非通知設定の不在着信
初めに電話があったのはお昼の12時ぴったり。
お昼休みになるタイミングでちょうど仕事がひと段落した。外に食べに行くか、社員食堂に行くか悩んでいると振動音が聞こえた。デスクの上に置いていたスマートフォンが震えていた。
画面を見ると『非通知設定』と表示されている。電話に出るかどうしようかと悩んでいるうちに切れてしまった。
「お昼ご飯買いに行くけどどう?」
「……うん、行く」
同期の葵に声をかけられた私は気にしないことにした。私たちはお財布だけ持ってお昼ご飯を買いに会社を出た。
会社を出てすぐのところに黒いスウェットを着た男の人がいた。無精髭をはやしたその男の人は横を通り過ぎる私たちをじろじろと見てきた。なんだか気持ち悪かった。
会社の近くのパン屋さんでサンドイッチとコーヒーを買う。小さなお店なんだけどとっても美味しい。私はたまごサンド、葵はツナサンド。お互いに好きなのを買って会社に戻る。
パン屋さんからの帰り道、さっき見かけた変な男の人の姿はなかった。少しほっとした。
「さっきいた男の人、なんだか怖かったね」
会社に入ってから葵に言うと不思議そうな顔をされた。
「え、誰かいたっけ?」
私しか見てなかったのかと少しもやっとした。
次に電話があったのは一週間後の午前11時ぴったり。
その日は朝から取引先に商談に行っていた。商談の帰り道、カバンの中で電話が鳴った。画面にはまた『非通知設定』の文字。気持ち悪いけれどとりあえず出てみた。
『世論調査にご協力をお願いします』
世論調査だった。無機質な女性の音声アナウンスが流れてきた。おかしな電話じゃなかったのでほっとした。でも、見えない疲労感が覆いかぶさってくるのを感じた。私はアナウンスを無視して電話を切った。
こういうのってどこから電話番号が漏れるんだろう。なんだか嫌だなあと思う。こないだの電話も世論調査だったのかもしれない。
スマートフォンを鞄にしまい再び歩き出す。地下鉄に乗るために地下に向かう階段を降りる。世論調査の音声が頭から離れず胸の中が曇天のような気分だった。そんな時だ。
私は思いっきり階段で躓いた。
体が前に倒れる寸前、なんとか足を前に出すことができた。でも落下する勢いを止めることはできなかった。私は30段ほどの階段を前のめりになりながら大股で駆け降りた。
「大丈夫ですか!」
階段を降り切った時、たまたま近くにいた駅員さんが駆け寄ってきてくれた。幸い転ぶことなく着地できた私はほっとして地面に座り込んでしまった。
駅員さんに引っ張り起こしてもらった時、階段の上の方から舌打ちのような音が聞こえた。すぐに見上げたけれどそこには誰もいなかった。
「あの、今、何か聞こえましたよね?」
駅員さんが不思議そうな顔をして私に聞いてきた。聞こえたのは私だけじゃなかった。
「舌打ちみたいなのが聞こえましたよね?」
念のため私も駅員さんに聞いてみた。
「……聞こえましたよね」
私たちは顔を見合わせてから再び階段を見上げた。誰もいないはずの階段からプレッシャーのようなものを感じた。私たちは急いでその場を後にした。
次に電話があったのは、またまた一週間後の午前10時。事務処理をしていたらデスクの上に置いていたスマートフォンが震え出した。画面を見たらまた『非通知設定』の文字。
会社の近くを選挙カーが通っている。遠くから微かに「タカハシ、タカハシに皆様の清き一票を」と拡声器を通した声が聞こえてくる。清き一票ってよく言うけど、じゃあ汚れた票ってなんだろう。
どうせ世論調査だろうと思いながらもとりあえず電話に出てみた。
『……………………』
無言だった。世論調査のアナウンスが始まることもなく、ただただ無音。いたずら電話みたい。だるいなあと思いながら電話を切った。
電話を切る時、『タカハシに』と聞こえた気がした。一瞬すぎてよくわからないけどそんな気がした。
次の電話もやはり一週間後。時間は午前9時。始業時間になり仕事に取り掛かろうとした時だった。デスクの上に置いたスマートフォンが震え出し、またか、と思った。見なくてもわかる。どうせ『非通知設定』だろう。
着信を無視してなんとなく視線を上げる。窓際の壁にもたれながら先輩が電話をかけているのが見えた。先月、部署の飲み会の帰り道で突然告白してきた二つ上の先輩。
仕事はできるが女を下に見る癖がある彼を私はあまり好きじゃない。告白はその場で丁寧にお断りした。
「お前みたいな奴が調子に乗りやがって。後悔することになるぞ?」
先輩はドスの効いた声でそう言うと私を睨みつけながら帰っていった。たった数分前に愛の告白をした相手によくそんなセリフが吐けるな、付き合わなくて本当によかった。そんなことを思いながら先輩の背中を見ていた。
「おーい、中河。いるかー?」
どこかで部長が先輩を呼ぶ声がした。先輩が慌てて電話を切るのが見える。するとすぐに私のスマートフォンが震えるのをやめた。部長の声がする方へ走る先輩を見ていると、いつの間にか私の手は震えていた。
先輩の嫌がらせなのかもしれない。でも違うかもしれない。正体不明の電話は怖い。でもその犯人が身近で嫌な存在だとそれもそれですごく怖い。とりあえずもっと気をつけようと心に決めた。
やっぱり5回目の非通知設定の電話は、先輩が電話の犯人かもしれないと思った一週間後だった。時間は午前8時。家で会社に行く支度をしている時だった。
トイレを済ませてリビングに戻ると非通知設定からの着信を受けているところだった。テーブルの上でスマートフォンが震えていたけれど手を伸ばす前にすぐに切れてしまった。こんな朝早くにかけてくるなんて。
子どもの頃に見たドラマに、ストーカーが女性の家の近くから電話をかけているシーンがあった。ありきたりなシーンだけれどとても印象的だった。ふとそれを思い出した私はカーテンを少し開けて窓の外を見た。
いた。少し離れた電信柱の影からこちらの様子を伺う男の姿が見えた。先輩かどうかはわからない。でも絶対に誰かいる。私は風邪をひいたことにして会社を休んだ。
電信柱の影にいた男はいつの間にかいなくなっていた。お昼休みの時間に葵に電話をして確認すると、この日先輩は会社に遅刻したそうだ。
『おめでとうございます! あなたは豪華プレゼントが当たる抽選で当選しました!』
会社を休んだ一週間後の20時。非通知設定の電話がかかってきた。
翌日から出社した私と入れ違いで先輩はこの一週間ずっと会社を休んでいる。理由は知らない。知りたくない。常に誰かに見られているような気がする不快な一週間だった。
ストーカーされているかもしれない。この思いからくる恐怖は時間とともに怒りに変わっていった。どうして私が嫌いな男のせいでこんなに不愉快な思いをしないといけないの? この思いが私を日に日に苛立たせた。
次に電話がかかってきたら怒鳴り散らしてやる。そう思って今か今かと待ち構え、やっとかかってきた、そう思ったのに。
録音された無駄に明るい女性の声。当選? どこがよ。どちらかと言うとハズレでしょう。私はくだらない音声電話を切った。
先輩が会社を休んで二週間が経った。
相変わらず私は常に誰かから見られている気がしてならない。
「大丈夫?」
お昼休みにお弁当を食べていると葵が心配してくれた。
「大丈夫大丈夫、気にしないで。ちょっと疲れてるだけだから」
先輩に片想いをしている葵には絶対に相談できない。これは私の問題なんだから自分でちゃんと解決しなきゃ。あ、でも、葵のダメ男好きな性格もなんとかしたい。ストーカーの件が終わったら着手しなくちゃ。絶対先輩に葵は渡さない。
葵は私より一つ年上だ。でも同じタイミングで転職してきたから私たちはお互い同期だと思っている。私たちはいつの間にか仲良くなっていた。
私と違って恋多き乙女の葵。何度泣かされてもいけない恋やダメ男に引っかかっている。
「こればっかりはどうにもならないのよね」
居酒屋のカウンターでそう笑う彼女の目はどこか儚げに見えた。
待っててね。絶対にもっといい男と巡り合わせてあげるから。私も彼氏はいないけど、いい男集めて合コンを開いてみせる。私は心に固く誓った。
その日の夕刻だ。先輩の訃報が届いたのは。
死因は病死だった。
先輩が遅刻した日、先輩は朝から病院に行っていたそうだ。ここ最近の休みの理由は入院していたから。病名はよく聞くやつだった。手術したものの発見が遅かったらしい。
訃報を聞いて葵は泣いていた。葵を慰めながら私は新たな恐怖を抱いていた。先輩がストーカーだと思っていたのに……
その日の仕事帰り、スマートフォンが鳴った。ぼんやりしていた私は何も考えずに電話に出ていた。
『明日の予約なんですがまだ変更できますか?』
女性の声だった。
『ちょっと都合が悪くなって行けそうにないんです。来週の同じ時間でお願いしたいんですが……あれ? あの聞いてます?』
「どちら様ですか? たぶん電話番号を間違えていると思うんですが」
早口で話す女性の勢いに少し圧倒されつつも私は電話相手に言った。
『いいえ、間違えてません。間違える訳がありません。だって履歴からかけてますから』
何故か強気の電話相手に私はだんだん腹が立ってきた。外にいるのだろうか? 女性の声の後ろに消防車のサイレンの音が聞こえる。
「どなたと間違えているのか分かりませんが失礼します」
私は電話を切った。切ったのに消防車のサイレンの音が背後から聞こえた。振り向こうとした時、私の横を後ろから勢いよく消防車が駆け抜けていった。大きなサイレンの音とともに。
気になって振り向いてみた。消防車がやってきた方向のずっと向こうの方に、電話を耳に当てた髪の長い女性が立っているのが見えた。彼女はなんとなくこっちを見ているような気がした。
スマートフォンの着信履歴を見ると『非通知設定』と書かれていた。
先輩が亡くなって一週間が経った。相変わらず誰かの視線を感じる。でも特に何も起こらない。もしかすると私の気にしすぎなのかもしれない。
葵はまだショックから立ち直れていない。食欲がないらしく顔が少し窶れている。
「大丈夫! もう立ち直ったから」
無理に作る笑顔が見ていて痛々しい。先輩は本当にダメな男だ。死んだ後もこんなに葵を苦しめるなんて。本当にダメな男だ。
新しい男を見つけるために私たちは来月街コンに行く約束をした。
そんな日の22時。家でぼんやりテレビを見ていると電話が鳴った。画面を見ると『非通知設定』と書かれていた。今度は誰がかけてきたのか、怖い反面すごく気になった。10コール無視しても切れなかったので私は恐る恐る電話に出てみた。
『……………………』
無言だった。向こうから話しかけてくる気配はない。
「どちら様ですか?」
我慢できなくなり聞いてみた。緊張していたので声は小さくなってしまった。
『……………………』
相手に反応はない。でも、相手は人だと思う。息遣いというか、電話越しに人の気配を感じる。
「あの、切りますよ?」
思い切って大きな声で聞いてみた。そして気がついた。声がハウリングしている。
リビングで座る私の背中を冷たいものが流れる。思考が停止するのをなんとか堪えて耳を澄ませてみる。すると微かにテレビのような音が聞こえる。もちろんそれは私の目の前で流れるテレビと同じような音が。
私は目を見開いたまま動けなくなった。どうしたらいいかわからないまま私の目には涙が溢れた。涙のせいで視界がどんどん滲んでいく。見えないけれど嫌というほど背後に何かを感じる。
どれくらい時間が経ったかわからない。私が身動き取れず固まっていると、無言のまま電話は勝手に切れた。画面を見て電話が切れたことを確認した私はそのまま床に崩れた。
緊張の糸が切れ、私はもう訳が分からなくなった。無意識のうちに呼吸が浅くなっていたらしい。私は倒れたまま乱れる呼吸をなんとか落ち着かせようとした。
とりあえず今日は乗り切った。次に電話がかかってくるとしたらきっと一週間後。なんとかそれまでに逃げなきゃ。逃げなきゃ次は本当にやばい。
「残された時間が一週間だなんて短すぎるよ」
泣きながら思わず独り言が出た。
『誰が一週間待つって言ったの?』
突然、目の前のスマートフォンから声がした。聞いたことのない声が。性別も年齢もわからない、抑揚のない冷たい声だった。
私は思わず息が止まった。起き上がらなきゃ、起き上がらなきゃいけないのに怖くて全く動けない。
ひたひたと後ろから近づいてくる足音を聞きながら私は無言で泣き続けた。いつの間にかテレビは消えていて、暗い画面には醜く泣きじゃくる私の顔が映っていた。