9、根が詰まる
自分の世界が変わった日の事を、ドロシー・ラングルは今でも覚えている。
優しかった両親、そして、まだ見ぬ弟か妹――みんな、大雨の日にいなくなった。
ラングル子爵家の領地や資産もほぼ消失し、残されたドロシーは修道院に入れられる筈だった。
「髪を切らないといけないね」
家族の埋葬を終えた後、迎えに来た修道女はそう言った。
母譲りの金の髪を、母が整えてくれていた髪を――思い出まで喪う事に恐怖を感じた少女は、思わず逃げ出した。
「助けて……助けてお母様」
墓の前で泣いていたドロシーを、優しく抱きしめる腕があった。
――これが、マーゴット・トリアン伯爵夫人との出会い。
トリアン伯爵夫人は、娘の出産で心に傷を負っていた。
両親のどちらとも似ない、日陰でしか生きられない子――周囲から慰めの言葉を受ける度、自分が責められているように感じていた。
彼女の恐怖の対象は、知人、友人、家族と広がっていく。
「キャロルの目を見る度に、私を恨んでいると思うと……」
あの子にこうしてあげたいけれど、会うのが怖い――ドロシーの世話をしながら、夫人は思いの丈を吐き出す。
夫人は会えない娘を、ドロシーは失った母を。
求めていた存在の代用として、都合が良かったのだろう。
実の娘を放置して、他所の子どもを可愛がるのか――そう指摘する者もいた。
しかし、夫人が『あの子を産んでしまった自分が悪い。自分が死んでしまえばよかったのに』と泣けば、誰もが口を噤む。
トリアン伯爵は、妻の出産前後に傍で守れなかった過去に負い目があって、夫人の振る舞いを諫められなかった。
長子のデニス共々、自分達がその分娘を大事に育てればいいと、夫人達から距離を置いた。
そうして、歪な母娘の世界は形成された。
初めてキャロルと出会った時、ドロシーは運命を感じた。
白い髪に赤紫色の瞳――神秘的な美しさを見せる少女は、とても弱くて、可哀想な存在に思えた。
実の母からも避けられる存在、日の光を浴びる事の叶わぬ一生。
口さが無い者達は『伯爵家を乗っ取ろうとしている』なんて言うが、そうじゃない。
自分は、この可哀想な彼女の『姉』になるだけ――キャロルの存在は、天の思し召しなのだと。
それから、キャロルの代わりとして夫人に付き添い、社交に励んだ。
しかし、顔を合わせる他家の夫人や令嬢達は、ドロシーを遠巻きにする者ばかり。
ビクトリア・グローブス等、キャロルに話し掛けていた者を茶会に誘っても、みんな断ってしまう。
ドロシーの話を聞いてくれるのは、キャロルの婚約者――アンヘル・ペダルファだけであった。
アンヘルは、キャロルへの好意や同情と過去に傷付けた体験から、婚約者との距離を測りかねていた。
『外へ出られない彼女に適切な話題や手紙は何か』『花を送っても傷つけないか』等、自分の行動一つに悩み、動けないでいた。
そんな彼にとって、キャロルの『姉』として熱心に助言をくれるドロシーの存在は救いとなった。
キャロルの事をよく知り、キャロルと違って気を遣わなくていい相手――『身内だから』という甘えで、ドロシーと行動する機会が多くなった。
周囲には『二人の距離が近すぎる』と指摘をする者もいたが――全て、キャロルやアンヘルを妬む者達の戯言だろうと、聞き流していた。
キャロルがデビュタントを終えた頃、トリアン伯爵はドロシーの将来について言及した。
いつまでも伯爵家に置いておくわけにはいかない。どこかに嫁ぐか、奉公に出るか、それとも――
ドロシーを手放したくなかった夫人は、長子と結婚させればいいと思いつく。
しかし、彼女の願いは叶わなかった。
長子であるデニスは、伯爵家の将来を考えて相手を選ぶ義務がある――トリアン伯爵は譲らなかった。
ドロシー個人としては、いつも「お兄様とは呼ばないでほしい」と素っ気なく返すデニスの事は、特に好きでもなかった。
しかし、彼と結婚すれば、自分は『マギーお母様』の本当の娘で、キャロルの本当の『姉』になれる――それが、とても素晴らしい事のように思えた。
それから、夫人はデニスとドロシーの仲を取り持とうと画策した。
他家から見合いの話が出れば断るように仕向け、何かにつけてデニスを茶に誘う。
しかし、デニス本人は、『気に入る相手が現れたら申し込むし、なければ父に任せる』と返答するのみであった。
デニスが特定の女性と親しくする素振りを見せずに月日が経ち、夫人は、とうとう息子がその気になったと確信していた。
あの子は照れているだけ、切っ掛けがあれば話が進むだろうと。
そして、王太子妃のお披露目となる夜会に目を付けた。
この場で若い男女が王太子夫妻と共に踊れば、将来を誓った仲だと認識される。
夫人は、二人を祝福する為にドレスを仕立てる事にした。
「そうだったわ、お兄様の瞳のような素敵なドレスなのよ?」
母娘の茶会、話題に上がったのは、次の夜会で着るドレス。
ドロシーは嬉しさの余り、つい声を弾ませる。
(これで、私も、本当の家族になれるわ)
デニス・トリアンとの結婚は、ドロシーにとって、義務であり手段であった。
マーゴット夫人と夜会の準備を話し合っている時、ふと、キャロルの視線が気になった。
彼女が見ていたのは、先程整えた花壇。
茶会の間、彼女は頻繁に窓を見ていた。
(本当に気に入ってくれたのかしら? 良かったわ)
この応接室からも、キャロルの部屋からも、向日葵がよく見えるように植え替えたのだ。
向日葵は、ドロシーの一番好きな花。
太陽のように眩くて、見ているだけで元気をもらえる花。
(……私も、あの花のように、マギーお母様やキャリィの心を慰められるかしら)
深く、深く、根を下ろし、この場所で咲き誇る――そんな存在でありたかった。




