ビラテスワールの伝説 その五
マハーナンディン藩王によるビラータ藩王国の治世は10年ほど続きき。王族や貴族による商人への干渉はこはけれど、庶民にはなべて安らかなる世なりきと伝へられたり。
ウグラセーナとカムルによる商業と物流発展も目覚ましく、ビラータ藩王国は大いに時めきき。かくて、そは宗主国なるマチャ帝国にとりて魅力ある存在に映りつつありき。
マチャ帝国に政変の起こりしは、この豊かになりしビハールの地の占有ありきての帝国内の争ひが発端なりきと言はれたり。マチャ帝国のしれるマールワーの地も穀倉地帯として時めけれど、ビハールの地ほどならざりしためしも関はりけらむ。
帝国内の政変は、加速度つけて悪化しゆきき。かくて、ついには多くの藩王国巻き込む大乱になりき。
この政あやしき背後にカムルの暗躍ありきと噂されたれど真偽は定かにはあらず。
ビラータ藩王国にても治安悪化し、辺境に追ひ払はれたりしスルヤ技官長の親戚一族が盗賊団に襲はれて全滅せり。一族におくりしは、王宮庭園なりしスルヤ技官ばかりなりき。
70歳となりし彼は、その報聞きて地面に倒れ伏しきと伝へられたり。
豊かなるビハールの地ありきて、やがて帝国の派閥の抱ふる我兵や、各地の藩王国軍攻め込みきたり。
そのビハールの地にはウグラセーナ大将軍とカムルが有志と挙兵して聖戦軍指揮し、ビハールの地の屋敷に宴会せる父親なるカーラショーカを殺しき。
由はビハールの地の土地を帝国の派閥に売り渡して、民を見捨てきなれど……ビハールの地への執着のこはかりし彼が、げにさる事せるかは不明なり。
チャヌラ二世は高齢がため、この宴会には不参加に王都ビラテスワールに残れり。名目は王都に幽閉せる前藩王一族と近衛部隊の監視といふ事なりきといふ。
代はりに、チャヌラ三世が宴会に参加せり。
マハーナンディン藩王は傷を負ひつつも、アリシュタ将軍と彼の精鋭兵に守られて屋敷を脱出せり。そのままの足に、ビラータ藩王国のビラテスワール王宮へ逃れゆく。御用商人、チャヌラ三世ら貴族も悲鳴を上げつつ藩王に従って逃げゆききといふ。
彼らの後ろ姿を、冷めし目に見送るウグラセーナとカムルなりき。
多くの神々はマチャ帝国やビラータ藩王国側ならず、敵の聖戦軍側につけり。聖戦軍には強力なるカルナ神、アルジュナ神、女神ドゥルガ、女神カーリーなどが揃ひたれば、マチャ帝国側の神々はすなはち戦意喪失せりと伝へられたり。
マハーナンディン藩王はその事をアリシュタ将軍より聞き、げになにしおふ神々の敵対せる姿見て狼狽せり。わざとブラーマ神を裏切者と言ひていひけちきといふ。
されど、神々は藩王に対して冷たきけしきを示しき。ブラーマ神がかく語りきと伝へられたり。
「寺院荒れ放題にして寄付も積まず、司祭の人数まで減らしし所業を許すべき由なからむ」
言の葉に詰まりし藩王に対し、なほ冷たく言ひ放りき。
「ウグラセーナは奴隷以下のきはなれど、げに信心深し。我ら手厚くあるじして、祭祀もひしと行けり。いづかたに肩入れするかは自明ならむ」
ブラーマ神の話終はると、アリシュタ将軍と精鋭部隊がマハーナンディン藩王と従者、御用商人、貴族らよりかれき。
代はりに羅刹ボウマが手下の羅刹引き連れ来たり。羅刹ボウマが顔に刻まれし深き古傷に手当てて、天を仰ぐ。
「やうやう復讐ぞかなふ、我が王カンサ、偉大なる羅刹の王ぞ」
悲鳴を上ぐるマハーナンディン藩王ども。羅刹ボウマとは初対面なれば、人違ひと弁解すれど聞き入れてえもらはず。
アリシュタ将軍をつい先ほどまで罵倒したれど、惑ひて庇護求めて駆け寄りき。それを藩王国兵が盾連ねて壁になり、マハーナンディン藩王押し返しき。
絶望のけしきになりしマハーナンディン藩王に羅刹ボウマ詰め寄り、しどけなく首はねて殺しき。他の従者やチャヌラ二世ら貴族もあっといふ間に羅刹どもに斬殺されて果てき。あまりにも敢へなき最期なりきといふ。
アリシュタ将軍が藩王の死を検分し、大声に兵士に告げき。
「藩王は崩御しき。これより我らはウグラセーナ大将軍閣下に忠誠を誓ふ」
兵が歓喜の声を上げき。続きて将軍の新たなる軍命を下す。
「至急国内の混乱を制圧す。村や畑を暴徒どもに焼かすな、王都に略奪を行ける輩を一人さながら始末せよ。それがマチャ帝国軍なりともなり」
軍が作戦に入り、多くの武装小隊が各地へうつろひゆく。それ見てから、アリシュタ将軍が羅刹ボウマをさそひき。
「汝は今後いかがす。我が軍に加はらんや」
羅刹ボウマが片膝を地面につきて、アリシュタ将軍に合掌せり。
「されば、手の者の羅刹よろしく頼む。我らも消えゆく身なれど、諜報活動や暗殺きはならば当面の間はせられむ」
了解せるアリシュタ将軍が、重ねて羅刹ボウマをさそひき。羅刹ボウマは不敵に笑ひきといふ。
「我にはいま一つやり残ししためしあり。それを収めせば山奥へこもりて石となる。こは私怨なれば、我ばかりにやる。汝の助力は不要なり」
さ言ひて勧誘を断り、一人ビラータ藩王国の王都へ向かひて飛び去にゆきき。
アリシュタ将軍は、あたらしき羅刹かな、と兜取りて見送りきと語られたり。
その頃、ウグラセーナとカムルはアリシュタ将軍の一部隊借りて、ビハールの地より王都ビラテスワールへ急行せり。途中、村や町、畑を略奪せる暴徒や盗賊団を討伐しつつ進めば案よりもほどかかりてしまひ、夜になりき。
天空に三日月が輝きたれど、各地に火災の発生せるために煙薄く上空を覆れり。そのため、赤く見えきと語られたり。
マチャ帝国側の神々が飛びきて攻撃しくれど、カムルが魔法使ひ強制服従させゆく。それを見し羅刹プラランバ恐怖せり。羅刹にとりて強制服従はトラウマならむ、惑ひて王都へ引き返す。
ウグラセーナ軍が進軍を続けゆくと、道中に王都ビラテスワールに残れるはずのチャヌラ二世が手と共に出迎へき。
「我が我兵を使い、王都を焼けり。これもちて、ウグラセーナ大将軍閣下への我が忠誠の証とありけりたく……」
ウグラセーナとカムル激怒せり。
理解不能とうろたふるチャヌラ二世。その場に彼の首はねられき。
ウグラセーナが全軍に命令を下しき。
「至急王都へ走り、火災を消せ!」
神々にもなど黙れりと怒る。されどブラーマ神は冷酷にいらへき。
「不信心なる貴族ども焼け死なめど、我ら神々は関知せず。それに多くの神々は今、全土にうつろひて汝の聖戦軍を加護し祝福せる最中なり。この街に神々を集むる事は作戦上わろし」
その通りなれば、痛恨のけしきになるウグラセーナとカムル。されど、とかくも王都へ急行する命令を改めて下すウグラセーナなりき。
「恩人ども見殺しにはせられず。全軍にて急行す!」
羅刹プラランバが王都ビラテスワールへ飛びて戻ると、はやく大火災に包まれたりき。驚愕す。
「誰がかかる事を……チャヌラ二世かっ」
とみに南の王宮庭園へ飛びて向かはむと向きを変ふれど、羅刹ボウマもちて背後より斬りつけられて深手を負ひてけり。瞬時に石化され、炎に包まれたる王宮に墜落しゆく。
炎と黒煙の渦巻く王都の上空に、羅刹ボウマ吐き捨てき。
「この40年、剣技の行ひを欠かさざりし元近衛隊長の我に、汝が敵うとも思ひきや」
追撃して羅刹プラランバを封印せむとしたが、王宮の敷地内へ入りし瞬間に飛べなくなりて落下しにけり。ブラフマー神の展開せる、王宮の守護結界による魔力や神術の無効化ためなりき。
その落下の衝撃に両足を折りつれど忍びき。羅刹ボウマが神々罵倒してから、天仰ぎてののしる。
「遺恨の残る相手はあと一人なり。いま少しにさうらふぞ、我が王!」
やがて炎の海の中を、王宮へ向けて走りゆきき。
その頃、燃え盛る王都の南なる王宮庭園には、スルヤ技官が育種中の作物や家畜をバハドル傭兵隊長に託せり。
シコクビエや香り米、粟、蕎麦、豆、麻、地中海より取り寄せし小麦の種子袋が多かりきといふ。
野菜の種もこの頃は多く、からし菜や菜種、カリフラワー、隼人ウリなどありき。他には山芋やショウガ、ターメリックといひし根茎、ニンニクや玉葱といひし球根を入れし袋もありけむ。
鶏の品種改良も進められたれば、そのヒヨコを入れしカゴも多かりきと語られたり。
バハドル傭兵隊長が手に命じて、迅速にそれらを運びだしゆく。女神サラスワティは悪食発揮して、延焼して燃えそめし王宮庭園の施設や壁食ひ破りて脱出を支援せり。プタナ技官長は疾き段階に逃亡して行方不明になれりといふ。
傭兵部隊は荷物抱へたままで王宮庭園より脱出しゆく。その手を見送るバハドル傭兵隊長なりき。
蓮などの花の苗、果樹や造林用の苗は植木鉢に植ゑられたりき。そのため重くかさばりてしまひ、運び出だすはあながちなりき。
そのため、スルヤ技官がごみ捨て場を羅刹語の呪文に呼び出だして、バハドル傭兵隊長ともろともにその中へ運び入れき。緊急避難場所として考へけむ。
スルヤ技官は70世に、バハドル傭兵隊長は60世に達したれど、二人ばかりに作業を始めき。
されど、ごみ捨て場の結界の中は魔法場がこはければ、すなはちたより悪しくなりにけり。そのため、作業を終ふる頃には二人はフラフラになりて衰弱せり。
スルヤ技官は走るべからぬ様なりきといふ。
スルヤ技官が地面に居り込みて、肩に息しつつも安堵せり。
「今回は燃やさで済みしぞ。また燃やしにけらば、プラランバに怒らるるところなりき」
その彼の老ひし笑顔が炎の明かりに照らされたり。
北なる王都より火の粉が大量に飛びきて、王宮庭園もまめやかに延焼しそめき。その火の粉を払ひつつ、バハドル傭兵隊長苦笑せり。
「いかでこふ、日ごろ日ごろ危うきながらも間に合ふめる行ひすやかし、この爺様は」
女神サラスワティが火の中歩みて戻り来たり。
「無事に傭兵どもこそ脱出せれ。汝らもすなはち脱出したまへ。王都の周囲も燃えそめき。人なれば燃えぬるぞ」
王宮庭園より北に見ゆるビラテスワール王都内には、大火災に巻き込まれて多数の焼死者出でたりき。燃えつつ倒るる人も多かりきといふ。
女神サラスワティがそれ仰ぎ見て、泣きつつスルヤ技官に謝りき。
「ゆるしたまへ。王都と王宮庭園にはブラーマ様による障壁張られたり。この中には我の神術や羅刹魔法の多くが使はず。飛ぶ事もここにはあながちなるなり」
女神サラスワティを慰めしスルヤ技官が、彼らせらるるばかり多く助けむと言ふ。了解する女神サラスワティとバハドル傭兵隊長なりき。
王宮庭園に一人の少年迷ひ込みき。なかなか身なりの良き服装に、一目にチャヌラ家の者と分かる。チャヌラ二世が放火したとは未だ知らねば、批判する事もあらず助くるスルヤ技官なりき。
少年がチャヌラ五世と名乗る。父上はつい先ほど焼け死ににけりとも。当時10歳足らずなりきと伝へられたり。
火の海に、ともかくも救出せられし被災者は十数名ほどなりきといふ。スルヤ技官はなほ救出せまほしきけしきなれど、これ以上は我々も焼け死ぬる恐れ高しとバハドル傭兵隊長制止せり。
「今は主従関係は無く契約も無けれど、友として命ず。ここまでなり、スルヤ氏」
渋々了解せるスルヤ技官がバハドル傭兵隊長に頼みき。
「彼らを外へ逃がせたまへ。サラスワティ様は、退路の確保願ひたてまつる」
スルヤ技官は地下牢へ行きて、幽閉されたる前藩王陛下どもを助けくと告げき。
チャヌラ二世はこの時、前藩王と近衛部隊を王都内の王宮ならず王宮庭園の地下倉庫へ移動させたりき。その地下倉庫改造して牢獄にし、幽閉せりけり。彼らが王宮の敷地内なる事すら嫌ひけむ。
この処遇が前藩王どもの命を救ふ事になりけれど、チャヌラ二世ははやく死亡して知る由もあらざりき。
地下なれば火災は及ばずと言はれて、納得するバハドル傭兵隊長と女神サラスワティ。
かたみに無茶ぞ無用と言ひ合ひて作戦行ひに入りき。されどスルヤ技官は未だ足元がフラフラしたれど。バハドル傭兵隊長も足元の危うきけしきなりきと語られたり。
王宮庭園の地下牢には警備兵が誰も残りたらざりき。スルヤ技官がカギを管理室より取りきて、牢屋開けて解放しゆく。かくて前藩王に膝つきて合掌せり。
「無事によふさうらひ。外は火の海なれど、脱出路確保してさうらふ。脱出たてまつらむ」
前藩王がいかがいらへしかは、伝へられたらず。
脱出のいそぎを整ふれば、羅刹ボウマ突入しきたり。まさしく悪鬼そのものの形相なりきといふ。
「かかるかたなりきやっ。カンサ王陛下の覇道を邪魔せる人め、今こそ成敗せん!」
武器の短剣を持てるはスルヤ技官ばかりなれば、一人のみ立ち向かひき。
されど、易く両腕を羅刹ボウマに斬り飛ばされぬ。スルヤ技官は構はで羅刹に体当たりして倒し、衣服に噛みつきて動きを封じき。
羅刹ボウマの両足に激痛が走り、呻きて動けなくなりき。前藩王一族と近衛部隊はこの隙に脱出しゆく。
逃がさずと猛り狂ふ羅刹ボウマが、スルヤ技官の背中を長剣にてメッタ刺しにしゆく。ブラーマ神の張れる結界の中なれば、体力が大幅に削られたる事を口惜しがる羅刹ボウマ。
「たかが人のジジイ一人に押さへつけらるとは、忌々しき屈辱か」
スルヤ技官は高齢になれるたため、羅刹ボウマには彼がスルヤとは認識せられざりきめり。
被災者を脱出させしバハドル傭兵隊長と女神サラスワティがとみに王宮庭園へ戻ると、炎の中より前藩王どもが燃えつつ走りきたり。
とみに女神サラスワティが神術にて治療せむとすれど、発動せざりき。ブラーマ神に怒りを向くれど、反応は返りこず。
やむなく水差しよりカウシキ河の聖水垂らし、火傷を応急措置に治しゆきき。傷跡の残るかもと女神サラスワティが謝れど、前藩王どもは大いに感謝せりと語られたり。
前藩王どもをバハドル傭兵隊長案内して王宮庭園の外へ避難させゆく。今や王都の周囲もあららかに延焼し、それが王宮庭園にも及べり。王宮庭園の外も一面の猛火と黒煙なりきと語られたり。
スルヤ技官の姿見当たらずと女神サラスワティが危惧すれど、前藩王も近衛隊長もかへりごとなしなりきといふ。
前藩王どもがバハドル傭兵隊長に案内されて去にゆきし後、一人ばかり残りし近衛兵が、地下牢にて羅刹と戦へばと教へき。
女神サラスワティ驚愕して急行す。
地下牢へ入ると、メッタ刺しにされしスルヤ技官を羅刹ボウマ引きはがしし場面なりき。
それを見しサラスワティが咆哮してマタンギに変身せり。驚く羅刹ボウマをスチミタールと呼ばるる曲刀使ひて一瞬に斬り倒し、発生せる魂にも斬りつけてむげに滅殺しき。ただの白骨になる。
マタンギの真っ白き衣装に大量の赤き返り血付き、床にしほたれゆく。かくて衣装が血の色にうつろひき。
血まみれに断末魔の痙攣せるスルヤ技官抱き上げて、神術に治療せむとすれど……なほ今回も使へず。水差しの水はありつる火傷治療に使ひ切れり。
かくなりては、と羅刹ボウマの白骨化せる頭蓋骨まうけ上げて羅刹魔法かけ、頭蓋骨より赤黒き血を溢れさせき。これをスルヤ技官に飲ませむとす。
「魔物化すれど、背に腹は代へられず。死ぬべからぬぞ、スルヤ」
されど、スルヤ技官はその施術を拒否せり。
「我はいま十分に生きき。いまかく老いたり。藩王様救助せられて、今までの恩義を果たすべかりき……死ぬるにはつきづきしき頃合へり」
それに……と付け加へき。
「神様が血まみれになるこそゆかしからね。サラスワティ様は浄化の女神にて生続けたまへ」
マタンギ了承してサラスワティの姿に戻りき。さりとて全力の神術にスルヤ技官の出血を止めきといふ。
「せめてなやまで眠りたまへ」
そのおかげにてスルヤ技官の出血止まり、容体落ち着きき。斬り落とされし両手の傷からの出血も止まりゆく。されど床に転がれるスルヤ技官の両手は、羅刹ボウマによる羅刹魔法もちて朽ちにけり。
女神サラスワティがスルヤ技官背負ひ、地上へ向かふ。その上り階段の途中に、スルヤ技官が藩王どもの逃亡を手助けせむと言ひ出だしき。
「地下牢の一角には、乾燥大麻の種と葉が大量に保管されたり。これを燃やさば、煙を吸ひし敵兵が錯乱せむ。王都の民も未だ逃げたる最中、逃亡への支援にもならむ」
呆るる女神サラスワティなれど、了解せり。
「いまじき死ぬといふに、げに汝は……」
地上へ出でてから、女神サラスワティが石畳の地面に神術のストラ撃ち込みき。今はブラーマ神による制限下なれば単発のほかに撃たねど、無事に大穴開きて大麻倉庫に通じき。
すなはちストラの熱放射に燃え上がる。いまひたぶるに夜になれり。
なほあららかに燃え上がりゆく王宮庭園に、女神サラスワティため息をつきき。
「神術使ひ切りき……ストラを撃たずは、脱出せられしぞ」
背負はれたるスルヤ技官が気楽に微笑みき。
「これにてありぬべきぞ。大満足なる、サラスワティ様。両手もあらずかし。我は炎との縁深し、ここにて燃ゆる事にす」
バハドル傭兵隊長は前藩王どもと近衛部隊引き連れ北東の山間地へ向かへり。10年間に及ぶ幽閉がために全員体力の落ちたりしため、やをらせる速度なりきといふ。
バハドル傭兵隊長も魔法場汚染がために、幾度も口より血を吐けり。
その一行に、チャヌラ二世の雇へる私兵団が盗賊と化して襲ひ掛かりきたり。
「前藩王の首はさだめて高く売るるに違ひなし。さらに逃すな」
近衛部隊立ち向かへど、武器も防具もあらぬ素手なりき。たちまちのうちに全滅す。
バハドル傭兵隊長ばかりが孤軍奮闘すれど、矢を頭に何本も食らひに戦闘不能になりにけり。私兵団が狂喜しつつ前藩王に襲ひ掛かる。
そこへ女神ドゥルガ出現せり。三又槍を一閃して私兵団を皆殺しにす。
恐怖する前藩王どもなれど、バハドル傭兵隊長ばかり血まみれつつも武器持ちて対峙す。その勇気をめでし女神ドゥルガが三又槍消去して告げき。
「もはやビラータ藩王国は滅びき。今後かすかにふらば見逃せど、如何すや」
前藩王は即座に従ひきと伝へられたり。
苦笑せる女神ドゥルガなれど、前藩王の返答受け入れき。
「されば契り通り見逃さむ。我を信仰せば多少の加護は授けてやれど、いかがすや?」
これまた即答に女神ドゥルガを信仰すとちぎる前藩王なりき。
前藩王どもが山の方へ去にゆくを見送りしバハドル傭兵隊長を、女神ドゥルガめでき。
彼の体中に突き刺される矢をさながら消去し、割れて穴まみれになれるバハドル傭兵隊長の頭優しく抱きき。血まみれの彼の口を、赤き衣装の袖にて拭く。
「よく戦ひ続けきかし。戦女神ドゥルガの名におきて汝を戦士と認む」
おだしく微笑みて事切るるバハドル傭兵隊長なりき。
ウグラセーナとカムルの軍が、燃え盛る王都ビラテスワールへ至りき。王都の周囲も広範囲に燃えたるため、安易に近寄らず。
と同時に、兵どもが煙吸ひて酩酊し狂乱しそめき。羅刹魔法か、と警戒していったん軍を引くウグラセーナ。
ブラーマ神呼びて聞けど、彼も知らずといらふ。神術にも羅刹魔法にもあらずと。
それ聞きて、スルヤ技官の作戦と直感するカムルなりき。これならば未だすくよかに生けべし、と安心す。
カムルがこの煙は大麻を燃やししものならむと言ひ当てき。かくて王都や王宮ならず王宮庭園なりとも。
「明日の朝には燃え尽くれば、それ待ちてから王宮庭園へスルヤ様を迎へに行かむ」
ウグラセーナも了解し、野営を命ず。
ブラーマ神は知れれど黙れり。
(この酩酊と混乱の煙を浄化する神術くらい造作もあらねど、さすとドゥルガの逃がしし前藩王どもを自軍の兵追ひかけむ。まず間違ひなく討ち取らる。そはスルヤやバハドルなどいふ人のこころざしに沿ふまじ)
さる由がために、女神カーリーやカルナ神、アルジュナ神も動かさざりき。
(何よりも今は……サラスワティを監視するが最優先ならむ。怒りと悲しみに我失ひて暴れざらまし)
燃え盛る王宮庭園には、女神サラスワティが白鳥からの報告を受けたりき。ウグラセーナとカムルの軍停止して野営を始めきと聞き、スルヤ技官安堵せりといふ。
王宮庭園は真っ黒な煙に覆はれて、人のスルヤ技官は外のけしき見えず。せっかくのついでなれば、あからさまに大麻の煙を吸はまほしとスルヤ技官が希望すれど、却下されき。女神サラスワティ呆る。
「発狂しつつ死にゆく汝の姿はゆかしくなきぞ、我は」
スルヤ技官のけしきより血の気失せていき、痙攣が再び始まりき。目見えずなり、耳もきこえずなりゆく中に、スルヤ技官が女神サラスワティに語る。
これにて藩王様の一族、それに民が戦火より逃げ延ぶるほどを得られたり。女神サラスワティに感謝する、と。
遺言として、我々人間はくらけれどいかでか見守らばくれまいかと頼みき。神々とはなるべく喧嘩せぬやうにとも。苦笑しつつも了解する女神サラスワティなりき。
いま声を出だせなくなりたれば、思念にて女神サラスワティに伝ふ。
(神と羅刹、マデシ族やクンバ族と立場の壁越えて、品種改良と普及のいとなみのせられしはげに楽しかりき。実は女神の喜ぶ顔ゆかしく、いとなみをこころばめるぞ)
果てにスルヤ技官が、女神サラスワティに汝を思へると伝へて死亡せり。魂がスルヤ技官の体より離れ、炎の渦に巻き込まれて消えゆく。
その魂の最期を見届けし女神サラスワティが、スルヤ技官の遺体背負ひ直しき。
「女神サラスワティの名におきて宣誓す。我のこの身の滅ぶるほどまで、汝の愛に応へむ」
王都と王宮庭園の炎上する中に、血のごとく真っ赤な三日月が暗黒の煙たなびく夜空に浮かべり。
女神サラスワティの耳飾りの赤き三日月の形に変化しゆく。
そこへ、やうやう石化より自力おこたりし羅刹プラランバが王宮より駆けつけき。事切れしスルヤ技官見て号泣せりといふ。羅刹プラランバを労わる女神サラスワティ。
スルヤ技官の遺言を伝ふと、羅刹プラランバが自らの指を切り、その血もちて誓約しき。
「我も同じ契りを守らむ、サラスワティ様」
地下より噴き上げくる猛火が回り、女神サラスワティと羅刹プラランバのあるかたも炎に包まれき。サラスワティの真っ赤な衣装が、炎に浄化されて真っ白になりゆく。
同時にスルヤ技官の遺体にも火点きて燃えそめき。それ背負ひ続けて、肩越しに優しく微笑む女神サラスワティなりき。
燃え崩れゆく王宮庭園と王都に、かの女神の歌ふ子守唄流れゆく。
王都ビラテスワール燃え落ちし後、女神サラスワティはカウシキ河のきはに移りゐきと伝へられたり。カウシキ河は今はコシ河と呼ばれたり。
ウグラセーナが建国せるナンダ帝国は栄ゆれど短命に終はりき。24年後、挙兵せるチャンドラグプタもちて滅ぼされ、マウリャ帝国が建国さる。こは天竺初の統一国家となりき。
かくしてカウシキ河の流れはたえずして、世の流れを映しとるらむ。
公園管理人オヤジのラムバリによる語りが終わった。
「どうだい? ナラヤン君。なかなかに波乱万丈な内容だろ」
管理事務所の外にあるベンチに座り、木陰で風に吹かれながら話を聞いていたナラヤンが呻いた。
「面白かったです。ですが、長すぎますね。もっと短くするか、場面ごとに区切らないと観光客が聞き飽きてしまうかも。楽師を呼んで何か演奏してもらいながら、お客様に座って聞いてもらうような工夫が必要かと」
そして、公園の入り口に視線を向けた。観光客の姿はない。
「実際、興味を示さずに去ってしまいましたし」
ラムバリが呻いて腕組みした。
「そーかなー、悲しくて良い話だとワシは思うんだがなー……伝説なんだから、派手派手な話にした方が観光客も寄ってくると思うんだが」
ナラヤンが聞き流して、別の懸念を伝えた。
「この話ですと、ビハール州のインド人から文句が来ませんか? メチャクチャにされてますけど」
ラムバリが腕組みをしながら首をひねる。
「そうかい? だったら、もう少し話を変えてみるか。観光客の大半はインド人だしな」
そうするように促すナラヤンだ。
「もっと別の現実的な客寄せネタを考えましょう。僕も考えてみます。村興しにもつながりますしね」
ナラヤンの実家はここから北に離れたイタハリという町の近郊にある、マデシ族の村である。
公園管理人オヤジのラムバリが興味を抱いたようで、ナラヤンの故郷の村でも村興しをしているのかと聞く。ナラヤンが肩をすくめて笑った。
「麻の栽培を拡大しようかと話をしていますよ。ビラトナガル市には国内最古の麻布工場もありますから、それなりにブランド化しています。村に仕事がないと、どんどん過疎化していきますしね」
話しながら、口調が次第に沈んでいく。
「僕は学校の成績が優秀ではないので、卒業後は進学せずに地元で就職するしかありません。過疎化すると僕が困ります。でないとインドへ出稼ぎに行く羽目になるんですよ」
王宮跡公園の南側にはインドのビハール州の田舎が広がっている。特に壁や柵などで国境を区切っていないため、地元民であれば行き来が自由だ。
遠くからはイスラム教徒のモスクから流れる、礼拝の時間を知らせるアザーンが風に乗って聞こえる。多くのモスクが一斉にスピーカーを使って歌うので、一気に騒々しくなってきた。
公園管理人オヤジのラムバリがそれを聞きながらナラヤンに話した。
「ネパール側にやって来るインド人ってのは、酒が目当てだしな。インド側はイスラム教徒が多いから飲み屋は少ない。おかげでネパール側には飲み屋がたくさんあるが」
そう言ってから、少し考える。
「この辺りの村興しといっても養鶏とか魚の養殖だしな、地味だぞ。しかしまあ、それなりに仕事はある方かな。ワシも農家をしているから、兼業でこうして管理人業務ができるほどには余裕があるし」
王宮跡公園の北側には干からびた聖池がある。公園の敷地内ではあるのだが、壁や柵などはない。今は放牧牛や水牛が草を食んでいるだけだ。山羊の群れは牧童に導かれて、どこかへ移動していった。
聖池は整備も何もされていないので、石段も崩れて草木に覆われており廃墟の雰囲気を色濃く出している。牛糞がたくさん転がっているのでハエも多い。
「政府や市長は全く理解しておらん。この遺跡の価値は神話級なのだぞ」
そう嘆く公園管理人のラムバリである。ナラヤンも同情する。
ラムバリの口調に熱がこもった。
「ここはビラータ藩王国の王都で、ビラテスワール王宮が建っていた場所なんだ。インドのビハール州も支配していたし、マハーバーラット叙事詩にも登場する由緒正しい王国だったのだぞ。本来ならネパールを代表する観光地になるべき場所なんだ」
その力説を聞くナラヤンは懐疑的だが。
「伝説や叙事詩は歴史書ではありませんよ……」
ちなみに公園管理人オヤジのラムバリは、ヒンズー教のバフン階級で司祭だ。ただ、キリスト教とは違い本業は農家である。バフンやチェトリ階級は王国を歴史上数多く打ち立てているため、それなりに政治への関心は高い。
ナラヤンはマデシ族である。主に東ネパールの平野部や低い丘陵地帯に多く住んでいる先住民族の総称だ。
この先住民族もヒンズー教徒であるが、歴史的に政治権力との関わりは薄かった。そのため、ラムバリが話したこの伝説を聞いても感慨は特に湧いていない様子である。
なお現代ではマデシ族の政党が複数あり、政治への関与も大きくなってきている。特にビラトナガルを州都とする第一州では、マデシ族の発言力が大きくなっている。第二州などでも同様の状態だ。
北の空の雷雲は消えてしまっていた。ナラヤンが残念がる。関心事としては空模様の方が重要らしい。
「こっちにも雨が降ってくれると涼しくなるんですけどねえ」
以上で神話と伝説を終わります。以降は現代を舞台にした話になります。
伝説の話を書いている間に聞いていたのはBabymetalの紅月でした。