14、根を下ろす
「ベールはどこに?」
「そちらの箱へ……皺にならないよう気を付けてね」
「お化粧道具の確認はした?」
今日のグローブス侯爵家は、いつもより溌剌とした空気に満ちていた。
使用人達が、彼方此方を行き来している物音が、自室にも聞こえている。
(この部屋で過ごすのも、あと少しなのね……)
自室の内装をぼんやりと眺めながら、キャロルは感慨に耽っていた。
社交期の終わりを迎えた頃、エルネスト・クルークとキャロル・トリアンは、正式に婚約を結んだ。
婚約期間をどの程度設けるかで各家の意見は分かれたが、冬を迎える前に辺境の地へと向かう事を決めた。
辺境が雪に閉ざされれば、王都との往来は困難になる。
もっと過ごしやすい季節に向かった方がいいという意見もあった。
けれど、少しでも早く、将来を共にしたい――当人たちの思いを優先した結果、そのようになった。
クルーク辺境伯家は、『あの』エルネストに親しい女性が出来たと知った頃から、丁重に歓迎すべく準備を始めていたらしい。
その熱量にトリアン伯爵家、グローブス侯爵家もつられる形となった。
二人の住まいは問題ないという旨の手紙と共に、辺境から豪勢な贈り物が届けられ、嫁入りの準備は滞りなく行われた。
そして、秋晴れの今日、王都で婚儀が行われる。
翌朝にキャロルは旅立ち、数日を掛けて辺境へ到着する――雪の始まりが早い辺境に合わせ、急ぎの予定が立てられていた。
「いや……あっという間だったねぇ」
侍女や花嫁衣装と共に出発するキャロルを、グローブス侯爵夫妻が見送ってくれた。
当主はいつものように陽気に、でも、どこか悲しそうに微笑んでいた。
「ええ。もっと、長く一緒にいたように感じましたが……」
いつもは硬い表情を崩さない夫人も、軽く目を伏している。
「閣下……それに、侯爵夫人……本当に、今までありがとうございました」
グローブス侯爵家で庇護と養育を受けたからこそ、今のキャロルがある。
それに、二人が支え合う姿は、キャロルの理想とする夫婦の在り方でもあった。
「キャロルさん」
夫人は肩を抱き、キャロルに目線を合わせる。
「どうか、お体に気を付けて。貴女の幸せを、私達は願っているわ」
「……はい」
キャロルがしてほしかった事を、言って欲しかった言葉を、夫人はいつも与えてくれる――もう、ずっと見ていない母の顔を、何故か思い出した。
浮足立った様子の侍女達に囲まれて、キャロルは出発した。
婚儀の準備は、トリアン伯爵家の主導で行われる。
家族達とは、教会で会う予定だった。
その日、王都で最も歴史ある教会では、珍しい光景が見られた。
秋晴れの日差しを防ぐように、大きな日傘や天幕が教会の敷地中を覆い隠していたのだ。
道行く人々は、白い花やレースで彩られた教会を横目に、何事かと囁き合った。
「キャロル、本当に綺麗だ」
椅子に座るキャロルの周囲をぐるぐると回りながら、デニス・トリアンは表情を緩めていた。
「ありがとう、お兄様」
グローブス侯爵家とトリアン伯爵家の侍女達によって、キャロルの支度は整えられた。
辺境から贈られた絹を使ったドレスは、部屋の灯りを受けて品の良い輝きを見せている。
首元や腕は厚手のレースで覆い、露出を抑えた清楚な意匠は、キャロルに良く似合っていた。
「もう、いい加減になさって。裾を踏んでしまうじゃありませんの」
デニスが三周程した所で、ビクトリア・グローブスが彼の腕を引いた。
そのまま、部屋の隅まで連れて行ってしまう。
「いいじゃないか。今日まで、僕達は見せてもらえなかったんだよ」
「花嫁のドレスというものは、殿方には秘密ですもの」
ともすれば婚約者を尻に敷きかねない程に気が強く、口調がきつい彼女ではあるが。
トリアン伯爵家に新しい風を吹き込む将来の夫人として、皆から歓迎されているらしい。
お説教を受けながらも、楽しそうな兄の姿に、キャロルは安堵した。
「キャロル」
少し離れた所で子ども達の遣り取りを見ていたトリアン伯爵が、そっと近付く。
「お父様……」
母の分まで、自分を愛し育ててくれた父――
皺の刻まれた顔を見ると、感謝の気持ちでいっぱいで、胸がつまってしまう。
丁寧に編み込まれた髪が崩れないように、そっと頭を撫でられた。
「この日を迎えられたことは、とても嬉しいんだ……だけど……」
こんなに早く嫁いで行ってしまうのか――父の寂しさが伝わってくる。
「本当に……私達を差し置いて、先に結婚するなんて」
親子のしんみりした空気を吹き飛ばしたのは、咎めるような声だった。
少し離れた所で、ビクトリアが口を尖らせていた。
「後継に配慮しようという気持ちはありませんの?」
キャロルの早い結婚に、誰よりも異を唱えていたのは、ビクトリアであった。
不満を漏らしながらも、彼女はキャロルの嫁入りの支度を手伝ってくれていたが。
「リアはね、キャロルが義妹になる前に遠くへ行ってしまう事に怒っているだけだよ」
デニスが口を挟む――すぐさま、ビクトリアに尻を叩かれた。
「余計な事を言わないでください」
顔を真っ赤にしたビクトリアは、つんと顔を背ける。
その仕草が可愛くて、思わず笑ってしまう。
「それぐらいの距離、平気よ」
馬車で数日かかる場所を軽く扱うキャロルに、全員が怪訝な表情を浮かべる。
グローブス侯爵家に居を移してから、父や兄と心が離れたと思う事は無かった。
愛や絆を育むのは、距離の近さでは無い事を、キャロルは知っている。
「どんなに離れていても、私達は家族なのだから……社交期には、お姉様と会えるのでしょう?」
その言葉に、「と、当然でしょ」とビクトリアはまた顔を背けた。
『招待客が揃った』と呼ばれたのは、日が高く昇った頃――
父に手を引かれ、教会の中を進む。
薄いベールで視界は遮られているが、左右の椅子に座る人々の視線は感じ取れた。
教会の奥、司祭が立つ祭壇の前には、もう一人の主役が立っていた。
背の高い体躯を、今日は白い衣装に包んでいる。
キャロルの手は、父から婚約者へ。
恐る恐るといった様子で、ゆっくりと、ベールが上げられる。
披露されたキャロルの姿に、彼方此方で溜め息が漏れた。
それらに紛れるような微かな声で、「綺麗だ……誰よりも」と囁かれ、思わず顔が熱くなった。
キャロルに触れる手つきは強張っているものの、それ以外は堂々とした振る舞いで、エルネストは儀式を恙なく終えた。
正式に夫婦になった事を司祭に認められた二人は、招待客の方へ振り向く。
新しき夫婦の門出を、皆が拍手で祝福していた。
両家の親族や関係者、特別席に座る王族や、これまで交流のあった友人知人――
(来ていないのね……)
もう、『あの人』との関係は終わった筈。
それなのに、姿を探してしまう自分が、虚しかった。
「大丈夫か?」
「……まだ、平気です」
隣に座るエルネストが、甲斐甲斐しく気を遣う。
日除けの下とはいえ、暑さに慣れない体は怠さを訴えているが、キャロルはまだ休めなかった。
馬車に乗る二人は、まだ正装のままであった。
婚儀を終えた後、教会でドレスを脱いでも良かったのだが、どうしても行きたい場所があった。
キャロルを案じていた使用人達も、花嫁姿を見たいだろう――そんな気遣いのもと、トリアン伯爵家への立ち寄りを提案されていた。
馬車がトリアン伯爵家の屋敷に到着すると、見慣れた使用人達が、我先にと飛び出す。
キャロルは馬車から降りられないため、使用人達は順番に彼女の前へ並んだ。
「お嬢様、本当にお綺麗で……」
日が傾き始めた頃とはいえ、馬車は厳重に覆いが為されている。
馬車の小さな灯りは、花嫁の神秘的な雰囲気を醸し出していた。
「おめでとうございます」
「どうか、お幸せに」
使用人達は次々に祝いの言葉を述べ、涙を拭いた。
祝いの品を差し出す者もいて、本や薬、伯爵領からの手紙等は、御者と侍女の手によって仕舞われた。
「ありがとう」
懐かしい顔ぶれを見て、胸が温かくなる。
閉じた世界に住んでいたキャロルにとって、屋敷や領地に住んでいた使用人達も、家族同然の存在であった。
「お嬢ちゃま、本当に良かったですよ」
最後の方になって、料理番のハンナが姿を現した。
逞しい腕には、いつもの延し棒を握っている。
「暫くお嬢ちゃまに料理を食べてもらえないと思うと寂しいけどねぇ……あちらの辺境伯様から大層な手紙がきてさ。『キャロル嬢の食べ慣れた料理を教えてくれ』って……もう、その手紙だけで、お嬢ちゃまを大事にしてくれるような気がしてさ……安心したよ」
そう言うと、彼女は得物を差し出した。
よく使いこまれ、細かな傷や油の染みが見える延し棒に、キャロルは首を傾げる。
あちらで料理をしてみては、という事かしら――と考えていると。
「結婚したら、旦那に不満の一つや二つ、出てくると思うけどね。腹が立ったら、これで尻でも叩いてやりな」
その言葉に、使用人達から笑い声が上がる。
「……ありがとう。大事にするわ」
侍女が丁寧に布で包むそれを、馬車の外に立つエルネストは複雑な眼差しで見つめていた。
(出来れば、使わずに済めばいいのだけれど)
屋敷にいる住人達の『ほぼ』全てと会話した頃――
「キャロル様、そろそろ……」
御者の言葉に、思わず屋敷の窓を見てしまう。
母の部屋がある場所を見上げ、そっと溜め息を漏らす。
(もう、会う事は、本当に無いのかもしれないわね)
「ほらほら、そんな所に隠れてないで」
ハンナの声に、視線を下ろす。
屋敷の中、開かれている扉の影には、誰かがいるようだ。
警戒する小動物のように、ちらりと顔を覗かせているのは――
「……お母様」
久方ぶりに発するその言葉は、酷く掠れていた。
マーゴット・トリアンは、此方の存在を確認するように時々顔を出しているが、それ以上動く様子はなさそうだ。
「情けないねぇ」
「あれだけ騒いでおいて」
事情を知っているらしき年配の女中達は口々に文句を言う。
途方もなく、長い時間が流れているような感覚だった。
お互いの様子を窺いながら、互いに歩み寄る事は無い。
最初の一歩を踏み出したのは、エルネストであった。
「夫人……いえ、義母上。どうぞ此方へ」
屋敷に入ると、自然な動作でマーゴットの手を取り、外へと導いた。
ゆっくりと、一歩一歩が気の遠くなるような遅さで、母が此方に近付いて来る。
彼女は、白い大きな箱を、片手で大事そうに抱えていた。
二人が馬車の前に辿り着いた時、キャロルは息を止めていた事に気付いた。
久し振りに見る母は、記憶よりも痩せており、幾つかの指に巻かれた包帯が目に付いた。
「キャロル……」
最後に、そう呼ばれたのは、いつの時だったか――
微かに、本当に微かな声と共に、彼女は手にしていた箱を差し出す。
箱を受け取り、暫し、母と見つめ合う。
これ程までに、近い距離で、母の顔を見た記憶が無かった。
そして、それ以上は何も言う事なく、マーゴットは後ろへ下がった。
その姿を見て、キャロルは口を開いた。
「エルネスト様、行きましょう」
誰も異を唱える事無く、出発の準備を始める。
歓声を送る使用人達に手を振ると、馬車の扉は閉められた。
グローブス侯爵家へと向かう馬車の中、キャロルは箱を開ける。
白い布地を手に取ると、少し重い。
「これは……外套かしら?」
袖が無く、体全体をすっぽりと包むぐらい大きな外套には、顔を隠すフードも付いていた。
水をはじく素材を用いているようで、手触りはやや硬い。
「これなら辺境の雨雪からも守ってくれそうだ」
「あの人が、私に……」
布地をよく見ると、白い糸で刺繍が施されている。
雪の結晶や花を模した刺繍は、何処か歪な形をしていて――母の指を思い出す。
「どうして……どうして、最後に、こんな事……私、何も言えなかった」
悲しみや、寂しさ、怒りに――そして、ほんの少しの喜び。
様々な感情がこみ上げて、涙が止まらない。
外套を抱きしめるキャロルに、エルネストは優しく寄り添っていた。




