暗く、深く
『マギーお母様へ。お元気ですか?』
思いのままに書き連ねるのは、自分の精一杯の気持ち。
『修道院はとても窮屈な場所です』
届けられない手紙を書き続ける間に、夏は終わろうとしていた。
かつて、少女はドロシー・ラングルという名前であった。
幼き頃の不幸な出来事で家族と領地を喪い、亡き母の友人であるマーゴット・トリアン伯爵夫人の世話になっていた。
ドロシーはマーゴットを新しい母として慕い、マーゴットの実子であるキャロルとも本当の姉妹のように育てられていた。
キャロルは、かねてより思いを交わしていた幼馴染と結婚し、自分は、長子と結婚してトリアン家の本当の子どもになる――そう、思っていたのに。
王太子夫妻の参加する夜会でキャロルの代わりに婚約者と踊った――“それだけ”で、ドロシーの生活は一変した。
「どうして?」
ドロシーにとっては、些末な事であったのに。
茶会も買い物も、いつもキャロルの代わりにマーゴットと出掛けていた。
それの延長上にある出来事だったのに。
何故かトリアン伯爵は怒ったし、マーゴットは泣いていた。
長子の婚約者は意地悪な侯爵令嬢に決まり、ドロシーは当主から恐ろしい事を告げられる。
長く伸ばしていた金色の髪を切られ、呆然としている内に、馬車へ乗せられていた。
「着いたよ」
ドロシーは、その言葉を理解するのに、少しの時間を要した。
目の前に座るのは、マーゴットの夫である人。
『お父様』と呼ぶとお叱りを受けたため、『伯爵様』と呼ぶようにしていたが。
(私……どこに着いたのかしら?)
緩慢に、ゆっくりとしか働かない思考で、自分は目の前の相手から『修道院へ行くように』と言われたことを思い出す。
(それなら、ここが……)
開かれていた馬車の扉から外を見ると、大きな石造りの門が待ち構えていた。
何かを言われたような気がしたので伯爵の方を向くと、彼は馬車から降りる所であった。
『降りろ』という事かと判断し、ドロシーは後に従った。
門の向こうには、暗い色合いの、石造りの建物。
温かみのない、凍えそうな建物に、それを囲む大きな壁と深い森――ドロシーが想像する、恐ろしい修道院そのものの出で立ちであった。
(私が子どもの頃、行きたくないと思っていた修道院そのものだわ……お母様達が亡くなって、怖い人達に連れて行かれそうになって……)
ふと、気付く。
(お母様は生きているわ……ちょっと、お体を壊したから、私は預けられただけじゃない)
幼き頃の『お母様』と、トリアン家の『マギーお母様』――二人の姿が、ちぐはぐに思い出される。
内面に閉じ篭り、立ち止まるドロシーは、伯爵に手を引かれていた事も気付かなかった。
「はぁ……」
修道院の一角、小さな応接間で客人を迎えていた院長は、眉間に手を当てて顔を顰める。
あらかじめ送られていた手紙に再度目を通し、向かいに座る人物から詳細を確認した後――小さく祈りの聖句を唱えた。
そして、此方に送られてきた少女と、付き添いの人物に交互に視線を送り、何度目かの溜め息を吐いた。
「嘆かわしい事です」
院長の厳しい目線は、付き添いのトリアン伯爵に向けられていた。
「いたずらに贅沢だけを覚えさせて、少女の人生をただ無為に過ごさせて」
「……重々承知しています」
伯爵の表情も、院長に劣らない陰鬱さを漂わせていた。
最初は、軽い気持ちであった。
第二子キャロルの出産で心に傷を負った妻の慰めになれば……と、旧知の子爵夫妻の葬儀で出会った遺児の引き取りを了承した。
伯爵個人としては、侍女として育てて王都での外出もままならない娘の話し相手にする予定であった。
しかし、妻は娘の代用としてドロシーを溺愛し、キャロルを蔑ろにし始めた。
最初は自分も息子も苦言を呈していたが、キャロルの話題になると泣き叫ぶ妻の姿に諦めるようになっていた。
いつかは時間が解決する――悠長に考えていたのがまずかった。
ドロシーは王太子夫妻の出席する夜会で失態を犯し、キャロルの婚約は解消となった。
(全て、私の責任だ)
自らの甘さや判断の遅さで、トリアン伯爵家の権威や信頼を大きく失墜させてしまった。
幸いな事に、息子の婚約は問題なく纏まり、キャロルにも新しい相手が見つかった。
自分の出来る事は、出来るだけ負債を解消し、いち早く次代に跡を譲る事であった。
そして、社交期の盛りに、ドロシーは修道院へと連れて来られた。
「その……また様子を見に来るから」
それだけを言い残し、去っていった伯爵を、ドロシーはぼんやりと眺めていた。
「さて、ドロシーさん、よろしいですか?」
きびきびとした動作で歩き出す院長に、ドロシーは黙って従う。
(お母様が迎えに来るまで、だもの……)
厳めしい顔つきの女性達に、ドロシーはさして興味を示さなかった。
自分は院長の誰それで、此方は寮監の誰それで……という長々した紹介を聞き流したドロシーは、すぐに聖堂で祈りをさせられた。
(どうか……どうかマギーお母様と早く会えますように)
気付けば自分と目を合わせなくなり、最後には見送りにも来てくれなかったマーゴットを、ドロシーは心の縁としていた。
伯爵家にいた頃の、半分程しかない部屋――それが、ドロシーに与えられた空間であった。
小さな机と椅子が一つずつ。
ドロシーが身を横たえればいっぱいになる狭い寝台。
ドレスなら数着も入らないだろう細い衣装棚には、黒い簡素な服が三着だけ。
窓から見える景色は、小さな菜園と高い塀。
(まるで、牢屋みたいだわ)
「今日の食事とお湯は届けますが、明日から此処の生活に慣れてもらいます。暫くは私達が付き添いますので」
寮監と呼ばれていた女性は、それだけをドロシーに告げると、返事を待たずに去って行った。
一人になった途端、急に体が重くなり、思わず寝台に座り込む。
早朝から馬車で移動していたのだから、疲労が蓄積していたのだろう。体を横に倒すと、眠気に誘われてしまう。
(やっぱり、修道院は冷たい人しかいないのね……)
幼き頃、髪を切ろうとした修道女を思い出す。
あの非情な人間から逃げ出した自分を助けてくれたのは、マーゴットであった。
トリアン伯爵家に連れられた日は、マーゴットの部屋で一緒に寝たのだ。
(お母様は、私がずっと泣いていても優しく抱きしめてくれて、朝になったら身支度を手伝ってくれて……)
扉を叩かれるまで、ドロシーはぼんやりと幼き頃を思い出していた。
日の昇る前に起こされて、身支度を済ませたら、まずはお掃除。
あらゆる所を磨き、疲れた体を引き摺って、聖堂で礼拝。
そうして、やっと朝食の時間。
終わったら菜園の世話や繕い物をして――
修道院の生活は、暗く寂しいものだった。
祈りに掃除に奉仕活動を繰り返す毎日。
食事も、数日に一度焼く固いパンとスープが基本で、伯爵家で食べていたような肉や菓子なんて出ない。
修道女達は、ドロシーのような見習いの少女達の振る舞いに目を光らせて、常に清廉さと節制の尊さを繰り返す。
ドロシーは修道女達に言われるまま、淡々と日常を過ごしていた。
(お母様が元気になったら、私の事を助け出してくれる)
此処での生活に意欲や関心を見せる事のない姿を、院長達が憂慮している事も気付かずに。
そんな彼女が生き生きと目を輝かせるのは、就寝前の僅かな時間。
誰の監視も無く、自由に過ごせる時間、ドロシーは手紙を書き続けていた。
外部との遣り取りは禁じられたが、寮監は紙とインクをドロシーの部屋に置いて行った。
『修道院は、毎日薄いお茶を一杯しか飲めないし、お菓子も出ないの。伯爵家のお茶が懐かしいわ。二人で、王都のサロンに行った時も楽しかったわよね?』
『菜園の世話なんて初めてしたわ。自分達で虫もとらなきゃいけないの。伯爵家の向日葵は元気かしら? 来年も植えられたらいいわね』
長々と書き連ねた手紙を衣装棚に仕舞い、眠りに就く。
今は届けられないけど、いつか――
薄っぺらい希望を積み上げて、彼女は生きていた。