一歩ずつ、踏み出して
かつて、ドロシー・ラングルだった少女が送られた場所は、王都から遙か北に位置する修道院であった。
王国の中でも歴史ある其処は、保護と更生の為の場所。
ある程度の金や縁故を必要とするが、生活水準は比較的良い。
ドロシーの与り知らぬところではあるが、彼女が両親と死に別れた時より、遙かに良い待遇であった。
死別や勘当、様々な理由で家から離れた子女達が集う場所。
ここで信仰や行儀作法を学び、身の振り方を決める――修道女として生きるか、市井で職を得るか。
しかし、寮監達が教え導こうとしても、ドロシーは何一つ興味を示さなかった。
現実も未来も見えないままに時は過ぎ、焼けつくような熱気が弱まった頃――
「あんた、ラングル領の出身って本当?」
すっかり慣れてしまった掃除の最中に、そっと声を掛けられた。
今朝の担当は悔悟室。
二人で作業するだけで手狭になるので、監視の修道女も中にはいない。
違反を起こした者を収容する場所らしく、小さな窓が高い場所にあるだけの薄暗い部屋だ。
「婆さん達の話聞いたの。私もラングル領の出身だからさ」
自分と共に掃除をしていた少女の言葉に、思わず手を止めた。
「……そうだけど」
同郷の者に出会えて親しみを感じているのだろう、相手の表情がぱっと明るくなった。
「本当? 今までどこにいたの?」
「お母様の所に」
「親戚がいたの? いいわね。なんでここに来たの?」
(違うわ。本当のお母様よ)
「私、親も家もぜーんぶ消えちゃって。身寄りもいなかったからさ……」
失礼な物言いに些か気分を害したが、滔々と話し続ける相手に何も反論できなかった。
「親切なお貴族様が仕事の世話してくれたんだけど……」
聞けば、平民の彼女は男爵家に奉公に上がったらしい。
しかし、主人の不祥事で爵位を返上することになり、帰る所も無いので修道院へ入れられた――そのような過去を事もなげに語っていた最中、急に彼女の顔は引き締まり壁を磨き出す。
『見回りが来るよ』という囁き声と微かな足音を聞き、ドロシーも身を屈める。
その後すぐに扉が開き、修道女の一人が顔を覗かせた。
それからは、黙々と床を磨き続け――
(他のみんなも、こうやって働いているのかしら……そういえば、私……領地の事なんて考えてなかったわ)
トリアン伯爵からドロシーに残された資産や権利について話された事はあるが、いつもマーゴットに泣きついて有耶無耶にしていた。
(お母様達が死んだなんて信じられなくて……そんな話を聞きたくなくて……いつの間にか、マギーお母様が本当の家族だって……)
『もう終わりでいいってさ』と声を掛けられるまで、ドロシーの思案は続いた。
ドロシーの変化に最初に気付いたのは寮監であった。
此方とも目を合わさず、『はい』か『いいえ』とだけ答え、淡々と作業に取り組んでいた少女だったのに――
最近は、どこか上の空で考え込む事が多くなった。
「やっと、現実が見えたのでしょう。ただ甘やかすだけでなく、己を見つめ直す時間が必要だったのです」
院長は、心配する修道女達に静観するよう申し付けた。
「花を植えたらいいのに」
雑草を抜きながら、ドロシーは呟く。
目の前に広がる芋の葉で埋め尽くされた菜園に辟易し、思わず声を洩らしていた。
「向日葵が見たいわ」
ラングル領の名物だった向日葵畑を思い出す。
夏に人々の目を楽しませ、油を加工する工場も造られていた。
(みんな雨で流れちゃったものね……)
雨風に曝されて、ぐちゃぐちゃになった残骸を見た記憶がよみがえる。
「あー、向日葵ね。父さんも圧搾の工場で働いてたよ」
すぐ隣から声が上がる。
いつかに会話した、同郷の少女だった。
(そうよ、向日葵は無くてはならないものだったの。あの眩しい花を見れば、誰だって幸せな気持ちになれたのに……)
自室に閉じ篭っているキャロルも、向日葵を見れば喜ぶはず――そう思って、トリアン伯爵家でも向日葵を植えたのだ。
あの夏の思い出は、今でもドロシーの胸を熱くする。
マーゴットと鉢植えを取り寄せて、キャロルの為に、みんなで――
「向日葵なんて嫌い。目立ってうるさい感じするし」
ふと投げかけられた言葉が、胸に突き刺さる。
(どうして? あんなに綺麗な花なのに……)
見張りの修道女が所用で離れていた為、皆の気も緩んでいたのだろう。
草むしりに従事していた見習い達が、次々と反応し出した。
「もっと健気で、優しい花がいいわ……かすみ草とか、鈴蘭とか……」
「食べられない花ばっかじゃん。これだからお嬢様育ちは」
「茄子とか蕪の花も綺麗よね」
「アーモンドの花も素敵よ。前の孤児院に植えていたわ」
手を止めて、口が回り、とても賑やかに。
最初に口を開いたドロシーの表情が固まっている事にも気付かず、少女達は盛り上がる。
通りがかる院長に叱られるまで、おしゃべりは続いた。
『向日葵なんて嫌い』
その言葉が、ずっとドロシーの中で響いていた。
(そんな事言われたの、初めてだわ)
温かい家族の思い出を台無しにされた感じがして――ふと、疑問に思う事があった。
(私の思う家族って……誰の事かしら)
トリアン伯爵家の人々は、家族みんなで集まる事なんてしていなかった。
マーゴットはキャロルの出産を振り返って泣くばかり。
生まれてきた事を嘆かれるなんて――ずっと、キャロルは可哀想な存在なんだと思っていた。
自分が何を言っても、何をしても、キャロルは『ありがとう』としか返さない――自分は、とても良い事をしていると思っていたのに。
その日、ドロシーは初めて母以外に手紙を書いた。
『キャロルへ』
聞きたい事はいっぱいある筈なのに、何を書いていいのか悩み、書きあぐねる。
『あなたの好きな花は?』
その一文だけをどうにか書いて、眠りに就いた。