6、枯れ落ちる
「あの……私は、大丈夫ですから……」
おずおずと、黒い背中に声を掛ける。
エルネスト・クルークは、キャロルを先導するように石畳を歩いていた。
「いえ、是非、私にも父君を探すお手伝いを……私は、偶然、一人で来ていましてね、偶然。いやあ、偶然でした」
エルネスト・クルークは、『偶然』の部分を強調する。
「そうでしたの……」
もし、彼の同伴者がいれば――と躊躇していたが、善意に甘える事にした。
薄暗い通路から、煌々と照らされた会場へと戻る。
幼き頃に浴びた太陽の光や、先程の人々の視線を思い出し、思わず身が竦むが――
隣で立ち止まるエルネストの顔が、辛い記憶を吹き飛ばした。
「あの……大丈夫ですか? どこか、具合でも……」
思わず、そう囁きたくなる程に、彼の顔は強張っていた。
彼はキャロルを見下ろすと、不自然に口角を上げる。
「大丈夫、大丈夫です。さあ、行きましょう」
ぶん、と音が鳴りそうな勢いで、手足を同時に動かし始めた。
キャロルが会場の中を進む度、何処からか息を呑むような声が聞こえる。
自分の姿は目立つ為、内密に、という訳にはいかないだろう。
せめて泣き腫らした顔だけでも隠そうと、俯いた。
早足で歩こうとしては、キャロルに合わせて歩幅を縮めようと苦心するエルネストの足捌きが視界に映る。
ふと中央の方に目を向ければ、若者達のダンスはまだ続いているようだ。
王太子夫妻が優雅に踊る姿が見える。
隅の方には、ドロシーも。
長い金の髪を緩く巻いた彼女は、本当に美しい。
アンヘルとも息の合った動きを見せており、まるで、最初から二人が婚約していたようだ。
(そういえば、ドロシーは緑のドレスを着ているけど)
兄の瞳に合わせた筈ではなかったか。
(じゃあ、お兄様は誰と?)
兄の姿を探そうとしたが。
「キャロル嬢、こちらへ」
誰かとぶつかりそうになっていたらしい。
「あ、ごめんなさい……」
エルネストに手を引かれた為、キャロルの意識はそちらへ取られた。
優しく繋がれた手は大きくて、手袋越しでも分かる程に、汗ばんでいた。
「ああ、キャロル嬢に……エルネスト殿?」
前方から掛けられた声に、エルネストは手を離す。
目の前には、眼鏡を掛けた、小柄な老人。
(確か、宰相の……)
長きに渡って国王に仕えていた人物の筈。
礼を取るエルネストを見て、キャロルも慌てて倣う。
「キャロル嬢……よかった、見つかって……でも、どうして……」
宰相は眼鏡の縁に指を掛けながら、二人の顔を見比べる。
「体調を崩されたようなので、伯爵殿の元へお連れしようと思っていたのです」
エルネストの言葉に、彼は、うんうんと頷く。
「そうでしょう、そうでしょう……まあ、仕方ありませんな……私も娘や孫があのような事になったら……」
キャロルの顔を見ながら、何度も頷く――どうやら、先程のいざこざを思い返しているらしい。
(このような方にまで知られるなんて……私がこんな見た目じゃなければ……)
労わるような眼差しが、ただただ辛い。
「キャロル嬢、御父上はあちらに……」
彼が手で示した方角は、会場の奥。
国王夫妻が座する席の近くで、誰かと話し合う父を確認できた。
同時に、母の姿も。
彼女は両手を組み、一心にある方角を見ているようだ。
その視線の先は――
(やっぱり、ドロシーの方が大事なのね)
心が冷えていく。
キャロルは、両親達に背を向けて歩き出した。
「あ、あのキャロル嬢」
宰相に声を掛けられたが。
「申し訳ありませんが、私、先に失礼致します」
改めて礼を執ると、出口へと向かう。
(あの人の姿なんか、もう見たくない)
ただ、その思いだけで足を動かしていた。
(御者には申し訳ないけれど、先に送ってもらうように頼むしかないわ)
「キャロル嬢」
エルネストが、キャロルの前に回り込んだ。
「何か?」
不躾と分かっていても、ついつい彼を睨んでしまう。
しかし、目つきの悪さでは負けていた。
彼は暫しキャロルを見つめ返すと、重々しく口を開く。
「……よろしければ、当家の馬車をお使い下さい」
「どうして」
そこまで良くしてもらう理由が思い当たらず、キャロルは内心首を傾げる。
「お守りする、と約束したのですから……伯爵邸までお送りしましょう」
先程のような仰々しさや、わざとらしい明るい素振りは見せず、ただ、静かにキャロルを見つめる。
その眼差しや遠慮がちに差し出された手を見て――気付けば、手を重ねていた。
「では、宰相殿。トリアン伯爵へは、そのようにお伝えください」
エルネストはそう告げると、キャロルの手を引いて歩き出した。
「え、エルネスト殿が? 大丈夫? 一人で出来る?」
と、慌てる宰相を後にして。
王宮の使用人に声を掛け、クルーク家の馬車を手配してもらう。
待っている間、周囲の人々から驚かれたり囁かれたり。
馬車に乗るまで、キャロルは胸の鼓動が高鳴るのを感じていた。
クルーク家の馬車は、小さく、無骨な印象を与える作りであった。
向かい合わせになって座ると、婚約者と馬車に乗った時よりも距離が近い。
エルネストは、険しい眼差しに、固く結んだ唇。
他家の揉事に巻き込まれて、気分を害している――と思わせるような顔つきであった。
馬車が走り出してから、暫しして。
「先程は申し訳ありませんでした」
謝罪は、エルネストの方から。
「え……」
謝るべきは此方だと、キャロルは疑問を抱く。
「……その、手を、何度も……」
申し訳なさそうに、頭を掻く。
彼は、キャロルに触れた事を気に病んでいたらしい。
「いえ……助けて頂いたのですから……」
キャロルは微笑んだ。
『あの』
声が重なり、揃って俯いた。
再び、馬車の中は静けさを取り戻す。
暫し待ってから、キャロルは視線を送り、発言を譲った。
エルネストは何かを言おうとしては口を閉ざし、また開き。
頭を掻いたり首を振ったり。
どうにも落ち着きの無い様子を見せていた。
「その、王都では、普段、何を……?」
「何を……」
キャロルにとっては、難しい質問である。
「特別な事は、何も……読書や刺繍をしていましたの」
「そうですか……今、王都の御令嬢達の流行りは、乗馬とか花壇の手入れとか……ああ、すみません」
キャロルの体質は、噂で知っていたのだろう。
日中に屋外で活動出来ないキャロルにとっては、縁の無い話だ。
「申し訳ありません……どうも、無神経な事を……」
「平気ですわ、私」
頭を抱え込み、落ち込んでいる姿を見せられる方が、かえって気にしてしまう。
それからも、彼は何か話題を提供しては「失言だった」と落ち込んで、キャロルが労わる――という流れを繰り返し。
馬車はあっという間にトリアン家の邸宅へと到着した。
エルネストの手を借りて、馬車から降りる。
「ありがとうございました……?」
使用人達が駆け寄ってくる間も、彼の手は離れなかった。
『あの……』
声が重なる。
キャロルが躊躇う間に、エルネストは口を開いた。
「実は……貴女に、一目惚れしてしまったのです」
「えっ」と発したのは誰だったか。
いつの間にか、屋敷中の人間が集まっていた。
「健気に耐える姿は……その、葦のようで……」
花ですらなくなった。
(この人、本当に……大丈夫かしら……?)
惨めに泣いていた自分のどこに、惚れる要素があるというのか――キャロルは訝る気持ちで見上げていた。
「私、婚約者が……」
形式上、まだ、婚約は継続している。
エルネストも、知っている筈。
「……私なら、貴女を泣かせたりはしない。先方に金銭が必要なら、当家が払います。領地は何もない所ですが、苦労させないと誓います。どうか、私と結婚して下さい」
彼はそこまで言うと、大きく深呼吸。
暗がりでも分かるくらいに汗を垂らし、目は見開いていた。
キャロルはエルネストの顔を見て、周囲で固まっている使用人達を見渡す。
料理番が延し棒を握りしめている姿も視界に映った。
「……父と、話をしないと」
そう答えるだけで、精一杯だった。
客人にお茶と新しいチーフを――使用人達へ頼むと、キャロルは自室へ戻った。
夜会用のドレスを着替えると、少し心が落ち着いた。
両親が帰ってくるまで、自室で待つように執事から言われた為、一人で茶を飲んでいる。
些か寛いだ気持ちで、キャロルはこれからの事を考えていた。
個人的には、婚約を破棄でも解消でもいいから終わらせたい。
(これから、ずっと、あんな事を繰り返されたら堪らないもの)
今日のお披露目で、あの二人が親密な仲であると公表されたようなもの。
ドロシーがアンヘルと婚約したいと強請れば、母は、今度こそ、ドロシーを養女にしようと張り切るだろう。
(そうなってしまえば……もう、私の居場所は無いわ)
暫くは、領地に閉じ篭る事も出来る。
しかし、兄が結婚したならそうはいかない。
ならば、エルネスト・クルークの提案に乗るべきではないか――キャロルは、そう結論付けた。
(一目惚れ、なんて信じられないけど)
彼に、キャロルを娶る事で得られる利点は想像出来ないが。
今日の姿を見るに、言動は些か不安定だが、不快感は無かった。
(私でいい、と言ってくれるんだもの。十分だわ)
婚約関係の終了に伴って、トリアン家の体面やペダルファ家への違約金が懸念事項に上がるが、アンヘルの行動を考えたら相殺出来るだろう。
むしろ、辺境伯と縁を結ぶ事は利になる筈。
(お父様達が帰ってきたら、これからの事を話し合わないと……)
トリアン家の馬車を待ち侘びて、ずっと窓の外を見つめていた。
キャロルが予想していたよりもずっと早く、馬車は戻って来た。
迎えに来た侍女と共に、部屋の外へ出る。
案内された先は、父の書斎。
(エルネスト様と話し合うのなら、客室ではないかしら?)
そんな疑問を抱きながら、中へ入った。
扉の先には、執事と両親の姿しか確認出来なかった。
父は、疲れ切った顔で椅子に凭れている。
傍らに座る母は、青ざめた顔で俯いていた。
「キャロル……どうして、他家の者と帰ったんだ」
父が、正面に立ったキャロルに対して、咎めるような視線を投げる。
両親達は、遠く離れた場所でキャロル達の事態を聞いて、慌てて帰って来たらしい。
「私達か……せめて、ペダルファ家の方々に声を掛けてくれれば、こんな事に」
(ペダルファ家……あちらの方々は、優しくしてくれたけれど)
アンヘルの両親や兄達を思い出すと、少し、心が痛むが。
「私が頼っても、向こうは迷惑に思うでしょう? 婚約者として認められていないんだから」
夜会でアンヘル達から受けた仕打ちを思い出すと、気持ちが昂っていた。
「そんな言い方をするんじゃない。無論、婚約はやめにするが、それとは話が別だ」
「……エルネスト様は?」
「帰って頂いた。礼はしたから問題ない」
(せめて、挨拶出来れば良かったのに……)
最後に見た彼の必死な姿を思い出し、少し残念に思った。
「私、あの方から婚約を申し込まれました。ちゃんと、お話を聞いて下さいましたか?」
キャロルが告げると、父は深々と溜め息を吐く。
「そんなふざけた話、聞く必要が無い」
どうして、と問おうとしたキャロルを、父は睨み返した。
「あの男の事を知っているか?」
(そんなに、有名な方だったのかしら?)
キャロルは内心首を傾げる。
「クルーク家は、南を守護する名門……現当主も評判のいい男だ。国王陛下は、次期当主のエルネスト殿に縁談を紹介した」
「すごい方だったのね……」
目を丸くするキャロルに返されたのは、大きな溜め息だった。
「その顔合わせの席で、粗相を繰り返し……『彼だけは嫌だ』と泣かれたらしい」
(そんなに、嫌な方だったかしら……?)
無神経さや不安定さは見受けられたが、泣く程の不快感は無かったと思う。
「『王都に滞在中に、誰でもいいから婚約しておきたい』と、身分や瑕疵の有無を問わずに相手を探していたらしい。クルーク家の直轄領は環境も厳しい。そのような辺境地、しかも問題のある男にお前を嫁がせるわけには……」
父の言葉を聞いて、腑に落ちるものがあった。
(やっぱり……一目惚れ、だなんて、嘘だったのね)
貰い手のなさそうな自分が丁度良かったのだろう。
一目惚れ、という言葉より、納得出来た。
「それでも良かったのに」
父が追い返したのなら、彼は次の候補を探しに行くだろう。
それが惜しくて、声が漏れた。
キャロルの父は目を剥いている。
「こんな私を貰ってくれる人なんて、もういないわ」
「キャロル、そんな事を言うんじゃない」
「クルーク家と縁を結べば、陛下達の覚えも良くなるじゃない」
「……お前を政略の道具にするつもりは無い」
思わず、笑みが漏れた。
「そうよね、道具にもならないんだわ。私、婚約者を取られるような魅力の無い女だもの」
そう、言葉にしてしまえば、心が軽くなった。
ずっと言いたくて、我慢して、痞えていたものが、取れたような――
「キャリィちゃん、なんてことを言うの?」
自分を呼ぶ母の声は、いつ以来だろうか。
見つめ合う母の瞳は、涙で濡れていた。
「ドロシーちゃんはそんなつもりなかったの。貴方の為に……」
(こんな時にもドロシーって……)
「私、そんな事頼んでない」
自分が思っていたよりも、硬い、突き放したような声が出た。
母が身を震わせる。
「ダンスを代わって、なんて頼んでない! お菓子も、花壇も頼んだ事ないわ!」
自分の声が、嫌と言う程、書斎に大きく響いた。
室内にいた全員が、呆然とキャロルを見つめていた。
「いつだってそうよ! ドロシー、ドロシーって……私の事、娘なんて思ってないんでしょう? ドロシーが良かったんでしょう? 私だって、愛してほしかったのに!」
堰を切ったように言葉が溢れる。
「早く、私を捨ててドロシーを本当の娘にしなさいよ! そうすれば、あんた達だって、アンヘル様だって……みんな、幸せになるんでしょう……」
いつの間にか涙が溢れ、思わずその場に座り込んだ。
「私なんて、生まれて来なければよかったって、あの時、死ねばよかったって……ちゃんと言ってくれれば……」
息が苦しくても、言葉は止まらなかった。
「キャロル、もういい。もういいから……」
頭がぼんやりとして、意識が遠くなる。
父が自分を抱きしめる感覚や、使用人達が走り回る物音を感じた。
最後に見えたのは、その場から動かない母の姿。
(お母様は、私を抱きしめた事はあるのかしら?)
そんな事を考えながら、意識を手放した。




