのよ」
「え?」
「馬鹿なことを言わないで、何であなたなんかと」
「リリアは黙ってて」
「どういうこと?」
わたしはあまりの言葉に理解が出来ませんでした。
「わたしたちはいずれ結婚する予定なのに、何であんたが婚約しているのよ!」
「ジャネットとハイド様が?」
「そうよ。彼が本気であんたとなんかと婚約すると思っているの?あんたみたいな」
「ジャネット!あなたそれ以上余計なことを言ったらお父様に言うわよ!」
「ふん。とにかく、さっさと婚約を解消して。いいわね」
そう言い放ってジャネットは出ていきました。
「何よ、あれ」
わたしは身体が震えていました。
「お姉様、どういうことでしょう?」
わたしは2人の仲を邪魔しているの?
「気にすることないわ。絶対あの子の嘘よ。もういい加減分かっているでしょう?あの子がとんでもない嘘つきだってことは」
嘘つき。そうなのかしら?わたしには分からないわ。
「まず、ハイド様が申し込んでくださったのよ。それでも、ジャネットと結婚する予定なら完全に裏切りよ。理由はどうあれ、婚約破棄をして慰謝料をがっぽり貰えばいいのよ」
婚約破棄。そうね。もともと、わたしもいつでも婚約を解消するつもりでいるのだから、ハイド様とジャネットがそういう関係なら、わたしからハイド様に婚約解消を申し入れればいいのだわ。
しっかり考えがまとまってくると、身体の震えも治まってきました。でも、本当のところはどうなのでしょうか?さっきまでの幸せで高揚していた気持ちが、すっかり沈んでしまいました。
「何にしても今日のことはお父様に言わなきゃいけないわ」
「待って!お姉様」
「なぁに?」
「ジャネットとハイド様のことは言わないで」
「そうはいかないわ。ただでさえそのことしか言っていないんだから、誤魔化すことも出来ないし。しかもあんな大きな声を出して、屋敷の使用人の耳にだって入っているわ。わたしが言わなくたって誰かが言うわよ」
「でも、何か誤解があるのかもしれないし、まだ何も言わないで欲しいの」
出来れば、ハイド様が悪く言われるようなことにはなって欲しくない。
「…分かったわ。でもわたしは今日のことを忘れる気はないわよ」
お姉様はニコッと笑って部屋を出ていかれました。
「はー、なんだったのかしら?わけが分からない」
ハイド様はジャネットと結婚をするつもりなの?それなら、昨日は何だったのかしら。
「考えても仕方がないことよね。最初からわたしが選ばれるなんて思っていなかったんだから」
ジャネット・ティンバーン男爵令嬢。
わたしのお母様とジャネットのお母様が親友だったので、わたしとジャネットは幼い頃からずっと一緒でした。
ジャネットのお母様が亡くなってからも、変わらずに屋敷に遊びに来るジャネットを、お母様はいつも快く迎え入れていました。ジャネットもお母様やお父様の前ではわたしに優しいので、わたしがいつも何を言われているかは知りません。
わたしも、そんなことをお母様に告げ口して、お母様に信じてもらえなかったら、幻滅されたらと思うと言うことも出来ずに口を閉ざしています。
ですが、わたしはジャネットが少し苦手です。いつも、わたしのことを愚図でのろまでバカで邪魔者と言って嗤うから。
お友達が遊びに来てくれた時、わたしが飲み物をこぼしてしまったら「あんた本当に愚図ね」と言いました。ジャネットがわたしにぶつかったからなのに。
蝶々を捕まえると言って走り出したジャネットについて行こうとして、発作を起こしてしまったわたしに「あんたって本当にのろまで、邪魔ね」と耳元で囁かれました。
わたしのお気に入りのリボンは「あんたには似合わないわ」と言って持って行ってしまうし、学校に通えなかったわたしに「あんたは愚図でのろまだし、頭も悪いんだから、学校なんて通えないわよ」といつも言っています。
本当にそうだと思います。わたしは愚図でのろまで頭も悪くて、体も弱いから家族にも迷惑ばかり掛けています。きっと、わたしは学園にも通うことも出来ないかもしれません。
気が付けばわたしの周りにはジャネットしかお友達が居なくなってしまいました。
キャシーもニーナもジョアンヌも、あまりお話をしてくれなくなり、わたしがお手紙を出しても会いに来てくれなくなりました。だから、わたしのお友達はジャネットだけ。
ふふふ、うそ。本当はお友達はジャネットだけじゃないのです。
わたしが中庭を散歩していた時に、門の前で寂しそうに鳴いていたマクロ。小さくて汚れていて痩せていた子犬のマクロ。
お母様にお願いをして、ミルクをあげ身体を洗い、元気になるまでお世話をしました。飼ってあげたかったのですが、わたしには喘息があり犬の毛は身体には良くないと言われ飼うことを諦めました。
マクロが元気にならなければいいのに。そうすれば、ずっと一緒に居られるのに。そんなことを考えてしまうわたしは自分勝手な人間です。
結局、マクロも元気になるといつの間にか居なくなり、わたしが酷いことを願ったせいだと泣いてしまいました。その日の夜に喘息の発作も起こして。
でもこうして、今でも時々遊びに来てくれるのです。
「マクロ」
すっかり大きくなったマクロはとても穏やかな性格で、わたしを見つけると尻尾をブンブン振ってわたしに身体を擦り付けてきます。
「ふふふ、今日もとっても元気ね」
マクロが満足するまで撫でてあげると漸く落ち着いて、座ったわたしの足に頭を乗せてきました。
草の上に座るなんてお行儀が悪いかしら、と最初は思いましたが、芝生のチクチクした感じや冷たさがとても面白くて、それを教えてくれたマクロに今では感謝をしています。
「マクロ、今日は聞いてもらいたい話が沢山あるのよ」
くぅーん、と返事をしてくれるマクロ。本当に可愛いわ。
それから、わたしは昨日から今日までにあった出来事をマクロに話しました。マクロは何も言ってくれませんが、時々わたしの手を舐めて励ましてくれているようです。
「ジャネットは、わたしのことが嫌いなのかもしれないわ。どう思う?」
相変わらずマクロはくぅーん、としか言ってくれません。でもきっと、大丈夫だよ、と言ってくれているのだと思います。