パトナ騒動 その四
ヒランヤクシャはビハール州庁舎の高層ビルに向かって一直線に飛んでいった。この庁舎だけはそれほど被害を受けていないのだが、理由は女神ラクシュミとガネシュがここに避難して防御障壁を張っていたためだった。
庁舎内には毒ガスが侵入していなかったようで、建物の中には数百名ほどの人が生存している。全員ショックのため顔面蒼白だが。
そのラクシュミが、凶悪な形相で飛んでくる血まみれのヒランヤクシャを見て悲鳴を上げた。
「きゃー! ブサイクな魔物が来ますわーっ ガネシュ、何とかしなさい!」
しかしガネシュも非戦闘系の神だ。うろたえるばかりである。一応、ゴード斧を呼び出して構えたが……へっぴり腰だ。
「そ、そそそんな事を仰られてもっ」
とりあえず、ガネシュの眷属であるネズミの神霊をミサイル代わりにしてヒランヤクシャに撃ち込む。しかし、ことごとくヒランヤクシャに殴り潰されて消滅してしまった。
「げ……」
次の瞬間、ヒランヤクシャがガネシュの頭を食いちぎって飲み込んだ。腹の中で象型のガネシュの頭が魔法場の衝突を起こして爆発する。ヒランヤクシャの腹に大穴が開いたが、構わずにラクシュミの艶やかな黒髪をつかんだ。手が燃え上がるが気にしていない。
悲鳴をあげるラクシュミを容赦なく振り回して、もう片方の腕の爪で彼女の首をかき切った。血は出ずに、金色の神術場が放出されていく。
「ぎゃ……」
弱々しい悲鳴をあげたラクシュミが、ショックと恐怖でぐったりする。
追いかけてきたカルナに、ヒランヤクシャが振り返った。血まみれの体である。
「来るな! こいつらがどうなっても良いのか。人間もここにはまだ多く生き残っているのだぞっ」
人間には神や魔物の姿は見えないのだが、庁舎内で起きた爆発で騒然としている。州知事らしき中年男も群衆の中にいて、警備員たちによって守られているのが見えた。
カルナが鼻で笑って杖を消し、代わりに金色の弓を呼び出した。それに金色に輝く矢をつがえる。
「そんな些末な事など知らぬ」
そう言い放って、容赦なく矢を射った。
金色の矢はラクシュミの頭を貫通して、その後ろのヒランヤクシャの額に突き刺さった。
「が……」
魔物も女神も断末魔の叫びを上げる事もできず、瞬時に巨大な真っ白い火球に飲み込まれて蒸発していく。
その真っ白い火球は急速に膨張し、直径1キロになって太陽色に変わり……爆発した。
その爆炎の中で満足そうに肩を回すカルナである。
「うむ。久しぶりに良い運動ができた。ビラトナガルの地下室では酷い目に遭ったから、気晴らしになる」
爆発が収まり視界が回復すると、パトナ市『だった』全容が見えてきた。
地平線まで草木も何もない更地になり、しかも地面は溶けたガラスで覆われている。ガンジス河も干上がり、どこに河が流れていたのかすら分からない。パトナ市の建物は全て溶けて吹き飛ばされていた。
州庁舎が建っていた場所には何も残っておらず、直径数百メートルほどあるクレーターがあるだけだ。クレーターの底には、岩石がまだ溶岩状態になっていてグツグツと沸騰している。
ガネシュとラクシュミの金色をした炎型の魂が飛んできて、カルナを猛烈に非難し始めた。
(何て事をしたのですか、この無骨者っ。あんなに綺麗だったパトナの飾りつけが、こんな穴ぼこに。いくらチャッテ祭の前だからといっても、こんな非道は許されませんことよっ)
(そーだ、そーだ。こんなになったら商売繁盛も何もあったものじゃないですよっ。暴力反対!)
カルナが面倒臭そうに頭をかいた。
「うるせえな、もう。人質になったのが悪いんだろうが」
そうして、更地を低空飛行しながら逃げ出そうとしているヒランヤクシャの赤い炎型の魂を、無造作に蹴り飛ばした。
(ぐえ……)
悲鳴を上げるヒランヤクシャの魂を、さらに適当に蹴り飛ばして弄ぶカルナだ。
「コイツが元凶なのだぞ。文句を言うなら、この犬畜生の魔物にせよ」
ポンポン軽快にカルナが蹴り上げると、ヒランヤクシャの魂が泣き出した。
(ごめんなさい、もう許してくださいカルナさまああああ)
その泣きで興味をなくしたようで、カルナが小さくため息をついた。
「もうちょっと根性ださぬか。まあ、もう飽きたし、解放してやろう」
そう言って、カルナが蹴り飛ばした。
(ああああ、あああ……)
情けない悲鳴を上げながら飛んでいくヒランヤクシャの赤い魂。それが、更地の一角にあるドームテント型の防御障壁にぶち当たった。
(ぐえ……)
弱々しい悲鳴を上げたヒランヤクシャの赤い魂を、ムカスラが摘まみ上げた。かなり小さくなって弱々しくなり果てている。線香花火の最後のような状態だ。
「うわあ……酷い状態ですよ。消滅寸前じゃないですか」
カルナが上空からニヤリと笑いかける。
「ムカスラよ。ヒランヤクシャとかいう魔物だ。飽きたから受け取れ」
ムカスラが両膝を地面につけて頭を下げた。
「確かに、受領いたしました。彼を滅殺しなかった事、マガダ帝国を代表して感謝申し上げます」
そうして、ぐったりしている魂を水筒の中へ吸引する。
「ようこそマガダ帝国へ。ダキニさまも元気にしておられますよ」
ナラヤンが部長たち15人の状態を確認してから、防御障壁の外へ出てきた。カルナと魂状態のラクシュミ、ガネシュに両膝を路面につけて合掌する。スマホ画面で神の姿を見ているのだが、ゾンビ虎はクジャクに戻っていた。
「パトナ市が期せずして浄化されましたね。魔物による爆破攻撃を、カルナさまが受けていたのを見た時は心配しましたが、ご無事で何よりです」
カルナがドヤ顔になって、上空からナラヤンを見下ろした。今は弓も消去していて手ぶらになっている。
「あの程度の爆炎、太陽の表面温度と比較すると冷たいくらいだ。俺が射った矢は10万度くらい出す。ブラーマ様の矢ほどではないが、その次くらいの威力だぞ」
ふええ……と感動して聞いているナラヤンを見て上機嫌になったカルナが、次にムカスラを見据えた。
「ムカスラよ。この神術を食らって平気とはな……驚いたぞ」
ムカスラがナラヤンの隣で両膝を路面につけて合掌しながら、自慢気な表情を浮かべた。
「神術の解析がかなり進んでいるので、マガダ帝国の羅刹には効きませんよ。大半は、ここ最近のサラスワティ様の神術を解析した功績ですけどね」
愉快そうに大笑いを始めるカルナ。
「羅刹はそうでなくてはな! 久しぶりに運動不足を解消できて俺も楽しめた。よって、今回は貴様を滅殺する事は止めておこう」
退避していた救助隊長が転移して戻ってきた。惨状を見て唖然としている。
カルナが救助隊長に告げた。
「さて、この後始末だが……何とかしろ。信者が百万人ほど減るのは困る」
救助隊長が諦観の表情と口調で答えた。
「はい。では、原状回復を行います」
救助隊長が合図を送ると、事前に呼んでいた魔法世界の神官たちが出現した。彼らも更地となって大きなクレーターが生じている現場を見て、ドン引きしている。
それでも法術をかけ始めた。かなり面倒臭そうにしているようだが。
法術が発動していくにつれて、クレーターが埋まっていき、倒壊した建物や寺院が自動で自己修復を始めた。死亡していた人達も自動で蘇生し、ケガ人も同じく自動で治癒していく。
ナラヤンと部長たちが作業の邪魔にならないように、ムカスラが防御障壁を土中に沈めていく。
それを上空から見るカルナが満足そうに笑う。
「うむ。良い後始末だ。また機会があれば会おう。汚物は復元するなよ」
そのカルナの体が光に分解され始めた。少し名残り惜しそうな表情を浮かべている。
「因果律崩壊を先延ばしにしていたが、そろそろ限界か。法術の分も引き受けたから、当然だな」
そう言い残して光に還って消滅した。ラクシュミとガネシュの魂も巻き添えを食らって消滅していった。
(なんで私まで、このような目に遭わないといけませんのー?)
(シヴァ様に言いつけてやるうーっ)
当然ながら、誰も聞いていない。救助隊長が大きく安堵し、深呼吸した。
「何とか任務を完了できそうだ。カルナ様が暴れすぎず、自制してくださったおかげだな。これ以上の因果律崩壊も起きていない。上出来だ」
百万人ほど死んでいるようだが……
さて、数分もするとパトナ市とガンジス河が復元を完了し始めた。死んでしまった人々も復活していく。ただし、まだ時間を凍結しているので何も誰も動いていないが。
救助隊長に促されて土中から地上へ戻ってきたムカスラが、感心しながら防御障壁を解除した。倒れて仮死状態の部長たちが、空中に浮かび上がっていく。
「さすが救助の専門部隊ですね。もう元通りになってますよ」
救助隊長が照れながら軽く肩をすくめた。
「神だけは復活できませんけどね。まあ2日もあれば、勝手に復活するでしょう」
ナラヤンが微妙な表情で頭をかく。
「2日後、騒がしくなりそうですね……学校の宿題とかそれまでに片付けておこうっと」
そのような雑談を交わしている間に、パトナ市の街と人が完全に復元を果たした。死傷者も全員復活して呆然として立っている。その中には部長たちの姿もあった。時間は停止したままだが。
路上の生ゴミや汚水、汚泥などもそっくりそのまま元通りだ。ムカスラが苦笑した。
「あの神官どもめ、嫌がらせだけはしっかりしていくなあ」
「作戦を履行しました。では我々はこれで撤収します」
法術を終えた神官たちが救助隊長に完了報告し、転移して消えた。
救助隊長も部下の隊員たちに撤収命令を下した。こちらの撤収も鮮やかで、ものの数秒で救助隊員が全員転移して消えた。
それを確認した救助隊長が、最後にナラヤンに顔を向ける。
「映像記録や人々の記憶消去も完了しました。パトナの人々にとっては、この戦いは無かった事になります。ナラヤン君も口外しないようにしてください。まあ、口外しても罰則はありませんけれどね」
ナラヤンが目をキラキラさせながら、適当に敬礼をした。
「ハワス、サー。口は堅いのでご心配なく」
「では私も撤収します。ムカスラさん、後はよろしく」
穏やかに微笑んだ隊長が指を鳴らすと、人々が何事も起きなかったかのように動き始めた。車や船も走り始める。同時に救助隊長も転移して姿を消した。
次に、ムカスラがステルス魔法を自身にかけて姿を消す。
「良い経験というか見物ができましたね、ナラヤン君」
ナラヤンがスマホ画面越しにムカスラを見て、満足そうに首をふった。
「ですよね。楽しかったです」
サンジャイ部長たちは少し離れた場所に配置されていたのだが……動き出した人混みの中からナラヤンの姿を見つけて、声をかけてきた。
「お。ここにいたか。ナラヤン隊員、川辺に行こう」
部長たちと会話してみたが、完全にパトナでの騒動は記憶にないと分かった。魔法って凄いんだな……と感心しながら、部長たちと一緒にガンジス河の階段護岸へ向かう。
スマホ画面を見ると、再びゾンビ虎が現れていた。
(そうですか……でもこれでパトナ市が完全に元通りになったと実感できますね)
咬みつかれないように注意しながら指タッチしてサラスワティに電話をかける。サラスワティも情報を得ていた様子で、心配してくれていた。
「パトナ市の病院に配しているミニスワティから緊急通報が届きまして……駆けつけたかったのですが、私が行くとマタンギ化しそうなので。助けに行けずにごめんなさい」
(マタンギ様まで加わっていたら大変な事になっていたかもなあ……)
理解したナラヤンが、簡単に状況を報告した。それを聞いたサラスワティが電話口で安堵している。
「そうでしたか。マガダ帝国軍に感謝しないといけませんね」
その後は、パトナ市の様子を話して談笑を始めるナラヤンであった。部長たちの後についてガンジス河の土手に出ていき、川風に当たる。ヘドロ臭が若干するのだが、許容範囲の様子である。スマホのゾンビ虎は荒ぶり始めているようだが。
土手には他にも多くの群衆が川風に当たって寛いでいるのだが、その中に呪術師ラズカランの姿もあった。チヤ屋台のイスに座っているが、さすがにキョトンとしている。呪術師なので違和感を感じたのだろう。
「あれ?ワシは何をしていたんだっけ……確か、ナラヤンに憑りついているモノを特定するために、こっそりと後を追いかけていたはずなんだが」
チヤをすすってから、首をかしげた。
「何かとんでもない事件が起きたような……あれ?」
スマホを確認すると、動画ファイルや画像ファイルが数十個も壊れていた。しかも、それらが勝手に消去されていく。
これを見て、深刻そうに呻いた。
(……何か起きたのは確実だな。隠者さまの仰る通り、これはワシの手には余る事態かも知れないなあ)
そうとは知らないナラヤンが、サラスワティとの電話を終えた。隣で川風に当たって寛いでいるムカスラが肯定的に首をふった。
「その様子ですと、サラスワティ様も納得したようですね。予想以上に大きな騒動になってしまいましたが、丸く収まりそうで良かったですよ、ははは」
ですよねー……と素直に同意したナラヤンが、ふと疑問に感じていた事を聞いてみた。
「ムカスラさん。この法術による因果律崩壊はどうなったんですか?」
ムカスラがナラヤンから水筒を受け取って、口をつけずに水を飲んだ。
「カルナ様が負担するように細工していますので、我々に被害は及びませんよ。ラクシュミ様とガネシュ様が巻き添えになってしまったのは同情します」
そこへシディーダトリが血相を変えて飛んできた。土手で寛いでいるナラヤンとムカスラを見つけて、上空から急降下して着地する。突風が発生して、近くの通行人が数名ほど吹き飛ばされたが気にしていないようだ。
「パトナが大惨事って聞いたんだけどっ。病人どこっ」
ムカスラが謝る。
「シディーダトリ様の仕事を奪ってしまいましたね、すみません。魔法世界から法術神官を呼んでケガ人を治療してもらいました。今はもう大丈夫ですよ」
ジト目になるシディーダトリだ。背中の白鳥の翼をバサバサさせている。さらに突風が発生して、通行人が追加で数名ほど吹き飛ばされてガンジス河に落ちた。それでもやはり気にしていない。
「かーっ、無駄足かよっ」
ナラヤンが丁寧に感謝した。
「心配してくださって、ありがとうございました。後で果物やお菓子を供物として持っていきますね」
シディーダトリがコホンと小さく咳払いをした。口元が大いに緩んでいる。
「ま、まあ……そういう事なら仕方がないな。後でナラヤン君の部屋へ行くから、そこで供物を受け取るわねっ」




