変身サラスワティ
季節は西暦太陽暦の10月上旬になった。山間地では過ごしやすい気候になるが、平野部だとまだ少し日中は暑い。そろそろティハール大祭が近づいてきているので、市場も活気があって賑やかだ。
今回もムカスラからの要請がきた。ナラヤンがサラスワティに許可を申請し、夜から24時間の論文閲覧を始める。既に変人として有名になっていたので、学校へ登校しても遠慮なく読み上げているナラヤンであった。
放課後になっても読み上げ続けているので、ロボ研のサンジャイ部長が呆れて怒った。
「また奇行をしているのか、ナラヤン隊員。もうすぐパトナのロボ研と試合をするんだぞっ。今はロボのプログラム修正が最優先だ。部室へこい」
パトナはインドのビハール州都だ。ビラトナガル市と接しているインドの州である。
「えええ……」
ナラヤンが困っていると、スマホのクジャクから着信通知が来た。サラスワティからだ。その通知を見たナラヤンが、後で必ず部室へ行きますとサンジャイ部長に答えて解放された。スマホのクジャクに指タッチして応答しながら、ナラヤンがため息をつく。
「部長さんが焦るのは分かるけどさ……人間には能力の限界ってのがあるんだけど。あ。ハローハロー。どうかしましたかサラスワティ様?」
サラスワティの話は、泥人形の神術式が改良されたというものだった。これによって、これまで半日ほどしか憑依できなかったのが、丸一日持続できるようになるらしい。
「カーリーさんたちの強い要望ですね。かなり気に入ったようです。味覚や嗅覚も、さらに人間に近づけました」
同情するナラヤンだ。
「大変ですね。泥スマホの改良作業も並行しているのに」
サラスワティが電話口でクスクス笑う。
「お互いそうですね。それはそうと、これから部活動ですか。論文読み上げに支障が出てしまいますね」
ナラヤンがスマホを持っていない左手の平をクルリと返した。
「ですよねー。まったくもう。ムカスラさんには悪いですが、今回は少数しか提供できそうにありません」
サラスワティが少し考えてから提案してきた。
「では、代わりに私が部活動に参加しましょうか。泥人形に憑依してナラヤンさんの姿に変化すれば、私だと気づかれないでしょう」
驚いたナラヤンだったが、しばらく考えてからお願いした。
「本当に恐縮ですが、よろしくお願いします。泥スマホの改良作業は大丈夫ですか?」
サラスワティが苦笑い気味の声で答えた。
「少しの間離れた方が、気分転換になります」
いったん寮に戻って、ナラヤンの部屋で落ち合う事になった。
(せっかくだから、駄菓子と果物を買っていくかな)
高校の近くにある市場で適当に旬の果物を買い、インド菓子も一人分用意した。これでよし、とナラヤンが部屋に戻ると、サラスワティ人形が出迎えてくれた。
「おかえりなさい。あら。買い物をしてきたのですか」
照れて顔を赤くしたナラヤンが、果物と菓子を供物として捧げた。
「急いで買いましたので、品質があまり良くないかもしれませんが……どうぞ」
サラスワティ人形がコロコロと笑って、供物に手をかざす。
「気を遣いすぎですよ。ですが、ありがたくいただきますね」
サラスワティ人形が満足そうな表情で礼を述べたので、冷蔵庫に入れて保管するナラヤンである。そしてスマホと水筒の水の量を確認してから、サラスワティ人形に両膝をついて合掌した。
「では、お願いします、サラスワティ様」
「はい」
サラスワティ人形が右手をナラヤンの頭にかざした。瞬時にナラヤン本人とそっくりの姿に変わる。
おお……と驚いているナラヤンに、擬態ナラヤンと化したサラスワティが自身の服装をチェックした。
「……大丈夫そうですね。では、ナラヤンさんは私の水筒の中で仕事を続けてくださいな」
ナラヤンが体ごと、サラスワティの持つ水筒に吸い込まれた。中は昼間のように明るく、空調も効いている。
「僕の部屋よりも居心地が良いかも……さて、読み上げの続きを始めようっと」
しかし、最近は何でもアリになりつつあるよなあ……とも感じるナラヤンであった。
その間、ナラヤンに擬態したサラスワティがロボ研に行った。
「こんにちは。少し遅くなりましたが、今から作業を始めますね」
そう言って部室内の席に座り、プログラムの動作確認と修正をバリバリ行い始めた。
部員が気味悪がって、擬態ナラヤンから離れていく。
「な、何だ何だ。いきなり態度が上品になってるぞ。しかも女っぽい口調なんだけどっ」
ネパール語には名詞や動詞に性別はなく、『私』も男性女性共通である。ヒンディー語は違うが。
恐れ慄いている部員たちを落ち着かせたサンジャイ部長が、嬉しそうに擬態ナラヤンの肩をポンポン叩いた。
「ナラヤン隊員が再び覚醒したぞ。コイツはやればできる子なんだ。皆も気合を入れて作業するように!」
実際、ロボの制御が格段に向上して安定し、操縦者の意図通りに素早く動くようになった。部長がロボを操縦して感動している。
「でかしたナラヤン隊員! これで強豪のパトナに勝てるぞ」
意気込む部長。部員たちもすっかり機嫌を良くして一緒にはしゃいでいる。
「ナラヤン隊員の頑張りに応えて、操縦訓練をもっとするぞ」
「おおー!」
そうこうするうちに部活動の時間が終わった。部長や部員たちは就職活動をしに行く。部長が上機嫌な顔で擬態ナラヤンを褒めた。
「良い仕事ぶりだったよナラヤン隊員。また明日も頼むぞ」
擬態ナラヤンが肯定的に首をふって応えた。やはり仕草が女の子だ。
「お役に立てたようで、私も嬉しいですよ。ではまた明日」
擬態ナラヤンが寮へ戻ると、今度は放送部のジトゥがやって来た。
「よお、ナラヤン。ちょいと手伝ってくれー。ロボ研の部員から聞いたぜ。今日は頭のキレが絶好調なんだってな」
「構いませんよ。夕食の前に済ます事ができるのでしたら、喜んで手伝います」
キョトンとした表情になるジトゥだったが、すぐに擬態ナラヤンの肩に腕を回した。
「本当に、女っぽくなってるのな。まあいいや。よろしく頼むぜ」
ジトゥに引き回されて、寮内の固定電話やジトゥの知り合いのバイク、自転車の修理を頼まれた。
擬態ナラヤンが平然と首をふる。
「この程度でしたら、すぐに直せますね。ちょっと待ってくださいな」
テキパキと修理していく。
その姿を見たジトゥと寮生が顔を見合わせた。
「ごくたまに優秀になるよなナラヤンって」
「だよな」
修理を済ませた頃には夜になっていた。ジトゥたちが喜んで感謝し、擬態ナラヤンにジトゥが封筒を手渡した。
「ありがとうな。謝礼だ。次もよろしくな」
封筒を受け取って、金額を確認した擬態ナラヤンが少し驚いた表情になった。
「あら。こんなにたくさん。よろしいのですか?」
ドヤ顔になるジトゥだ。
「俺が責任をもって、相場の値段で徴収したからなっ。当然だ。あ。ちょいと仲介手数料は差っ引いてるけど、気にするな」
それじゃなー、と元気に手をふって去っていくジトゥ。擬態ナラヤンも手をふって見送り、嬉しそうに首をふった。
「こういう報酬のあるお仕事も、たまには良いものですね」
部屋に戻ってしばらくすると、24時間を終えたナラヤンが水筒の中から電話してきた。擬態ナラヤンが泥スマホをポケットから取り出して、電話に出る。
「今回も無事に終えたようですね、ナラヤンさん。お疲れさまでした」
ナラヤンが水筒の中で背伸びをしてから答えた。
「ちょうど今、ムカスラさんにファイルを送信した所です。模写用の紙とペンも用意してくれたんですね、ありがとうございます。今回もなかなかに疲れました」
了解した擬態ナラヤンがナラヤンを水筒から出した。
「お腹が空いているでしょう。食事を摂りにどこかへ行きませんか?」
水筒から出たナラヤンが自室の冷蔵庫の中を確認して、頭をかきながらうなずく。
「そうですね……食材を買っておくべきでした」
擬態ナラヤンが今度は16歳の色白美少女に変化した。白いサルワールカミーズの裾を揺らす。
「実は食事を楽しみにしていたんですよ」
しかし、ナラヤンが時刻を確認して軽く嘆いた。
「うー……もう夜遅い時間なんですね。この時間ですと、インド側バスターミナルの食堂街くらいしか営業していないかな。それでも構いませんか?」
ご機嫌な表情で肯定的に首をふるサラスワティ人形である。
「はい。ではそこへ行きましょう」
ナラヤンが自転車をこいで、インド側に入ってバスターミナルへ向かった。サラスワティ人形が体重を消去してくれているので、ペダルが重くない。
インド側はジョグパニ市なのだが、学生証の提示だけで越境できる。国境の町なので、インドやネパールのあちこちへ向かう夜行バスが多く発着しているのが特徴だ。その中にはパトナ行きバスもあった。ポカラ行きのバスもあったのだがこれは既に発車していた。
このバスパークの周囲では24時間ずっと屋台が営業している。イスラム教徒が多い町なので、牛料理も堂々と売っているのがビラトナガル市内と違う点だろうか。その代りに豚料理はほとんど見かけない。
その屋台を巡ってからビハール料理の飯屋へ入った。自転車を駐輪場に停めて、厳重にチェーンロックをかける。
「よく利用している飯屋です。この辺りはイスラム教徒向けの飯屋が多いので、このビハール料理店が行きつけの店になっています」
イスラム料理店では牛肉を使ったメニューがあるので、気を遣ったのだろう。ナラヤンがサラスワティ人形を店内に案内した。
店内では多くの旅行客が食事を摂っていた。掃除が楽なようにテーブルにはテーブルクロスはかけられておらず、材質もアルミ製だ。そのため天井の照明を反射してキラキラ輝いている。
この店では自由席なので、ちょうど空いているテーブルを探して座る。ナラヤンがメニュー表を手にして話しかけた。
「飲み物ですが、水にしますか? それともチソか何かにしましょうか」
サラスワティ人形が店内を見回してから、気楽な表情で答えた。
「見た所、油をたくさん使った料理が多そうですね。水の方が良いかな」
「そうですね。では水という事で」
料理はナラヤンが二人分の量で注文する事にしたようだ。
「やはり、ご飯料理が欲しくなりますね。山羊肉のビリヤニにしましょう」
ビリヤニは、香辛料と肉などの具材を加えた炊き込みご飯である。サフランなどで色つけしているので、見た目が派手な料理だ。焼き飯もあったのだが、こちらは油を多く使っているので遠慮したのだろう。ビリヤニにも結構多くの油を使っていたりするのだが。
これにパコラ、アルチョカ、ニガウリの香辛料炒め、葉野菜のスープカレー、里芋のフライ、ココナツのヨーグルト和えを小皿で少量ずつ注文した。
パコラには様々なものがあるのだが、今回は野菜と小魚のかき揚げだった。
アルチョカはマッシュドポテトにインゲンやタマネギ、ニンニク、乾燥唐辛子などのみじん切りを和えたものである。
葉野菜のスープカレーは、湯通しした葉野菜をミキサーにかけてから香辛料と調味料を加えて煮込んだものである。この店では、軽く炒めたパニールという白い生チーズとヨーグルトをトッピングしていた。
ビリヤニの量は結構あるのだが、オカズの方はどれも少量ずつである。足りなければお代わりするという形式だ。
少し待つと料理が一斉に運ばれてきた。ナラヤンがご機嫌な表情になる。
「料理を見ると、お腹が空いてきました。ではいただきましょう」
食事の前に手を洗って、タオルなどで手を拭かずにそのままテーブルに戻ってきた。
サラスワティ人形も同じ事をしてから食べ始めた。基本的に右手の指先だけを使って食べる方法だ。すぐに笑顔になった。
「やはり実体化すると、食事が美味しく感じられますね。供物を我慢して正解でした」
ナラヤンも手で食べながら、ほっとした表情になった。
「口に合ったようで良かったです。ビハール料理って、香辛料や油の使い方がネパールと違うんですよ。より刺激的というか」
二人とも食事のお代わりはせずに、そのまま食べ終えた。水を一気飲みしてから、手を再び洗いに行く。
テーブルに戻ってきたサラスワティ人形が、ポケットから封筒を取り出した。ジトゥに仕事を頼まれたのだと説明する。
「今日の稼ぎです。どうぞ」
ナラヤンが封筒を受け取って、中を確認して驚いている。
「結構な金額じゃないですか。ジトゥめ、無茶な仕事を押しつけたな。すみません、サラスワティ様」
サラスワティ人形が微笑んだ。
「頑張りました」
実は飯屋でも、サラスワティ人形はその美貌で客の注目を浴びていたようである。その彼女が彼氏と目される男にお金を差し出したので、ブーイングが起こった。
ナラヤンが慌てて客たちに必死で弁解する。
「僕はヒモじゃありませんよっ」
コロコロ笑っているサラスワティ人形である。




