7、種を蒔く
目を開けると、薄暗い自室の天井。
気を失っている間に、運ばれていたようだ。
窓を見れば、覆いから僅かに光が漏れている。
(私、昨夜は……)
あれ程までに泣き叫んだのは、初めての事ではないだろうか。
目は痒いし、喉も痛い。
(私、これから、どうしたらいいの……)
部屋に飾られていた花を見て、ふと、エルネストの事を思い出す。
(もうあの人は、新しい候補を探しているかしら?)
次の女性は、どのような花に例えられているのか――と考えて、溜め息を吐く。
きっと、自分よりも明るく、輝きに満ちている筈だから。
「お嬢様……せめて、何か……食事を……」
「いらないわ。入ってこないで」
誰かが扉を叩く度、キャロルは拒絶した。
扉に鍵を掛けても、無意味な事は分かっている。
それでも、今は、あらゆる事から目を背けたかった。
昼過ぎになって、ついに鍵を開ける音が聞こえた。
扉を開けたのは、日に焼けた逞しい腕を持つ、中年の女性であった。
「お嬢ちゃま、そろそろお腹空いたでしょう?」
料理番のハンナは、屈託の無い笑みを浮かべていた。
彼女は、サイドテーブルに茶とスープを置いた。
先程まで何か食べる気など起きなかったキャロルだったが、匂いにつられて思わず手を伸ばした。
「嫌な事があったら、たっぷり寝て、たんと食べる。それが一番さ」
ハンナの言葉に、気付けば笑っていた。
スープを飲み終えると、ハンナは蜂蜜と干し葡萄の焼き菓子を出してくれる。
これも、すぐにキャロルの胃に収まった。
ハンナは、キャロルが食事を終えると、満足したように頷く。
食器を片付けると、黙って部屋を後にした。
「あの、ハンナさん……お嬢様は……」
「ずっと立ってるつもりかい? 悩む暇があったら働きな!」
扉の隙間から聞こえた声に、キャロルは申し訳なさを感じた。
(みんな心配してくれているのに、私は拗ねて籠っているだけで……)
ハンナの怒鳴り声が聞こえる中、そっと扉を開けた。
「キャロル、入っていいかな?」
「大丈夫よ」
侍女達に揉みくちゃにされ、顔にあらゆるものを当てられたキャロルの元を、兄が訪ねてきた。
「……昨日は、すまない」
頭を深く下げる兄の姿に、首を傾げる。
「アンヘルがドロシーと踊っているのを見て、本当はすぐに殴りたかった」
悔しそうな顔を見て、キャロルは苦笑した。
「気にしないで、お兄様。私が悪いの。私の事までごめんなさい」
伯爵家の後継として、中座した父の代理として、昨夜は兄が苦労した事は想像に難くない。
「それよりも、お兄様の婚約者ってどなた?」
キャロルの問いに、兄は躊躇いがちに口を開く。
「……ビクトリア・グローブス嬢だよ」
「まあ……」
気位の高い印象を与え、澄ました顔の侯爵令嬢が脳裏に浮かぶ。
兄と彼女が踊る姿を想像し――何となく、しっくりきた。
「最初はドロシーの非礼を詫びに行っただけなんだが……」
言葉を交わす内に、気が合ったらしい。
ビクトリアとの遣り取りを披露する兄を、キャロルは微笑ましい気持ちで見ていた。
「……侯爵家から彼女を迎えるに当たって、問題が色々あってね。それに、母は私が他家の令嬢と関わる事を嫌っていたから、父と内密に動いていたんだ」
あの母なら、縁談も阻止しかねない――そう思った。
「昨日の夜会も、母は私とドロシーを踊らせる予定だったらしいな……まさか、あんなドレスを……だけど、あの場で、母達にビクトリアを紹介した」
「そう……驚いたでしょうね……お母様も、ドロシーも」
兄と踊れず、居心地が悪くなったドロシーはキャロル達の元へと来たのだろう。
「ドロシーには、隅で大人しくするよう言っておいたんだ。それなのに、あんな事を……誰かに見張らせておけば良かった」
「……気になさらないで」
もう、全て、終わった事なのだから――誰かを恨む気持ちは、残っていなかった。
何処かに出掛けていたらしいトリアン伯爵が戻ったのは、日が沈んでから。
「キャロル、体は大丈夫か?」
「もう平気。お父様、昨日は本当にごめんなさい」
自室へ来た父に、キャロルは頭を下げる。
周囲の人達の気持ちを蔑ろにするような振る舞いであったと自覚した。
キャロルの言葉に、父は首を振った。
「いや、悪いのは私だ……全てを先送りにしたせいで……それに……まさか……」
伯爵は眉間に皺を寄せ、何度も首を振る。
「……招待を受けた。出掛ける支度をしなさい」
何処に、と尋ねる間もなく、キャロルは揉みくちゃにされていた。
(一体、何があるのかしら……婚約破棄の話し合い?)
「顔が」「顔が」と嘆き続ける侍女達の中心で、キャロルは内心首を傾げていた。
顔を温めたり、冷やしたり、何かを塗りたくったり――彼女達の努力を以てしても、腫れぼったい目や赤らんだ顔は隠しきれないようだ。
「お嬢様、お選びください」
衣装棚から幾つか選び出し、キャロルの前に並べられる。
どのドレスも上質で、格の高い茶会等への参加を想定した意匠。
キャロルには縁が無く、一度も袖を通した事が無い物ばかり。
無論、婚約破棄の為に着る衣装ではない。
「じゃあ、これを……」
内心戸惑いながらも、一つを指す。
水色の布地に施された、百合の刺繍が目を引いた。
昨日の夜会と変わらないのでは――そう思えるぐらいに粧し込んだ姿で、キャロルは父と向かい合っていた。
トリアン家の馬車は、少し急いで走っているようだった。
「お父様、今日はどちらへ……?」
「王宮だ」
恐る恐る尋ねたキャロルに対して、父は不機嫌そうに答える。
(やっぱり、私の所為で……)
王太子夫妻の前での醜聞に対して、早々に沙汰が下されるというのか。
「ごめんなさい、お父様……」
せめて、トリアン家に対しての処罰はないように嘆願しなければ――焦るキャロルの気持ちを察したのか、父は慌てて両手を振る。
「いや、そういう事じゃない。お前は悪くない。悪くないんだ……ただ……どうしてこうなったんだ……」
深刻そうに頭を抱える父の姿を前に、キャロルは何も言えなくなった。
重苦しい空気が消えぬまま、馬車は王宮に到着する。
馬車から降りると、親子で違う場所へ行くように指示を受けた。
キャロルが案内をされた場所は、王宮の外。
水路や生垣で囲まれた、瀟洒な庭園であった。
昨夜の場所とは違い、白木の四阿が設けられている。
燭台が灯された四阿には、既に誰かが座っていた。
黒髪を纏めた気品ある女性と、赤毛を巻いて華美な飾りを付けた女性は――
「王太子妃殿下に……ビクトリア・グローブス様……」
慌てて、四阿の外で礼を執る。
「昨日は、大変、申し訳ありませんでした……」
妃殿下から、直接お叱りを受けるのか――そう思い、身構えたが。
「昨日は残念だったわ」
掛けられた声は、思っていたよりも優しくて。
「私ね、貴女とお話ししてみたかったのよ」
キャロルは、思わず頭を上げる。
クラリス王太子妃は、紫紺の瞳を細め、慈愛に満ちた笑顔を見せていた。
「さあ、どうぞ座って」
使用人に案内されるまま、同じ席へと着いた。
目の前には、茶と菓子が準備される。
王太子妃殿下と侯爵令嬢――身分の高い方々とのお茶の席、らしい。
(どうしましょう……私、正しい作法を覚えているかしら……それに、ビクトリア様をどうお呼びしていいのかしら……)
二人の顔を盗み見ながら、途方に暮れる。
「ちょっと」
最初に口を開いたのは、ビクトリアであった。
「妃殿下の前で、情けない振る舞いはおやめなさい」
昨年と変わらぬ、冷たい眼差し。
「は、はい……申し訳ありません、ビクトリア様」
深く頭を下げた。
「……ふん」
しかし、ビクトリアは、不機嫌そうに顔を顰めるだけ。
(どうしよう……)
焦るキャロルの耳に、忍び笑いが届く。
いつの間にか、王太子妃が口元を隠して笑っていた。
「リアはね」
キャロルを見つめる顔は、とても得意気で。
「貴女が義理の妹になる事を、とても楽しみにしていたのよ?」
「ちょ、ちょっと、クラリス様!」
ビクトリアが机を叩く。
「あら、いつも言っていたじゃない。知らない事を教わる時の眼差しが綺麗とか、手紙の挨拶が可憐だとか、領地の花で栞を作って添えてくれる所が可愛いとか」
「も、もう、そんな事まで覚えていましたの!?」
「私なんかが可愛いだなんて……」
自分よりも、真っ赤になって身悶えしているビクトリアの方が可愛く見える。
「だからね、リアが大好きな方とも、私、仲良くなってみたかったの」
「そんな……勿体ないお言葉で……」
王太子妃の眼差しを受け止める事が出来ず、キャロルは俯く。
社交も碌に出来ず、とうとう瑕疵まで付いた自分には、恐れ多い。
「私なんか、もう……」
「私なんか」
その固い口調に、思わず顔を上げる。
「貴女、また、そう言った」
王太子妃が顔を顰める――少し、年よりも幼く見えた。
「大事なリアの妹に、そんな事を言って欲しくないの……だから、『私なんて』って言わないようになったら、またお会いしましょう?」
キャロルの返事を待たずに、王太子妃は席を立つ。
次いで、ビクトリアも。
「次は、ちゃんと、あの本についての感想を聞かせてもらいますわよ」
早足で、王太子妃の後を追った。
「え、あの……」
キャロルは挨拶も忘れ、二人の背中を呆然と見送っていた。
目上の方々が退場されたのだし、自分も出ていくべきかと思ったが。
「どうぞ」
控えていた使用人が、茶のおかわりを注いでくれた。
「……あ、ありがとうございます」
立ち上がる機会を失い、茶に手を伸ばす。
控えめに飾られた花に、水の流れる音、そして上等なお茶。
少し、気持ちが寛いだ頃――
「失礼する」
聞き覚えのある声は、後ろから。
長い黒髪に、黒い服――その姿を見て、キャロルは思わず立ち上がる。
「あ……」
「久し振りだな、キャロル嬢。昨日は、その……」
気まずそうに頭を掻く、エルネスト・クルークが立っていた。




