11、からっぽの鉢
トリアン伯爵家は、古くから王国を支える名家であり、当代も変わらないと思われていた。
現当主の夫妻は仲睦まじく、領地の管理も順調。
後継となる長男にも恵まれて、大きな問題は見受けられなかった。
陰りが生じたのは、夫人が長女を出産した頃。
絹糸のような白い髪に、赤紫色の瞳――親に似ぬ容姿と日光に弱い体質を持った赤子を産み、夫人は心を病んだ。
時間が解決するだろうと周囲も静観していたが、十数年経って取り返しのつかない事態を引き起こしてしまった。
王太子夫妻を軽視するような行為に、他家との婚約解消――醜聞の責任を取り、現当主は早期の代替わりを宣言した。
王都に佇むトリアン伯爵邸は、ここ数日、喧騒に包まれていた。
長女の転居や、居候を修道院へ送る為の支度。
それが終わったと思えば、長男の婚約者を迎える準備。
使用人達の落ち着く時間はほぼ無かった。
足音や話し声があちこちで響く屋敷内で、ただ一人、静かに臥している人物がいた。
マーゴット・トリアン夫人は、先日の夜会を終えてから、ただ己の悲劇を嘆くばかり。
娘が屋敷を出た事も、溺愛していた付き人を追い出した事も伯爵が伝えていたが、何も言わず涙を流していた。
自室から出ず、食事も受け付けない彼女は、手の空いた使用人によって最低限の世話を受けて暮らしていた。
この日、覆いから光が漏れる時間に、夫人の寝室へ入る者がいた。
啜り泣く声にも構わず、来客はシーツを強引に剥ぎ取る。
いつもと違う扱いに、夫人は思わず身を起こす。
目の前には、赤毛の髪を巻いた、気の強そうな顔立ちの令嬢が立っていた。
「貴女は……」
「ごきげんよう、お義母様」
先日の夜会で、長男が『婚約者』と紹介した令嬢――ビクトリア・グローブスであった。
変わらぬ澄ました表情を見て、自分とドロシーが受けた仕打ちを思い出す。
「貴女は……私の娘じゃないわ……」
思わず呟いた言葉に、ビクトリアは口元を歪ませる。
「お義母様の娘と呼べる存在は、この屋敷に私一人だけです」
無慈悲な宣告に、夫人は目眩がした。
(こんな筈じゃなかったのに……)
長男とドロシーを結婚させて、彼女をずっと傍に置いておく筈だった。
自分を慰めた、ドロシーの無邪気な笑顔を思い出し――
『ドロシー、ドロシーって……私の事、娘なんて思ってないんでしょう?』
キャロルの顔が脳裏に浮かぶ。
(どうしてそんな事を言うの?)
キャロルを蔑ろにしていたわけではない。
ただ、自分を恨んでいると思い、贖罪のつもりで距離を置いていたのに。
『早く、私を捨ててドロシーを本当の娘にしなさいよ!』
記憶の中のキャロルは、涙を流し叫び続ける。
(やめて……もうやめて……)
目を閉じようと、塞ごうと、キャロルの姿は消えない。
彼女の姿は次第に幼くなっていき、その瞳は何かを訴えるようで――
「貴女の振る舞いで、トリアン家は品位を落としました」
突き放すような声に、夫人は顔を上げる。
「もう、貴女は社交界には必要ありません……ですから、早く領地へお戻りくださいね? お義母様」
ビクトリア・グローブスは、王国で最も力のある侯爵家の生まれである。
彼女自身も優秀で、王太子妃とも親交が深い。
近年は評判のよろしくないトリアン家との縁談に、両親は難色を示していたが、ビクトリアが説得した。
彼女自身の悩みは、『ビクトリア・トリアン夫人って呼びにくい名前になるわね』という点ぐらい。
思いを通わせたデニス・トリアンや、好ましく思っているキャロルの為、伯爵家の立て直しに全力をかける所存であった。
伯爵夫人に対して遠慮する必要のないビクトリアの指揮の元、夫人の身辺整理は始められた。
新顔の侍女達によって動きやすいドレスに着せ替えられて、まずは私物の整理。
「これは不要ですね」
「寄付に回しましょう」
グローブス家から派遣された彼女達は、気兼ねすることなくドレスや宝飾品を処分していく。
『それはドロシーにあげる予定だった』『それはドロシーが褒めてくれた』と、彼女にとって思い入れのある品でさえ、次々と。
運び出される品々が消えて、残されたのは、ドロシーとの思い出の数々。
毎日梳いてあげた髪の感触すら、まだ残っているようで――ふと、マーゴットは気付いた。
「私、そういえば……」
(キャロルの髪に触れた事はあったかしら?)
自分の体に、何一つ、キャロルの事を思い出す要素が無く――
気付けば、覚束ない足取りで、部屋を出ていた。
久方振りに踏み締める床は、どうにも頼りない。
自分を見張るように、侍女が一人付いて来るが、何も気にならなかった。
まず、最初に辿り着いたのは、ドロシーの自室。
マーゴットの部屋からも近い場所に設けられたその場所には、何もない。
かつての主の存在を消し去るかのように、全ての家具が運び出されていた。
(ドロシーちゃんは、いつも本を寝台に置いたままにしていて、よく叱られていたわね……それに、新しいドレスを買った時には、衣装棚を何度も開けて……)
マーゴットの脳裏には、家具の配置もドロシーの振る舞いも鮮明に残っていた。
次に、キャロルの部屋へと足を運ぶ。
室内では二人の使用人が部屋を掃除していた。
「今日は休みでしょう? 手伝ってくれなくても大丈夫よ」
「私も、この部屋は綺麗にしておきたくて……お嬢様は帰って来ないと分かっているんだけど……」
埃を払い、家具を磨く彼女達の手つきは、本当に慈しむようで。
「デビュタントのドレスは置いて行ってしまわれたのね。旦那様達も、これは大事に保管する予定らしいわよ」
「あの時のお姿、覚えてる? 本当に美しくて……雪の妖精みたいだったわ」
開けられた扉の前で、マーゴットは立ち尽くしていた。
(私……キャロルのドレス、覚えていないわ)
娘のデビュタントの日、マーゴットはドロシーの部屋に籠っていた。
それ以降も、ずっと、娘の支度に関わった事はない。
キャロルを社交に出す事で、自分がどのような誹りを受けるかと怯え、ずっと彼女の姿から目を逸らし続けていた。
「屋敷を出る時も、私達一人一人に声を掛けてくださって……」
「領地の使用人達にも、心を込めて手紙を書いていたそうよ」
『今までありがとう』
部屋に置かれていたカードを思い出す。
署名が無ければ、キャロルの手紙と分からなかった。
彼女が幼い頃は、領地から頻繁に手紙が届いていた気がする。
自分は、開封する事なく処分して……手紙が途絶えたのは、いつの頃からか。
(私は、あの子に……感謝されるような事をしたのかしら?)
「ねぇ、貴女達……」
気付けば、思い出話に花を咲かせる使用人達の元へ、一歩踏み出していた。
夫人の存在に気付いた二人は、深く頭を下げる。
そんな姿も気にせず、マーゴットは片方の肩を掴む。
「もっと……話して頂戴」
日が暮れる頃、マーゴットは自室に戻っていた。
寝台に力無く座り込む。
彼女は、目に付いた使用人を捕まえては、キャロルの事を尋ねていた。
彼らの思い出は、どれも優しさや愛情に満ちていて。
母親の自分より、数年の付き合いしかない彼らの方が、キャロルの事を理解していた。
夫や息子に聞いても、きっと、同じなのだろう。
項垂れていると、自分に付き従っていた侍女が、テーブルを運ぶ姿が見えた。
クロスを敷いて、食器を並べて――夕食の準備をしているらしい。
「いらないわ」
食事をとる気分になれなかった。
そんな呟きも意に介さず、侍女は食卓を整える。
その時、扉を開けて別の使用人が入って来た。
確か、料理番のハンナだったか――ドロシーに対して不愛想に答えていた姿を思い出す。
ハンナは、黙って茶とスープを置く。
幾つかの野菜を煮ただけの質素な料理に見えたが、匂いにつられて思わず手を伸ばしていた。
それは温かく、自分の体を労わる味わいであった。
「お嬢ちゃまが奥様と大喧嘩した日も、これだけは食べましたよ」
屈託のない笑みで語るハンナ。
その言葉に、夜会の日にキャロルから言われた事を思い出し、目元が潤む。
『私なんて、生まれて来なければよかったって、あの時、死ねばよかったって……ちゃんと言ってくれれば……』
キャロルをそんな風に思った事は、決してなかった。
自分は、彼女に拒絶されていると思っていたのに……自分が、彼女を拒絶していたのだと、今なら分かる。
「お嬢ちゃまがあんなに大声を上げるなんて初めてだったからね。厨房まで聞こえたよ」
マーゴットの反応など気にしていないかのように、豪快に笑う。
今まで表情一つ変えなかった侍女も、僅かに息を呑んでいた。
「まあ、良かったんじゃないですかね」
「良かった?」
ハンナの言葉が理解出来ず、繰り返す。
「お嬢ちゃまも、最後に言いたい事言えてすっきりしたでしょう。ずっと我慢したまま別れるのもなんですし」
キャロルは、グローブス侯爵家の邸宅に居を移した。
いずれ、クルーク家に嫁ぐため辺境の地へと向かうだろう。
夫や息子はともかく、彼女が自分に会いたいと思うかは分からない。
「お貴族様はお上品になさっているけどね。私達からすれば、あんな喧嘩いつもの事ですよ。私の娘も嫁入り前は『こんな不細工に産んでくれなんて頼んでない』って文句たれて……」
ハンナの笑みに、思わず見入る。
「まあ、望んだままの姿で生まれてくる子なんざいないよ。いつかは、自分の姿に折り合いをつけていくんだ。それまで、親が見届けてあげないとね」
ハンナの語気には、自分を責めるような荒さを感じない。
それでも、マーゴットの心を抉っていた。
「私……」
今まで、自分が責められる事ばかりを恐れ、全てから逃げていた。
『あの子の為』と言い訳をして、キャロルを蔑ろにして。
ドロシーに本当の母親を偲ぶ間さえ与えず、分不相応な贅沢をさせて。
彼女達の、そして周囲の人生を捻じ曲げて、自分も全て失った。
キャロルは、新しい地で母と呼べるような存在を見つけるかもしれない。
そして、いつかは、自分の存在は消えてしまうだろう。
それでも、残せるものがあるなら――
「ねえ、ハンナ……教えてほしい事があるの」
縋る思いで、口を開いた。




