謁見
季節は西暦太陽暦の11月下旬になった。穏やかな北風が吹くようになり、空を見上げると白くて薄い筋雲がいくつも並んでいるのが見える。まだ大地はそれほど乾燥していないので、空気中の粉塵も少ない。ネパール平野部では最も過ごしやすい時期だ。
大祭がいくつも続いていたのだが、それも一段落してビラトナガル市内や周辺の村では落ち着きを取り戻していた。インドなどの外国へ出稼ぎに向かう人々が旅立つ時でもある。
ナラヤンの実家があるマデシ族の村でも、十数名の男女がスーツケースを手にして乗り合いバスに乗り込んでいた。彼らもこれから海外へ出稼ぎに向かう。
見送る村人たちの中にナラヤンの姿もあった。走り去っていくバスのテールランプを見ながら、小さくため息をついている。
「はー……真面目に勉強しないと、本当に出稼ぎに行く羽目になるよなあ」
呪術師のラズカランがやって来て、ナラヤンの肩を叩いた。
「もしくは、機械修理屋の作業員だな。ワシもいくつかの店主と付きあいがあるから紹介してやるよ。高卒が条件だけどな」
素直にうなずくナラヤンである。
「その時はよろしくお願いします。修理の腕を少しでも上げておく必要がありますね」
その後はナラヤンの両親や親戚から、いつもの説教を食らう事になった。
「高卒だと少しはマシな出稼ぎ先があるようだが、もっと勉強して良い成績を残しておかないといかんぞナラヤン」
「高卒もいいが、やはり大卒を目指せ。理想は修士だな。だが学費は自分で稼いで捻出しろよナラヤン」
「成績が悪いなら、いっその事、高校中退して村の麻栽培を手伝うってのもアリだぞナラヤン」
「外国へ出稼ぎに行くにも、健康診断書とか必要だからな。その費用は自身で払えよナラヤン」
「おい、聞いているのかナラヤン」
ナラヤンが両目を閉じて大人しく聞く。
「ガンバリマス……」
説教から解放されたナラヤンが、説教の聞き疲れでフラフラしながら自転車を取りに行く。すると、スマホに着信通知が来た。スマホを取り出してイノシシを指タッチする。
「こんにちはムカスラさん。僕はこれから寮へ戻りますが、途中で市場に寄ります。何か買ってきましょうか? 今の時期はオレンジがお勧めですよ」
しかしムカスラの口調はかなり沈んだ感じだった。
「マガダ帝国で問題が発生しました。相談したい事がありますので、サラスワティ様にも声をかけてもらえませんか?」
ナラヤンが小首をかしげて自転車に乗った。
「相談ですか? 僕はこれから暇ですので構いませんが……何か深刻そうな内容っぽいですね」
ムカスラが沈んだ声のままで肯定した。
「そうなんです」
結局、寮へ帰らずにそのままコシ河の橋を渡って、いつもの展望台へ向かったナラヤンであった。サラスワティがナラヤンを出迎えた。すでに人払いされているようで、他には誰もいない。
「電話で話は伺いました。ムカスラさんが危惧していた通りになりましたね」
ムカスラも展望台へ転移してきて、深刻な表情のままでうなずいた。いつもはステルス魔法で姿を消しているのだが、今回はそうする余裕もなさそうだ。
「いえ……予想よりも悪い状況ですね」
マガダ帝国は調査隊を様々な異世界へ派遣しているのだが、巨人世界へ向かった隊が捕まってしまった。理由は、巨人たちに相談や許可もなく採集行為を続けていたためだ。
ここまではムカスラや彼の上司のプラランバが心配していた通りである。
「報告を聞いた皇帝陛下が大変お怒りになりまして……帝国軍を出兵させて巨人世界を攻め滅ぼせと仰せになったんです」
今の所はバスマスラ宰相が反対していて、皇帝を説得しているそうなのだが……聞き入れてもらえない雰囲気のようである。
サラスワティが呆れた表情になった。
「巨人族の魔力を過小評価していますね。反対に羅刹世界が滅ぼされてしまいかねませんよ」
ムカスラが泣き顔になる。
「ですよねー……鎧ですら、あの魔力だったんですよ。ちゃんと報告書を上げたのに」
どうやら、ドラゴン族がいる異世界から無事に調査隊が帰還したので調子に乗ってしまったようだ。魂だけしか戻ってきていないが。
ナラヤンは小首をかしげているままだ。
「しかし、どうも唐突な印象を感じます。羅刹さんのステルス魔法ってかなり高性能ですよね。巨人といえども、初見ではなかなか察知できないと思うのですが。それに調査隊があっけなく捕まったのも、どうも不自然な気がします」
サラスワティも同意した。ナラヤンが持っているスマホに視線を向ける。
「確かにそうですね……羅刹魔法を知っている私でも、ナラヤンさんが関わるまでは察知できていませんでした。ステルス効果はかなり高度だと思います」
恐らく千年単位で気がついていない事になる。
ムカスラが泣き止んで、腕組みをして考え込んだ。
「冷静に考えるとそうですよね……情報が漏れていたのかな。巨人族が調査隊を待ち伏せしていたとすれば納得できる点もあります。調査隊員の全員が無力化されて捕まっているんですよ。羅刹魔法の術式に詳しくないと、こういう事にはならない……かな」
ナラヤンがふと思いついて指摘した。
「ドワーフ製の機械って、絶えず情報収集をしているんですよね。それを巨人族が傍受したとか?」
ムカスラが否定的に首をふった。
「調査隊の装備にはドワーフ製の機器を使っていません。信用がないので。使っているのは、魔法世界の武器ですね。でもこれは、多くの異世界で広く使われています。この武器を経由しての情報漏えいが起きたという話は聞きません」
ナラヤンが両目を閉じて呻いた。
「うーん……謎の解明ならず。僕の頭ではこれ以上は無理ですね。賢くなくて、すみません」
サラスワティがじっと聞いていたが、彼女は何も言わなかった。代わりにムカスラに聞く。
「それで、相談というのは何ですか?」
ムカスラが我に返った。
「あ。そうでした。バスマスラ宰相閣下とプラランバ様が、皇帝陛下を諫める策を考えたのですが……サラスワティ様にもご協力をお願いしたいのです」
その策を聞いたサラスワティが、少しジト目になりながら口元を和らげた。
「バスマスラさんらしい策ですね。確かに、羅刹の天敵である神を利用するのは効果的だと思いますよ」
ナラヤンもその策を聞いていたが、彼は目をキラキラさせている。
「僕なら大丈夫ですよっ。もう何度も死んでいますから、もう一回くらい平気です」
ムカスラがサラスワティと顔を見合わせて、困ったような笑顔を浮かべた。
「人間は不死ではない事を忘れないでくださいね。では、早速で申し訳ありませんが羅刹世界へご案内します」
羅刹世界へ到着する前に、サラスワティがナラヤンのスマホの中へ入り込んだ。スピーカーから彼女の声がして、画面に顔が映し出される。
「今回は用心のために、素体へのナラヤンさんと私との二重憑依は止めておきましょう。スマホの中に入っています」
マタンギ化を心配しているのかな? と思うナラヤン魂であったが、素直に了解した。彼の体はいつものように透明化されて、展望台の上に浮かんでいる。
(分かりました。実体化したい時は、僕に遠慮なく実行してくださいね)
ナラヤン魂の意識が戻ると、老人型の素体に憑依していた。起き上がって軽く運動する。衣服はマガダ帝国での礼服である。何となくだがカーリーが着ているインド貴族風の軍服に似ている。
「おー。かっこいいですね、これ」
ムカスラが謝った。彼は白衣姿だがこれも礼服のようだ。
「すみません。素体不足が相変わらずでして」
そう言って、ナラヤンのスマホを渡した。画面にはサラスワティの顔が映っていて、目元を和らげている。
「シシュナーガ王国時代の礼服ですね。懐かしいな」
そのまま待合室に通された。そこには白衣姿の礼服を着たプラランバがいて、申し訳なさそうに合掌してきた。
「帝国のゴタゴタに巻き込んでしまい、まず謝罪いたします」
スマホの中でサラスワティが気楽な表情で微笑んだ。手にはヴィーナを持っている。
「巨人の件では私にも落ち度がありましたし、このくらい構いませんよ」
そう答えてから、部屋の中を見回した。重厚な石造りの部屋だ。照明は魔法世界から輸入しているのだろう、天井全体が白く発光している。
「昔のシシュナーガ王国の王宮よりも立派な造りになっていますね」
プラランバが恐縮した。
「基本的な構造は同じですよ。規模が百倍くらいになっているだけです。不具合や無駄が多いので、使い勝手は昔よりも悪化していると思います」
ナラヤン素体はそう思っていないようだ。目をキラキラさせている。
「昔の宗教画に出てくる宮殿とも違いますね。すっごくキレイだと思いますよ」
シシュナーガ王国は紀元前にあったため、絵画などは今に残されていない。その後に仏教を基礎にしたガンダーラ美術が北インドで流行したため、現代ヒンズー教の宗教画とは断絶しているといって良いだろう。
このシシュナーガ王国時代の美術は、意外にも神々が封印用に使用している石製のツボや水差しに受け継がれていたりする。
プラランバとサラスワティが昔話や近況について談笑していると、近衛兵がやって来た。ナラヤン素体に丁寧に敬礼する。
「謁見の時間になりました。どうぞ、皇帝陛下の間へお越しください」
皇帝陛下の間は、さすがに広くて華やかだった。柱は中央がやや膨らんでいて、台座と上端には立体的な彫刻が施されている。様々な種類の自然石を敷き詰めた床は、デコボコが全くなく鏡のような光沢を放っている。天井や壁には、皇帝の偉業を称える絵や領土内の景勝地が描かれていた。
近衛兵が十数名ほど並んで直立不動で皇帝を警護している。玉座は一段高い場所に設けられていて、そこに身長190センチほどの皇帝が座っていた。結構、華美な衣装である。
皇帝の玉座の下には一人の羅刹が立っていた。顔がよく見えないが、彼が宰相バスマスラなのだろう。
ナラヤンとムカスラ、プラランバが皇帝の御前に進み出て、両膝を床につけて合掌した。ナラヤンも一緒に合掌する。
その後、帯剣や魔法具などを外して床に並べて置いていく。ナラヤンはスマホを床に置いた。電源は入ったままなのだがサラスワティの姿は見当たらない。近衛兵がそれらを手に持って危険がないかどうか確認していった。
特に問題はないようだ。近衛隊長が宰相に無言で敬礼する。
それを見た宰相が鷹揚にうなずいて、皇帝に報告した。
「人間世界からの参考人を召喚いたしました、陛下。巨人世界の情報を知っている人間でございます」
ナラヤンが合掌したままで頭をさらに下げた。
「ナラヤンと申します。皇帝陛下におかれましては、ええと……良い日和でございます」
ジト目になった皇帝が、つまらなそうに宰相を見据えた。彼も羅刹なので凶悪な形相である。
「子供ではないか。しかも礼儀作法すらなっておらぬぞ」
宰相が表情を変えずに答えた。
「その通りでございます。ですが、かの者は我らが知る限り唯一、巨人族と会話をしております。いくばくかの情報は引き出せるかと」
あー……そうだったっけ? と自問するナラヤン素体である。
(チヤを飲んだ程度しかないんですけど)
皇帝がジト目のまま、ナラヤン素体に発言を許可した。もう一度頭を下げたナラヤン素体が、床に置いていたスマホを手に取る。
(ええと、予定では巨人の脅威を強調するんだったよね)
「畏れながら、言上いたします陛下……」
話を聞いた皇帝が途中で怒り始めた。手に持っている金色の杖で床を叩く。
「もう十分だ。なんだ貴様は。巨人を褒めちぎりおって。不愉快だ」
その時、宰相がナラヤンに軽くウインクした。ナラヤンがそっとスマホに話しかける。
「サラスワティ様。どうぞ姿を見せてください」
「はいはい」
画面に顔が表示されると、皇帝陛下の間に緊張が走り抜けた。皇帝が顔を青くして玉座から転げ落ちる。
「げ! 貴様は破壊神サラスワティではないかっ。カラヤヴァーナ帝国とシシュナーガ王国を滅ぼした仇敵め! なぜここにいるっ」
サラスワティが画面の中で顔を少し強張らせながら微笑む。
「羅刹から見ればそうでしょうね。久しぶりです、ジャラサンダさん。今は皇帝の仕事をしているんですね。ちなみにシシュナーガ王国滅亡について私は関与していませんよ」
そして、スマホ画面の中でヴィーナをつま弾きながらナラヤン素体に代わって話を続けた。
「……という事件がありました。カーリー、カルナ、アルジュナが一撃で敗北するような戦闘力ですよ。羅刹でも勝てないでしょう」
青い顔をしながらも玉座にしがみついて強弁する皇帝である。
「うるさい破壊神。今のマガダ帝国軍は10万の兵力なのだ。魔法世界から最新鋭武器も導入しておる。神や巨人であっても負けはせぬぞ!」
サラスワティが呆れた表情になってため息をついた。
「王宮跡地の地下室ですが、ブラーマ様はドゥルガにシルシャアストラの使用を許可していました。ご存じですよね、この神器」
「ひっ……」
皇帝が再び玉座から転げ落ちた。ガタガタ震えて怯え始める。
「陛下!」
近衛隊長が叫んで、ナラヤンにつかみかかった。他の近衛隊員も隊長に続く。
しかしサラスワティがスマホの中でヴィーナを一鳴らしすると、昏倒して気絶してしまった。ムカスラとプラランバ、それにバスマスラは耳栓をしているので無事だった。
「ボウマさん以来の伝統ですね。職務に忠実なのは嫌いではありませんよ」
そう微笑んでから、もう一鳴らしした。皇帝がのたうち回って悶絶する。
「ぎゃああ……あ……あ?」
苦悶の表情を浮かべていた皇帝が、夢から覚めたような清々しい顔つきに変わった。そして、別人のような所作で優雅に玉座へ座り直す。
「人間、情報提供に感謝する。大儀であった。巨人世界への侵攻は中止するとしよう。宰相、各方面にそう通達せよ」
耳栓を外した宰相がうやうやしく皇帝に合掌した。
「かしこまりました、陛下」
そしてナラヤンとスマホに視線を向けた。
「これにて謁見を終了する。皇帝陛下の御退出である」
皇帝が優雅に皇帝陛下の間から出ていった。
ほっと安堵した宰相が、まだ倒れて気絶したままの近衛隊を診療するように命令を出す。担架に乗せられた近衛隊を見送って、軽く肩をすくめて微笑む宰相だ。
「サラスワティ様。ちょうど良い具合の神術でした。後遺症も残らないでしょう。感謝いたします」
スマホの中でサラスワティがクスクス笑っている。
「どういたしまして。性格矯正を施しましたので、今後は聞きわけが良くなると思いますよ」
それを聞いたナラヤン素体がピンと背筋を伸ばした。冷や汗をかなりかいている。
(め、女神様こえええええっ……)




