この思いを、どうか
ドロシーとかいう新入りは、妙に人目を引く存在であった。
眩い金色の髪に、濃い茶色の瞳――修道院に入る者の慣わしとして髪は短く切られているものの、それが整った顔立ちを際立たせていた。
美しい容姿の少女が“この世の終わり”かのような悲惨さを醸し出しているため、見習いの少女達は、彼女の出自についてあれこれと想像して楽しんでいた。
『亡国のお姫様』だったり、『奴隷商人に売られた御令嬢』だったり――
そんな少女の元に、ある日、立派な馬車が迎えに来たことで、見習いの少女達は色めき立った。
周囲の思惑など知ることのないドロシーは、ただただ困惑していた。
見覚えのない馬車に乗せられて、見覚えのない男性が向かいに座る。
マーカス子爵と名乗られても、ドロシーにはぴんと来ない。
彼の隣には小さな花束が鎮座しており、ますます目的が分からなかった。
「昔、お嬢さんとお会いしたのですが」
訝しげなドロシーの反応を見て、相手は、苦笑いを見せた。
初老で、身なりの整った紳士は、自らを『ラングル領の管財人』と称した。
「財産や戸籍管理に関する仕事をしておりましてね……ラングル領で水害が起きた時、王命を賜ったのです」
ラングル子爵領は小さいながらも、それなりに賑わっていた土地だった。
水害で多くの犠牲が出たため、幾つかの貴族や商家が支援を申し出て、それを一括で管理する人間が必要になった。
それが、マーカス子爵だった――と、彼はドロシーに説明した。
「亡くなられた方々の葬儀や、残された領民の生活……課題は色々とありますが、問題は――」
意味ありげな視線を受けて、ドロシーは困惑する。
「私、ですか?」
その答えに、彼は満足そうに頷いていた。
マーカス子爵曰く、ラングル子爵家の遺児として、ドロシーには多少の財産が遺されているらしい。
そして、一部の土地の権利も。
「私としては、早々に貴女にお伝えするつもりでした。しかし……」
葬儀が終わった後、子爵はトリアン伯爵家を訪れた事があるらしい。
「その、貴女は、自分の御両親の死を理解できておられない様子で……」
「私、貴方とお会いした事があったの?」
「一度だけです。その後は、マーゴット・トリアン様から反対を受けましてね……こんな幼い子に残酷な事を告げるなんて、と」
「そう、だったの」
自分の記憶を探っても、彼の事は何一つ思い出せなかった。
「もしや、貴女の資産を着服する心算だったのでは――と思いましたが」
「あの人は、そんな事しないわっ!」
母と慕った女性を悪しざまに言われているように感じて、気分を害した。
しかし、ドロシーが声を荒げても、彼は小さく微笑むだけであった。
「ええ、分かっております。皆様の振る舞いが、利益の為ではないと……ただ、上手くやるべきだった。それだけです」
私の感想ですがね、と付け加えて。
『上手くやる』
子爵の言葉を頭で反芻するが――考える事はやめた。
いくら、周囲におかしいと言われようと、行いを改めなかったのは自分で。
どうすればよかったのか考えても、今更取り返すことはできないのだから。
「貴女がトリアン家を出た時、そろそろかと思いましてね。やっと院長先生の許可が下りましたので、こうして迎えにあがった次第です」
院長に言われるまま馬車に乗ったドロシーは、目的地を知らない。
『外出』と聞いていたので、修道院には戻らなければいけないとは理解している。
「まずは、こちらをお渡ししましょうか」
差し出されたのは、一通の手紙。
封蝋に捺された紋章には見覚えがあった。
「マーゴット様からです」
彼の言葉に、じっと手紙を見つめる。
(今になって、どうして……)
少し前の自分なら、奪い取るように手にしていただろう。
『マギーお母様』の愛情に満ちた言葉と、迎えの約束が書かれていると信じて。
しかし、少し頭が冷えた今なら、そんな事はないと理解できる。
ただただ手紙を見つめていたが、子爵の視線を感じ、ゆっくりと手を伸ばす。
緩慢な動作で開封して――
『ドロシーさんへ』
この一文だけで、彼女とは、もう他人なのだと、理解させられた。
――私は、貴女の為と言いながら、私の為に貴女を引き取り、御両親の思い出を奪ってしまった。
キャロルと向き合うのが怖くて、私を慕ってくれる貴女に依存して、皆を不幸にしてしまいました。
私の愚かさのせいで、貴女の人生を歪めてしまった。本当にごめんなさい。
私達の関係が間違ったものでも。それでも、貴女は私の心を慰めてくれた向日葵でした。
手紙を何度も読み返し――最後には視界が滲んで読めなくなってしまったので、折りたたむ。
(お母様……それでも、私を守ってくれたのは、お母様だったの……)
心の中で、謝罪と感謝を繰り返した。
「キャロル様との言い合いが堪えたらしく、参っておられましてね……漸く、落ち着かれた際に『機会があれば』と手紙を託されたのです」
「キャロルと、マギー……様が?」
記憶の中のキャロルを思い出す。
いつも柔らかく微笑んでいた、内気な少女だった。
実の母とは、少し遠慮しあって、ぎこちない会話をしていて。
そんなキャロルが、マーゴットにそこまで――想像もできなかったが。
(……怒って当然よね)
実母が、他所の子を可愛がるなど、たまったものではないだろう。
キャロルの『代わり』などと言って、マーゴットの隣にいた自分を、今になって、恥ずかしく思った。
「キャロルが怒って喧嘩になったのね? 一度話し合ったら、すっきりしたのかしら?」
母親を奪う悪者は消えて、二人は仲直り――そんな、おとぎ話を想像していたのに。
「おや」
子爵は、実に意外そうに声を洩らした。
「御存じなかったのですか?」
「そんな……キャロルは帰らないの?」
終幕は、ドロシーの想像とは異なるものだった。
キャロルは次期辺境伯との婚約を決めて、グローブス侯爵家の元で花嫁教育を――
「アンヘルは、キャロルの事が好きだったのよ」
真っ先に思い出したのは、彼女の婚約者だった青年。
身近にいた自分なら分かる。
キャロルに負い目を感じながらも、どう関わるか悩んでいた姿を、ずっと見て来た。
目の前の相手に憤るのは間違っていると理解しているが、つい声を上げずにはいられなかった。
「ペダルファ家の子息と、トリアン家にいた貴女……お互いの過失と言う形で、賠償はなしになったと聞いています。子息は離籍するそうですがね」
子爵はドロシーの反応を気に留めない様子で、淡々と事実を述べていく。
「トリアン伯爵家の権利は、後継のデニス・トリアン氏と夫人に移譲。キャロル嬢はグローブス侯爵家の後見を受ける事を王家から指定されており、実の御両親はキャロル嬢に関する決定権を移譲しています。つまり――」
理解が追い付かない様子を見せるドロシーに対して、子爵は改めて、かみ砕いて説明する。
今後、キャロルが辺境でどうなろうと、最初に知るのはグローブス侯爵家だという事を。
子どもを産んだり、命に関わる怪我や病気を患ったりしても――
「そんな……」
最後に見たマーゴットの様相を思い出し、ドロシーは遣る瀬無い気持ちに襲われていた。
「二人は、キャロルの本当の親なのに……」
「親であることを、放棄していたのは、お二人です」
「でも、それは、私がいたから……」
「貴女が原因ではありますが、それだけでは無いでしょうね」
穏やかな表情を崩さず、事実を述べる子爵の言葉が胸に刺さる。
「全員が、上手くやるべきだった……それだけです」
(みんな……みんな、なくなっちゃった)
皆の顔を思い出しては、次々に消えていく。
怒ったり泣いたりして――誰も笑顔になれなかった。
(私、今まで、何をしてきたんだろう……)
一人になった事が受け入れられなくて。
マーゴットの子どもに、家族の一員になろうとして――結局は、マーゴットの家族をばらばらにしてしまった。
(これから、どうしたらいいの……?)
修道院で過ちを償うことが出来るのか――
「到着しましたよ」
子爵に声を掛けられて、頭を上げる。
彼に倣って窓の外を見ると、見慣れぬ景色が視界に映った。
「ここは……?」
「ラングル領ですよ」
陽光を受けて輝く大きな水路や、青々と茂った大きな畑に、些か混乱する。
ドロシーの生まれ故郷であるが、見覚えのない光景だった。
「被害が甚大でしてね、元通りに復興することは叶いませんでした」
子爵の説明を受けながら、馬車はゆっくりと進む。
「新たな農業の実験地という形で出資金を募る事で、立て直しを図っております」
やがて、小さな街へと辿り着いた。
かつて領主の家があったはずの街は、記憶よりもずっと小さくなっていたが。
「幾つかは成功しましてね、少しずつ労働者を増やしています」
簡素な石造りの建物が並び、人々が忙しなく行き交う。
街並みは違うし、人の数も、昔に比べて遙かに少ない――それでも、かつてのラングル領を彷彿とさせる活気があった。
馬車は、街並みを抜けて、さらに奥へと――
景色が違っていても、ドロシーはこの道を覚えていた。
「ここは……お父様達が……」
「ええ、犠牲になった方々が眠る場所です」
雨に流された土地に、次々と立てられた墓標が脳裏に浮かぶ。
(私、どうして忘れてたんだろう……)
家族と死に別れた時の記憶が、次々と思い起こされる。
湿った空気の匂いも、冷たい石碑の感触も、鮮明に感じられた。
「さあ、どうぞ」
馬車を降りると、目の前に広がる墓地は、記憶とは違う姿になっていた。
古い石垣で囲まれた場所に、規則正しい間隔で石碑が並び、所々に花が手向けられている。
片隅にある、小さな花壇の中では、生い茂った葉が静かにそよいでいた。
「誰かが、植えてくれていたのね」
ドロシーの背丈くらいまで成長した向日葵は、太陽の光を浴びながら、蕾を開こうとしていた。
「……ああ、大事なものを忘れていました」
ドロシーを見守っていた子爵が、馬車の中から花束を取り出す。
「向日葵は、まだありませんでしたが」
黄色や橙色の花でまとめられた小さな花束からは、優しい香りが漂っていた。
「積もる話もあるでしょう。どうぞ、ごゆっくり」
その言葉を聞いて、ドロシーは思わず駆け出した。
記憶を辿り、奥へ、奥へと――
ラングル子爵家の墓は、昔と変わらない場所にあった。
石碑を撫でると、あの時のように、ひやりとした感触。
子どもの頃は大きく聳え立っていたように感じたのに、今は、とても小さく見えて。
「お父様、お母様……それに、おちびちゃんも」
ドロシーを抱き上げてくれた父や、大きいお腹を撫でる自分に微笑んでいた母を思い出す。
「私、一人が寂しいからって、ずっと、みんなをなかった事にして……ごめんなさい……お母様のお友達のマーゴットさんが助けてくれたのに、私、マーゴットさんの家族にもひどい事しちゃった……」
昔と同じように、石碑の前で泣き続ける。
でも、慰めてくれる家族は、もう誰もいなかった。